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遥なる酒  作者: かきのたね


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13/22

12話

 水族館に行く日がやってきた。朝方の冷たい潮風が肌に鋭く刺さる。

 動きやすい格好にダウンを着た父。よそ行きのちょっとお洒落な服を着た母と私。そして……

 少し離れた場所に、普段とは違う大人っぽい服を着て、落ち着いた雰囲気の凛ちゃんが立っていた。一瞬体が固まり呼吸が詰まる。


「おばさん、お誘いありがとうございました。今日は、よろしくお願いします」


 少し声は硬いが、そう言って頭を下げている。今日、凛ちゃんと一緒に出かけるなんて一言も聞いていない。

 私は大きく冬の冷たく乾いた空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


「お、凛ちゃん。久しぶり。綺麗になったね」


「あ、おじさん……。お久しぶりです」


 父よ。ちょっと今はその言い方はやめて欲しい……。母も笑顔のまま、父の脇腹を凛ちゃんから見えないようにつねっている。しかし、ダウンが邪魔で全然効いていなさそうだ。


「ほんとうに、数年見なかっただけで、随分と大人っぽく……」


「雄一郎さん? 外は寒いのですから、早く車に入りましょう?」


 穏やかな笑顔のはずなのに、目が全く笑っていない。凛ちゃんもそれを見て苦笑している……。耳まで熱い。私は、思わず顔を両手で覆ってしまった。


「お父さん……早く行こう。ね?」


「あ……ああ、そうだな」


 父が運転席に乗り込み、母が助手席に座る。


「凛ちゃん……。なんか、お父さんがごめん……」


「ううん。おじさんも、相変わらずだね……」


 ……会話のきっかけは欲しかったが、こんな形は求めてなかった。


「じゃ、乗ろっか……」


「うん……」


 だけど……お互いの顔を見て、少し困ったように微笑みあった。ほんの少しだけ、父に救われた気がした。

 私達が後部座席に乗り扉を閉めると、エンジン音と共に出発する。

 車内では、カーナビから流れる適当な朝の番組の出演者の声が響いている。

 私と凛ちゃんは、少し手を伸ばせば触れ合える距離で、お互いに反対の方向を向いて外の景色を無言で眺めていた。


 住宅地を抜けると、田んぼと畑ばかりの景色が広がる。遠くには低い山が連なっていて、どこを見ても似たような風景が続いていた。高速に乗っても、それはほとんど変わらない。

 ただ、車だけがやけに速く進んでいく。


「この辺りは、いつ見ても変わらないね」


「……そうだね」


 代わり映えしない故郷のこの光景も、いつかは変わっていくのだろうか?


「ここは俺たちが引っ越した時から、ずっとこのままだな。そうそう簡単に変わるものでもないさ」


「そっか……」


 そして、いくつかの左右を緑で挟まれた道を進む。会話もなく、ただ時間が流れていった。

 やがて、島と向こうを繋げる大きな橋が見えてきた。


「凛ちゃんは、向こうに行くのはかなり久しぶりなんじゃないか?」


「あ、はい。前に一緒に連れて行ってもらって以来ですから……三年ぶりでしょうか」


「そうか。どこか他に行きたいところがあれば、遠慮なく言ってくれ」


「いえ……大丈夫です。ありがとうございます」


 橋に差し掛かると、横を見れば海が広がっている。しかし、凛ちゃんの視線は開放的な海の方ではなく、運転席越しに橋の先。様々なビルが建ち並ぶ街の方をじっと見つめていた。

 だが、橋を渡り終わるとすぐさま長く薄暗いトンネルに入り、何も景色は見えなくなる。抜けたかと思うと、更にいくつかのトンネルが続き、暗がりから解放されるとすぐに高速道路を降り、そのまま海岸線へと向かった。

