プロローグ
70,000文字を超えたので、書けた分を2時間おきに連続投稿します。
私には、一度も会ったことがない祖父がいる。
写真の中の祖父は、決まって同じ笑顔で笑っている。
少し照れくさそうで、それでもどこか誇らしげな顔だった。
けど、その人と同じ時間を過ごした記憶は、私の中には一つもない。
ある冬の朝に大地が揺れ、すべてが失われた。
家も、暮らしも。そして……祖父の命も。
だが、私はその光景を知らない。
知らないまま、祖父に会うはずだった未来だけが、先に終わっていた。
その日のことを、私は何度も父から聞かされてきた。
毎年、同じ日になると、父は決まって酒を用意し、同じ話を繰り返す。
「親父はな、酒造りの名人だった」
誇らしそうに……けど、少しだけ苦い顔で、いつも呟く。
「家族より酒を優先するような、どうしようもない親父でな」
そう言ってから、言葉が詰まったかのように、少しだけ間を置く。
「それでもな……」
そこで、いつも必ず声が柔らかくなっていた。
「孫が生まれたら……一緒に飲もうと、親父が言ってた酒があったんだ」
何か特別な酒だったらしい。
父の結婚には間に合わなかったため、次の区切りにはと用意したという酒。
けれど、それも……瓦礫の下に消えてしまったと……。そう、私は何度も聞かされて過ごしてきた。
やがて……時が経ち、祖母がいなくなった春が過ぎた頃。子供だった私は、その場所に立っていた。
六甲の山の空気はひんやりと冷たく、夏が近いはずなのにここだけ時間が遅れているみたいだった。
崩れた家の跡は思っていたよりも広く、そして静かで……石と木材が折り重なり、かつて家だったものは、ただの形のない塊になっていた。
その隙間を、細い水の流れが走っていた。どこから湧いているのかも分からない水が、瓦礫の間を縫うように。
「……これが、あの時のままか」
父が小さく呟く。その手には、古びた軍手。もう何度も使われてきた、擦れて汚れたものだった。
「親父……迎えに来るのが遅れて、すまない」
誰に聞かせるでもなく、そう言ってから、父は瓦礫に手をかける。
すべてが水を含んで重くなっているようで、一つ持ち上げるのも複数人で慎重に動かす。そして、そのたびにじわりと冷たい水が滲み出ていた。
「おい、気をつけろ。足元、かなり滑るぞ」
手伝いに来てくれた父の友人が声をかけた。ぬかるんだ瓦礫の下は踏み込むたびに泥が跳ね、靴が沈みこんでいる。
作業は、思うように進まない。崩れた材木は水を吸って重く、石は滑り、足場は悪い。
ひとつ動かすだけでみんな息が上がるが、誰一人文句を言わずに頑張っている。
しかし、幼い私はそれをただ見ているだけ……。
木片が顔に当たり傷がついても、父は黙って手を動かし続けていた。
そして、昼はとっくに過ぎて夕方が近づいた頃の事だった。
「……おい」
父の声が周囲に響いた。それはいつもの調子ではなく、どこか焦りを感じる。私は思わず顔を上げ、その様子を見守っていた。
父は崩れた梁の下を見つめ、友人達の協力の下、慎重に周囲の木材をどけていく。
やがて……布らしきものが見えた。色の褪せて、ドロドロになった、古い布団。その上に、何かが覆いかぶさるようにして倒れていた……。
父の手がほんの一瞬だけ止まる。
それから、ゆっくりと……崩れないように、崩さないように、時間を巻き戻すみたいに周囲を取り除いていく。
やがて、その全身が姿を現した。水に濡れながらも、父が帰ってくるのを待っていたかのように、奇跡的に崩れずに残ってくれていた。
父はそれを見て、何も言わず……ただ、立ち尽くしたまま長く、ゆっくりと息を吐いた。
そして、父の友人達も見守る中、父が一つ一つ……確かめるように祖父の遺骨を拾い上げ、それから、用意していた木箱の中へと納めていく。
半分ほど回収した頃、父が止まる。そして、慎重に布を捲りあげた。その視線の先を、私も追う。
布団の下。祖父が覆いかぶさるようにしていた、その奥。そこに、木箱があった。
三つ。
今にも崩れそうな……しかし、今までずっと護られていたかのように、形を保ったまま、静かにそこにあった。
蓋の隙間から、冷たい水が細く流れ込んでいる。まるでずっと、冷やし続けられていたみたいに。
そして……
「……親父らしいな」
父がかすれた声で、そう言った。父は、しばらくそれを見つめ、それから小さく笑った。……まるで泣くみたいに。
「……酒なんか守ってないで、自分を守れよ」
誰に言うでもなく、そう呟く。けれどすぐに、首を振った。
「いや……違うな」
手を伸ばし、箱に触れる。水に濡れた木が、静かに軋む。
「守ったんじゃないな」
その声は、どこか納得したようだった。
「きっと……残したかったんだろうな……。親父……」
私は、その父の目元が光る横顔を、一生忘れない。それと同時に、強く疑問に思った。祖父が自身の命よりも、どうしてこれを残そうとしたのだろうか。
その頃の私は、父の思いも、祖父の遺志も、何も理解することが出来なかった。




