少年の正体
私はね、あの子に幸せになって欲しいよ。
茜は、どこか祈るように、そう囁いた。
「ねえ、ラウ。
きっとね、おまえが思っている障害なんてものは
殆どが、勘違いか、ほんとうは取るに足らないものなんだよ。
私は、あの子が幸せになるためなら、きっとなんだってしてあげる。
一番、重たくて大きな障害を私が、壊してあげるから。
だから、どうか。
どうか、ラウ、あの子を、幸せにしてあげて欲しいんだ」
「な、んで、なんでっ、俺、なんだ
だって、あいつっ、お前のこと好きなんだぞっ!!
なのに、なんで」
俺に言うんだよっ……。
悲痛な叫びも、茜は切り捨てる。
「それも、勘違いだよ。
あの子は、私が羨ましいだけさ、笑える話だね。
私はあの子こそが羨ましいというのに
私とあの子は、決して同じ道を歩いてはいかないよ。
きっと、私がさせないから。
それに、なにもかもあの子のためじゃないよ。
私は私のためにも、おまえに願うんだ。
私はね、ラウ。ゆめが見たいんだ」
わたしには、到底叶わない夢を、あの子に託したいんだ。
茜は、瞳を閉じて、夢見るように囁いた。
あの子は、私の希望なんだよ。と
「大丈夫、もうそんなに時間はかからない。
だって、未来に蜘蛛の穢神が介在してしまった。
タイムリミットは、すぐそこさ。あの子は、選択を迫られる。
だから、どうか、それを聞いてから、おまえも決断して欲しいんだ」
「頼むとは、言わないよ。命令でもない。
これは、単なる、私のお願いさ。
だって、あの子と共に生きるということは、
どの道を選ぼうと、やっぱり少なからず苦難を伴うだろうからね。
けれど、それでも、おまえがあの子を選んでくれると言うならば、
どうか、共に生きていってほしいんだ」
「な、んだよ、それ」
「わからなくても、いいよ。
決断の時に、思い出してくれたら、それでいい」
その瞬間、きし、と扉が軋んだ。
警戒をにじませて、二人が扉を見詰めた。
けれど、扉の向こうにいたのは、予想すらしない人物だった。
茜すら予想の埓外すぎて、思考が止まった。
「ら、う、くん?」
「え、なっ……ジ、ジュウっ!?」
怯えながら、扉を開けたのは、ジュウだった。
前髪が瞳を覆っているが、頬は涙で濡れそぼっていた。
「よか、たあっ!!
ラウ君っ、良かったっ!無事で、よかったよお
ごめんね、ごめんなさいいいぃぃ!」
よろめくようにラウに近寄ると、
すがりついて、泣きじゃくった。
「ラウ君までいなくなったらどうしようってっ!
しんじゃったらってっ!!
ぼく、ぼくはっ」
「ジュ、ウ……」
呆然とラウはつぶやいた。
だって、ずっと嫌われていると思っていた。
「リスト、は、
まさか、おまえ一人でここに――」
愕然と、恐ろしい事態を見るような目で、茜が呻いた。
「アカネさんも、ぶ、無事で――」
「どうやって、ここに――。
いいや、……どうして、来てしまったんだい」
おまえは、
おまえだけは、逃げなくちゃいけなかったのに。
そんなことは、わかりきったことだったろう?
茜は、力なく問いかけた。
「アカネさん、ごめんなさい。
い、いままで、嬉しかったです。
ででも、もう、いいんです」
ジュウはそう囁いて、きつく握り締めたラウの手を離した。
全てを諦めたように、微笑んだ。
「いいわけないだろう!?」
茜が激昂したように叫ぶが、ジュウは揺らがない。
もう一度、扉が開いた。
そこにいたのは、蜘蛛の特徴を備えた。
穢神だった。
咄嗟にラウは、歩き出したジュウの手を掴んでいた。
だって、分かってしまった。
ジュウが何をしようとしているのか。
「なんで、どこに行くんだよ」
けれど、分かりたくなくて、だからラウは問いかけた。
ジュウはその問には答えなかった。
代わりに微笑んだ。
「もう、いいの。
ち、ちゃんとぼく、決めたんだ。
もう、逃げない、逃げないから。
大丈夫。
ラウ君、あ、あのね
ずっと、ぼくにとって世界は地獄みたいで。
ずっと、ひとりで生きていくんだって、
ずっと、それが続いていくんだって、
それが当然だって、思ってたの。
だ、だけどね、
ラウ君が手を差し伸べてくれた瞬間に、
本当に奇跡みたいに、世界が、一変したの。
ラウ君に逢えたから
ずっと
ずっとね、わたしは幸せだったの
だ、から、だからね、もう、いいの」
もう、これ以上。迷惑なんて
かけたくないの
本当は、もっと、早くこうするべきだったのに
「ラウ、絶対にその手を離さないで」
そう言ったのは、二人を庇うように立った茜だった。
「私は、こんな結末を認めないよ。
私が、穢神の気を引く、その間に
この子を連れて、逃げなさい」
「なっ、お前どうするんだよ!?
勝てるのか」
「そう見えるんだったら、目はえぐり出したほうがいいんじゃないかな?
