19話
インターンが始まってから一週間が経過した。道具の片付けは進み、乾燥や手入れが終わった道具を仕舞っていく。
「この櫂はこちらで大丈夫でしょうか?」
「はい、大丈夫ですよ。あと干し場にどれぐらい残ってましたか?」
「えっと……櫂があと三本ぐらいで、干している分は終わりですね」
「そうですか……では、そちらを棚に仕舞い終われば、頭へと報告をお願いします」
「はい、わかりました!」
返事をして、再び干し場に移動する。気持ちが逸り、少し早足になりながら櫂を回収する。これが終われば……そう、父が約束してくれた、タンクを見学する時間である!
「道具の収納、完了しました!」
「そうか……ご苦労だったな」
父がタブレットを眺め、暫し固まる。画面にはいくつもの数字やグラフが描かれているのがちらりと見えた。父が動き出したかと思うと画面をスライドさせただけで、顎に手を当てて再び固まる。
私は手を前に揃えてそわそわしながら待機していると、父がタブレットを仕舞いこちらへと向いた。
「ふむ……では、今から醪の様子を見に行くから、付いてきなさい」
「はい!」
仕込み蔵……タンクが置いてある部屋に入る前に衛生キャップとマスクを装着し、この部屋専用の長靴へと履き替える。
更に、作業服を着替えて粘着ローラーを全身に転がしてゴミを取り除き、腕を肘のところまでしっかりと洗い、アルコールで消毒を行なって……更に消毒液のマットを踏み、激しい風が吹き付けられるエアシャワーを浴びながらその場で回転しつつ服を叩き、埃を払ってからようやく部屋の中へと入ることができた。
「なんだろう……部屋に入るだけなのに、結構疲れるね……」
「なら、見ずに戻ってもいいんだぞ? では、次は瓶詰め後の瓶に……」
「わぁ、見るってば! ちゃんと見ますってばー!」
「くく……だったらこっちだ。よそ見をしすぎてはぐれるなよ?」
仕込み蔵の中の空気は少し肌寒く、まるで季節が少し戻ったようだった。見渡すと大小様々な金属製のタンクが並んでおり、父に案内された二階……タンクの上部を確認するためにある天場と呼ばれる作業用の通路の一角には、一階からそびえ立つスマートなタンクの蓋の部分だけが、ずらりと列をつくって並んでいた。
タンクの蓋はハッチになっており、ホースのようなものが繋がっていた。父がそのうちの一つにあるスイッチを押してライトをつけてから、中の様子をハッチについているガラスの窓を拭いてから覗き込む。そして、すぐに手招きで私を呼んだ。
「……遥、これが大吟醸の醪だ」
慎重にタンクの中を覗き込む。中は表面にごく薄いきめ細かい泡が覆っている。よく見ると泡はすぐに弾け、次々に泡が湧いているように見えた。更によく見てみると、泡の勢いでとろみがある醪が対流しているようにも見える。
「これが……お父さん……じゃなかった。頭、これは仕込んでからどれぐらいのものですか?」
「これは11日目のものだな。あまり泡が出ないような酵母を使っていて、低温で香りを閉じ込めて逃げないようにしている」
そう言い、少し離れたタンクへと移動した。
また手招きをされて覗き込むと、そのタンクの泡は先ほどのタンクとは違い、小さな泡が表面に点在しており乳白色の滑らかな液体が顔を出している。
「これは仕込みから四週間を過ぎたもの……もうすぐ搾りの時期を迎えるものだな。いつ搾るかは、毎朝のデータだけではなく杜氏が味を確認してから決めている。次は本醸造のところに行くぞ」
非常に貴重な機会。正直、もう少し見ていたかったが……。父について行き、次は大吟醸のタンクの数倍はある大きなタンクの中を覗かせてもらう。
「……どれも、ほとんど泡が立たないんだね」
液の表面は炭酸が抜けかけたサイダーのように、小さな泡が上がるだけの非常に穏やかなものだった。
「ああ、昔ながらの方法と違い、今はそれほど泡は立たないさ。まあ、多少は出るのだがな……これは三週間目だが、明日搾る予定のもので落ち着いている。そして俺たちの仕事は、この細かい違いを観察し、見分けて、整えて、時には見守り、導く必要がある」
