臨界点
ミュリエルは、とっさのことに、その出来事を見ることしかできなかった。
ミュリエルには矜持があった。
それは、騎士道精神にのっとったものであり、確かに職業倫理によるものだった。
しかし、個人的な思いもあった。
「この街の住民を、絶対に保護する」
それは、彼女の生い立ちにも関わっていた。
彼女には、幼い時に故郷を魔族に廃墟にされた過去があった。
あの時、彼女は思った。
「人に、愛する人を無残に失わせる悲しみを、知ってほしくない」
その熱意は、彼女をここまで育て上げた。
しかし、その思いは―執念―は、この地、この時、通じなかった。
「・・・・・」
崩れ落ちるミュリエル
「団長」
声をかける騎士団員
だが、ミュリエルは応じない。
「・・・・・」
「ミュリエル…」
リアンも声をかける
「・・・・・もう、私のできることは、ここには無いのかもしれない・・・」
弱り切るミュリエル
「しっかりしろ、ミュリエル!」
リアンが彼女の肩を優しく包み、だが激しく揺さぶる。
だが、彼女の瞳からは光が消え、ただ地に染まった石畳を凝視するのみ。
「リアン、無駄だ。今の彼女に声は届かない」
ルーが冷徹に言い放つ。
しかし、事態はさらに進展していた。
宿を取り囲んでいた住人たちの罵声が、悲鳴へと変わった。
「ぎゃああああ!騎士様が!騎士様が狂った!」
マナの精神汚染は臨界点を超えた。
辺りは地獄絵図へと化す。
「ルー!ミュリエルを連れて下がれ!」
リアンは言う。
「・・・いや、この街に下がる場所などもうない」
ルーは空を見上げた。聖都を包む七重結界が、禍々しい色へと変色していた。
「リアン、ミュリエル。ライトが結界に注いでいたのは、おそらく『冥府の呼び水』だ。街全体を巨大な儀式場に作り変え、住人すべての正気をハデスへの供物にするつもりだろう・・・」
「そんな・・それじゃあ、街の人はみんなは・・・」
絶望に震えるリアンの背後で、ミュリエルが力なく呟いた。
「私の……私のせいだ。私がもっと早くライトの正体を見抜いていれば・・・!」
「違う!」
ルーがミュリエルの前に立ちふさがり、その顎を強引に持ち上げさせた。
「お前はよくやった。だが、相手は悪神とはいえ、神の眷属だ。人間の物差しで自分を裁くな。ミュリエル、お前にしかできないことがあるはずだ。この狂った騎士たちの目を覚ませるのは、ライトではなく、お前の声だけだ!」
ルーの紅き瞳が、ミュリエルの蒼い瞳を射抜いた。
その瞬間、街の北側にある大聖堂から、天を突くような黒い光が立ち昇った。