節穴だから」
「なら、どうして」
「勝てないさ。
でも、負けはしない。
相手がどう動くかは、全て先読みできる。
軌道も、タイミングも、全てわかるんだ。子供だってよけられるよ。
リストが来るまでくらいなら、どうにか保てるんじゃないかなあ」
まあ、それまで身体が持つかは、わからないけれど。
と茜はラウに聞こえないように、口の中だけで囁いた。
「くそっ」
いらだち紛れに、ラウは呻いた。
覚悟を決めたように穢神を睨みつけると、鉄屑を取り出した。
軽く振っただけで、鉄屑は、剣へと成り代わった。
「俺がやる」
そこにいたのは、少年ではなかった。
よく見れば、ラウの面影を残しているが、
18才程の獣人の青年だった。
茶色のぴんと立った獣の耳は、狼であるリストのものとは違う。
太い尻尾が、くねる様に振られた。
狼は、獣人の中でも、特異な存在だ。
獣人の中でも、最も恐怖の対象となる種族、という意味で。
狼の特異さは、その圧倒的な力と、性質による。
気性は極めて荒く、好戦的で、出生率の少なさから、
多夫多妻が当たり前というほど、性には極めて奔放で、享楽的だ。
多種族間の子どもが狼として生まれるという、遺伝子的な優性さがあるため、
人だろうが、他種族だろうが構わないという姿勢も、忌避に拍車をかけた。
傲慢な、強者に向けられるそれは、
圧倒的な畏怖と嫌悪だ。
勿論、それは一体一の場合であって、彼らといえど数の暴力には敵わない。
一対一にしても、相手が神になれば、話にもならない。
結局のところ、絶対数の少ない彼らが、社会的弱者であることには間違いなく、
これ以上少なくなれば、どうにか保っている畏怖される一線引かれた地位も失い、
搾取される側になることくらい彼らも理解している。
傍から見れば乱交とさえ貶められるそれも、
子孫の未来を、死に物狂いで守らんとする狼たちに残された唯一の方法なのだろう。
それを理解する者は、ひどく希で、たとえ理解したとしても、
茜がそうであるように、たとえ理解し、同情したところで。
受け入れられるかは、また別の問題である。
リストが勇者として認められやすかったのは、
狼の性質に、見目に、彼があまりに当てはまらなかったというのが、多分に大きい。
そして、その狼に次いで、
同じように忌避される種族がある。
ただ、その種族が向けられる負の感情は、少し毛色が異なる。
理由も、性質ではなく、その生き方による。
それは。
「やはり、おまえは、
狐、なんだね」
ラウの耳や、尻尾は狐のものだった。
狐は一点特化といえど、魔法を自在に操れる残り少ない種族の一つだ。
世界を欺く魔法。その力は、幻術、模倣、変化だ。
特に、自らの姿を変えることができる変化は、今のラウのように
リーチや身体機能を上げるために、一時的に肉体年齢を操作するなど
戦いのためにも、よく使われるが、
彼らは本来、その能力を、人に成り済ますために使う。
耳と尻尾を消して、牙を隠し、爪を変えて、
人々の生活の中に入り込み、人を演じる。
それが、狐が選んだ、狼とは正反対の生き方だ。
だが、元来自分たちのコミュニティに入り込む異物に、人は厳しい。
他意などないと公言したところで、疑心暗鬼に陥った人には通用しない。
折に触れ、狐狩りと称して、弾圧されてきた歴史を持つ
人には恐怖と嫌悪を、蔑視される。
獣人には、裏切り者と罵られ蔑視され、
仮初の平穏を手に入れたことを妬まれる。
ラウは、幼いながら、狐の中でも能力が強い方なのだろう。
言葉を濁して語られたが、成体の穢神からジュウを取り返して、
一矢報い、逃亡したという、事実がそれを証明している。
本当に幼い頃から、使いこなしていたに違いなく、
ならば人にバレて、弾圧されたことなどない。
だからこそ、本当の悪意を知らないからこそ
ジュウが彼に向けた恐怖を、自分が獣人への嫌悪だと認識してしまった。
ジュウにそんな悪意など、欠片も存在しないにも関わらず。
ただただ、ジュウはラウに嫌われたくなかっただけだ。
失いたくなかっただけだ、初めてで、唯一の愛情を、
無心に、愚かに、幼稚に、
最も、幼い方法で、つなぎ止めようとした。
あと少しだけ、もう少しだけ。と
黙り込み、隠して、嘘をついた。
それは、たしかに罪であるかもしれないが、悪ではない、
穢神と対峙したラウは、苦戦していた。
切り結ぶたびに、剣が砕けるのだから当然のことだ。
じりじりと、後退したラウが聞いたことのない言葉をつぶやいた。
「otusri」
もう一つ、狐は特殊な点がある。
狼は純粋な力であるのに引き換え、狐は魔法を最大限使って戦う。
ラウが言っていた、名前を使用する魔法を使える種族こそ、狐のことだ。
名を手に入れた者の、能力を模写し、
鉄屑を幻術で、剣にして戦う。勿論その刃は、幻でしかない。
ただし、その幻は世界に影響するのだ。
単に敵対したものを欺くのではなく、世界を騙しきるのだと、
茜は、聞いていた。
剣でさえ切るのではなく、
切られたと誤認した世界が太刀筋に沿って、消失していく。
まさに、世界を欺く能力だと言える。