父の顔を見る。そこには、今までに見たことが無い真剣な目をした父の姿があった。
「……こういう世界だ」
部屋の空気の温度が、更に下がった……そんな気がした。
「……ありがとうございます。では、質問してもよろしいでしょうか?」
だが、怯んではいられない。深呼吸をしてからしっかりと父の顔を見ながら聞き返すと、父の目元が柔らかくなった。
「いいだろう。答えるのは言える範囲だがな」
「ありがとうございます。では、こちらの発酵の温度は何℃で行なっていますか?」
「先ほどの本醸造のタンクは9.6℃だ。明日の搾りに向けて、これ以上味が変わらないようにギリギリまで冷やしこんだ温度だな。発酵中のものは、タンクごとにコンマ1℃単位で管理している。発酵が進むにつれて様子を見ながら品温を変えていくのが基本だ」
「では、大吟醸クラスのものと本醸造のものでは、発酵の温度に違いは……」
家に帰ればいくらでも聞けるだろう。しかし、今、この場で、職人としての父から聞かないと意味が無い。
そんな気がして、許される限り父の仕事を観察し、質問する。だが、そんな楽しい時も終わりを告げ、帰る時間となってしまった。
帰り支度をして、父と共に玄関先で蔵の人にお辞儀をしながら挨拶をする。
「お疲れ様」
「お疲れ様でしたー……」
「頭、お疲れ様でした。遥ちゃんもお疲れさん。大丈夫かい? 何だか元気無いみたいだけど」
「あ、大丈夫です!」
「そうかい。では、また明日ね」
「はい、ありがとうございました!」
再びお辞儀をしてから助手席に乗り込む。シートベルトを装着するが、頭の中は父から聞いた事でいっぱいになっていた。
「遥、今日もお疲れ様」
父が運転席に座ると、すぐに頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「うん……お父さんも、お疲れ様……。いつも、あんなふうにお酒を管理してるの?」
「ああ、そうだぞ。どうだ、俺のことを見直したか?」
「そういう事を言わなければ、凄く見直したかなー?」
「おっと、失言だったか」
くすくすと笑っている間に、父は車を進め始めた。
「あ、そうだ。明日、あのお酒を搾るって言ってたけど、もしかして搾るところを見せてくれたりするの?」
あの量の酒を、機械で豪快かつ繊細に搾る光景……是非とも見てみたい。
「いや、すまんがそれは無理だな。今日の醪の見学だけでも、かなりの特別待遇なんだぞ。あと、搾り作業は自動圧搾機で行うが……搾りの準備もあるし、搾った後の粕剥ぎとなると時間との勝負の大仕事だ。それだけの時間を見学だけさせて、労働力を無駄にするわけにもいかん」
「そっか……残念……」
「それに何より……今日と同じか、それ以上に衛生面で気をつける必要がある。お前も微生物について勉強しているなら、わかるだろう?」
「はい……ごもっともです……」
確か、搾る過程はお酒が最も無防備になる作業。お酒の中に雑菌……特に、お酒をダメにする火落ち菌や、味や香りを変えてしまう野生の酵母が入ってしまうと、全て台無しになりとんでもない事になりかねない。
万が一があれば父の責任問題どころではなく、蔵全体の死活問題となってしまう……。父の判断も当然の事だった。
「なら、明日からの作業は何をすればいいのかな?」
仕込みに使った道具の片付けは終わり、タンクについても見せてもらえた。搾りは手伝える事が無いので、他に私に出来る作業……。何があるのだろうか。
「喜べ。吟醸酒や大吟醸に関わる仕事がちゃんとあるぞ」
「えっ!」
「出荷直前のラベル貼りと箱の組み立て。それと、瓶の箱への封入だな」
「え゛っ……」
「しかも、量はたっぷりある。他のインターン生も合流するから、協力して頑張れよ?」
こうして、インターンの残り期間は内職をして過ごす事となった。廊下に出るたびに火入れによる熱燗のような甘酸っぱい香りが、ほのかにどこかから漂ってくるような中……ひたすら単純作業を繰り返す日々をおくった。そこから解放された頃には、他のインターン生とは腰痛仲間になっていたのだった……。




