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遥なる酒  作者: かきのたね


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2/22

1話

 あの日からずっと、私は疑問を抱えたままだ。

 祖父はなんで逃げなかったのか? そこまでして守りたかったものなのか?

 何もわからない……私も祖父と同じ目線で見ればわかるのだろうか……?

 いつしか疑問は憧れに変わり、祖父の背中を追いかけ……私は酒造りを学ぶ大学生になっていた。


「よう、本田! 今日が誕生日なんだって? やっと酒が解禁だな! お祝いに、授業で造ったワインの発酵が終わったから、お前も飲んでいかねぇか? ちょうど、教授とテイスティングするんだよ」


「え、シャルドネを使ったやつだよね? あー……でも、ごめんね! 最初に飲むお酒はお父さんとの約束があるから、また今度ね!」


「了解! あー、すげぇいい出来なのに、残念だな」


「あはは! 最初に飲むのを約束してるってだけだから、私の分も取っておいてね? 今日は、本当に大事な約束なんだ……。じゃ、また明日ね!」


 笑顔で小さく手を振った後、鞄を肩にかけて勢いよく講義室を飛び出し、階段を駆け降りる。

 自転車に跨がり、ペダルを力一杯踏み込んで正門を飛び出した。大学の近くにある川沿いを下流に向かって進む。


 私の地元……淡路島ではレタスや玉ねぎの栽培が盛んだ。

 帰り道、川沿いの風に揺れる稲穂が夕陽を受けて金色にきらめき、その向こうでは青々としたレタスが育っている。地元で有名な玉ねぎは、まだ苗を育てている段階なのだろう。作業に精を出す人々の姿が、長閑な自然の中に溶け込んでいた。

 見慣れた光景を横目で見つつ、田んぼの土の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、狭い道を駆け抜ける。


 いつもよりペダルを漕ぐ足に力が入る。やがて、磯の香りが混じった慣れ親しんだ潮風を全身に浴び、私は息を切らしながら家へと辿り着いた。

 そして……自転車を乱雑に止め、勢いのまま扉を開けた。


「お母さん、ただいま!」


「おかえりなさい。お父さんは、もう少ししたら帰ってくるわよ。あら、噂をすれば」


 話している最中に外から車が止まる音が聞こえる。少し遅れてから扉が開いた。


「ただいま。(はるか)、先に帰っていたのか」


「うん、タッチの差だけどね?」


 父はどこかぎこちなく目線をそらせながら言った。


「そうか……誕生日おめでとう。約束の酒だが、別に今日でなくてもいいんだぞ? それに……無理に開ける必要もない」


「うん……お祖父ちゃんが、あんなに大事にした酒の味を知りたくて。どうしてあれほど大切に守ったのか、確かめてみたいの」


「……そうか。用意するが、中身はどうなってるかわからん。覚悟はできているのだな?」


「うん、お父さん……さすがにしつこいよ? 私は、ずっとこの日が来るのを待っていたの。どんなお酒だったとしても、受け入れる準備はできているから」


 何度も確認する父の目を真っ直ぐ見つめる。


「はぁ……お前ってやつは……。先にリビングに行ってくれ。着替えてから持っていく」


 父は少し目を逸らして、自室に入っていった。

 自室にある酒専用の冷蔵庫で、その時を待つ酒を冷やしているのだ。


 そして、私がリビングで待っていると、まるで宝物のように木箱を抱えて持ってきた。

 父は硬い表情を崩さず、震える手で箱を抱えていた。


 木箱は発見した当時のものではなく、白木の箱で組紐でしっかりと結ばれており、父がどれだけ大事にしているのかを一目で見て取れた。


 テーブルにゆっくりと木箱が下ろされ、組紐がほどかれる。

 目を閉じて、深呼吸を一つ。手のひらが汗で滲み、自分の心臓の鼓動が聞こえる中で、ゆっくりと蓋が持ち上げられた。


 中から現れた黒い瓶のラベルは朽ち果てており、何かが書かれていた痕跡を遺すのみ。

 注ぎ口を防ぐ中栓はアルミの冠頭(かんとう)で包まれて固定され、瓶の中身が誰の目にも触れたことがない事を示している。


 父が私に目配せをして、小さく頷く。そして、三十年という長い歳月、祖父の思いを守り続けてきたアルミを丁寧に取り除き、開封まで後は中栓が残されるだけとなった。


「ふう……。よし、じゃあ開けるぞ」


「うん……」


 父が力を入れるが、なかなか中栓は動かない。

 少しずつ動かしていき、やがて……。


  きゅぽっ


 待ち望んだ瞬間の音は、想像よりもずっと軽かった。開けた瞬間、注ぎ口からは湯気のようなものが見えた気がする。そして、父は鼻を近づけて注ぎ口を手であおぎ、匂いを嗅いだ。


「おいおい……これは……。静香、ワイングラスは何処にあった?」


「雄一郎さん、下の棚にありますよ」


 父は用意していたお猪口(ちょこ)を片付け、棚から小ぶりのワイングラスを取り出した。

 乾いた布でワイングラスを拭いた後、静かに日本酒が注がれる。


 その色は淡く透き通った黄金色をしていて、光を透かすとまるでトパーズのように輝いて見えた。


「これが、お祖父ちゃんの日本酒……」


 ワイングラスを揺らし、鼻を近づける。知っている日本酒の香りと全然違う……。穀物のような感じやメロン等のフルーツ感は一切感じない。


 その代わりに、ドライフルーツやナッツのような香りが鼻を抜ける。

 しかし、少しくすんだ……まるで薄く醤油を焦がしたみたいな匂いが仄かに奥で広がっていた。


「何だか不思議な香り……。ねぇお父さん、これは何の香りなのかな?」


 父を見ると、驚いた表情で固まっていた。


「お父さん?」


「え? ああ……すまん。熟成させた日本酒は、元とは全然違う香りになるんだ」


「ふーん……」

 

 次はワイングラスを傾けて、少しとろみのある酒を一口含む。口当たりは滑らかで、舌の上に穏やかな旨味が広がる。そして喉の奥へとするりと入り、僅かに感じる喉が焼け付くような感覚。

 さっき嗅いだ時よりも、鼻から抜ける香りが鮮明に感じられた。


 そして口の中には残っていないのに、舌の上に何処か懐かしい優しい甘みと旨味がふわりと広がる。


「うーん……?」


 多分、美味しい……とは思うのだけど、凄く美味しいかと聞かれたら、わからない。他にお酒を飲んだことがないから、いまいちピンと来ないのだ。それに子供の頃から、ずっと期待していたような感動も無く、胸の奥にずっとあった特別な味のイメージとは、どこか違っていた。

 疑問に思って父に聞こうとすると、父は震える手でワイングラスを持ちながらこちらを見つめていた。


「遥……。正直言うと俺はな……あの時から、親父の酒を確認するのがずっと怖かったんだ。山の過酷な環境で、どうしようもないクズみたいな酒になってしまい、親父の命が、覚悟が無駄になるんじゃないかと……」


 父はワイングラスに残った酒を一気にあおり、そしてテーブルに置いた。


「悪くならないなんて、普通はあり得ない……。だが、親父は守り抜いた……親父が残したかったものは、全部失われてなんか無かった」


 父の頬から雫がテーブルに落ちる。


「この酒は――間違い無く最高の酒だ」


 こんな父の顔を、私は初めて見る。この時、祖父の思いは、間違い無く父の心に届いていたのだと思う。

 頭では理解できる。亡くなった自分の父親が遺した酒が、ダメになっていなかった。確かに、涙が流れるほどの想いが溢れるのもわかる。

 けれど……父の言葉。父の様子。おそらくは、それだけではないはずなのだ。私は手を握り締めこの酒の意味を理解しようとしたが、答えはまだ遠くにある気がした。

読んでいただきありがとうございます!

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