 そして、ずっと座っていて体が硬くなった頃……。ようやく、目的地の水族館の綺麗な建物が見えた。


「お父さん、運転お疲れ様!」


「ああ、ありがとう。今日はシャチを見ながら食べれるレストランを予約しているから、予約の時間は……午後一時だな。それまでは自由行動としようか」


「はい、パンフレットと入場券よ。十分前までに、レストランの前に集合ね?」


 こうして私達は入場した。

 地図を見ながら私がまずは向かったのは、水槽の中を縦横無尽に泳ぐ魚……ではなく、可愛らしいペンギンやアシカ……でもなく……

 イルカのエリアを通り抜け、水流に流されながら、ゆらゆらと光を浴びて幻想的に輝く……クラゲのエリアへと真っ直ぐに移動していた。


「……遥ちゃんも、こっちに行くんだ」


「うん……。行かないといけない。そんな気がしたから」


「そう……。うん、じゃあ……一緒に行こっか」


 そして、私達は辿り着いた。クラゲ達が青い光を身に受けて、淡く光る水槽の前に。


「……綺麗だよね」


「うん……」


 二人で横に並び、沢山のミズクラゲがゆらゆらと漂う水槽を眺める。


「結構前のことだけど、時間になったから帰るよーって言ったのに、凛ちゃんが水槽の前から離れなくて置いてけぼりになりかけたことがあったよね」


「一体いつの話をしてるのよ……あんたなんて、ペンギンの口の中のトゲトゲを見て、こわーいって泣いてたじゃないの」


「それを言うのは反則だよ」


「それはあんたが言うな」


 どちらからともなく少し笑って、顔を見合わせた。


「遥ちゃんはさ……寿命がない、若返るクラゲがいるのって知ってる?」


「ううん」


「ベニクラゲっていう小さなクラゲでね……寿命が来そうになったら子供に戻って、また成長を始めるんだってさ」


「そうなんだ」


 話をしながら、次の水槽へと移動する。そこでは、タコクラゲが元気に泳ぎ回っていた。


「遥ちゃんは……子供の時に戻れるのなら、戻りたいって思ったことはある?」


「私はない……かな」


「そっか。私は……あるよ」


 隣を見ると凛ちゃんが水槽に手を伸ばしていた。青い光に照らされた顔は、何処か儚げに見えていた。


「お母さんが元気だった頃に戻れたらいいのに、って。あの時、すぐにああしていれば……」


 あの時のことを思い出す。ドアを叩く音と凛ちゃんの泣き声。それに気が付き、急いで母が飛び出したが手遅れだった、あの日のことを考えると……何も言えなかった。


「これって、逃げなのかな……考えてしまうことは悪いことなのかな……」


 凛ちゃんが手を握りしめていた。会話は途切れ、二人とも視線は穏やかに漂うクラゲを追う。


「そういえばさ、前にニジクラゲの話をした時を覚えてる?」


「うん。たしか、お父さんとどんな話をしたのかって聞いてきたよね」


「うん……あのあと、私も親父と話をしてみたんだ」


「そうなんだ……どうだったの?」


「……お前に命を背負う覚悟はあるのかーって……ふらふらして覚悟がないなら、軽々しく語るなって言われちゃった」


「おじさん……本当にきついね……」


「まあね……。でも、間違ったことは、多分、言ってないんだと思う」


「そうだね……でも、間違ってないからって、全部を納得出来るわけじゃないよ」


「……遥なら、そう言えるだろうけど……私はそうじゃないんだよ。覚悟がないと夢も言えないなら、動けないなら……私は……どうすれば良かったのよ……」


「私もわからないよ……。私は……なんで動けたんだろう」


 俯いて自分自身に問いかける。


「私は多分、覚悟とかじゃない。後悔するような事が嫌だったと思う……」


 口に出したが、何処か違和感があった。


「ううん、違う……何もしないことが怖かったのかもしれないかな……」


「そっか……うん、遥は強いよね。それで動けるんだから」


「凛ちゃん……?」


「私は……間違えるのが怖い。間違いを犯して誰かに失望されるのが怖い。何かを間違って誰かを失うのが怖い……」


 凛ちゃんが俯きながら、力なく呟いていた。


「この前、里中先輩に言われたんだよね。覚悟が必要なら何が怖いのか考えてみろって……。それから、ずっと考えて答えは出たけどさ……。そしたら……余計に動けなくなっちゃった……」


「そっか……」


 確かに覚悟は大事なことなのだとは思うが、少し心に引っかかっていた事があった。

 最終的には必要だが、最初から必要なものだろうか?


「ねえ、凛ちゃん。その覚悟って、今すぐ決めないとダメ……なのかな?」


「……どういう事?」


「どういうって……そのままの意味なんだけどね……」


 話をしていて、何処かが噛み合っていないような、何かがおかしいような……そんな気がしていた。


「えっとね……凛ちゃんのお父さんって、今すぐにどうするか決めろって言ってたの?」


「……えっ?」


 凛ちゃんが、口を少し開いたままで固まった。


「それは言ってないけど……。でも、うちの親父は中途半端な事はするなって言ってたし……」


「だけど私達、まだ二年生なんだよ?」


「それは、そうなんだけど……」


「それに……なんだろう……。うまく言葉にできないのだけど……」


 頭の中で言葉を探す。


「あっ……そうだ。他の人じゃなくて、凛ちゃん自身はどう考えてるの? なんで、飼育員になりたいの? 前にクラゲの事がもっと知りたいって言ってたよね」


 先ほどから、お父さんに言われたから、先輩に言われたからって言うけれど、この事について、凛ちゃんがどうしたいのかをほとんど聞いていない!


「出来ればでいいんだけど……他の人の意見は一旦置いておいて、よかったら凛ちゃんの思いを聞かせてほしいかな」


「私の思い……」


 穏やかな館内の音楽を聴きながら、答えを待つ。だが、なかなか答えは返ってこなかった。


「言葉が出てこないなら、また今度でも大丈夫だよ。……ねえ、あっちの水槽も見よっか」


「うん……ありがとう、遥」


 しかし、凛ちゃんは俯いたまま動かない。


「……あと、この前は言い過ぎたよね……ごめん」


「……ううん、私もあのとき悪かったの。凛ちゃんの事をちゃんと見れてなかったのだと思うから、あんな事を書いてしまったのだと思うの……ごめんなさい」


 会話が終わり、静かさが戻る。お互いに沈黙が続くが、なんとなく気恥ずかしく、落ち着く事が出来なかった。


「えっと、凛ちゃん。このクラゲはどんなクラゲなの?」


「えっ? ああ、コブエイレネクラゲね。このクラゲはちょっと変わったクラゲでね。初めて見つかった場所が水族館の水槽の中で、いつの間にか湧いていたのを見つけて新種として登録したらしいよ。そこからずっと自然の中では発見されなくてさ、水族館にしか居ないクラゲって有名だったんだよね。でも実は中国で採集されていたけど、間違ってよく似た別の種類のクラゲとして遺伝子情報が登録されていた事が数年前にわかって、見つかっていたのに気付かれてなかったっていうちょっと可哀想な経歴がある子なんだよ。でも何故か全国の水族館で見かける不思議なクラゲなんだよね」


 凛ちゃんが、少しだけ嬉しそうに早口で説明してくれた。


「へぇ……そうなんだ。小さくて可愛いクラゲだね」


「うん……そうだね……」


「……集合時間までまだあるし、一緒に他も見て回らない?」


「うん……ごめんね? 私は、もう少しここにいたいかな」


「そっか……じゃあ、また後でね」


 少し離れてから振り返る。するとそこには、こちらへと小さく手を振る大事な友人の姿が見えた。

 私も小さく手を振り返し、その場を後にするのだった。

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