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『婚約破棄され、冒険者パーティも追放されたモブ貴族』~前世の知識と転生特典で借金を返して楽しく生きるつもりが、いつの間にか英雄になりそうです~  作者: 雅
間章 それぞれの歩み、忍び寄る影

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第61話 帰らない夜と、覚えてきた魔法

「……今日は、地上へ戻る時間を考えなくていいんだね」


 第4層へ続く階段を下りたところで、エステルが言った。


「そうだな。今日は野営地へ戻る時間まで、ゆっくり見られるよ」


「うん。地上まで帰らなくていいのって、新鮮だね」


「ああ。俺も楽しみだよ」


 黒曜へ入ってから、何度も歩いた第1層と第2層を抜けてきた。


 第3層では、今夜使うつもりの場所を先に確かめた。ほかの冒険者はおらず、崩れた跡も、魔物が居ついた様子もない。


 それから、第4層へ下りた。


 普段なら、ここまで来るだけで、帰りの時間が頭をよぎる。


 今日は違う。


 同じ場所に立っていても、使える時間が増えたように感じた。


「急がなくても、先を見られるね」


 エステルは、杖を握ったまま笑った。


 その顔を見ると、こちらまで嬉しくなる。


「ただし、初日に張り切りすぎないことですわ」


 シルヴィアが言う。


「3日分を1日で済ませようとしないでくださいませ」


「俺を見て言ってる?」


「お2人を見て言っています」


 エステルと目が合った。


 俺たちは揃って頷いた。


     *


 第4層は道幅の変化が多く、剣を振る余地に注意が要る。


 7月のうちに来た時、狭いところで大きく剣を振ろうとして、動きを変えたことがあった。


 今日は、先に剣の位置を低くする。


 通路の先で、石が動いた。


 壁から岩が剥がれ、腕を持ち上げる。人の倍ほどもある岩殻ゴーレムだった。


 その足元を、別の反応が跳ねる。


「ゴーレムと、石弾カエル。カエルは口を開いたら気をつけて」


 エステルが言った。


 岩殻ゴーレムには、7月の下見でも手間をかけさせられた。硬い胸を剣で叩いても、腕を振る勢いは止まらない。


 その周囲で、灰色のカエルが喉を膨らませた。


 ぱん、と音がする。


 吐き出された小石が、俺の横の壁へ突き刺さった。


「奥のカエルを頼む。俺がゴーレムを止める」


「ええ。巡る力よ、彼の身に満ち、踏み出す歩みを支えよ――《フィジカルブースト》」


 シルヴィアの魔法が身体へ満ちた。


 俺は1歩前へ出て、剣へ白い闘気を沿わせる。


 岩の拳が振り下ろされた。


 正面では受けない。横へ踏み、地面を砕いた腕の肘へ刃を入れる。


 岩と岩の隙間が、裂けた。


 反対の腕が来るより早く、足を戻す。石片が跳ね、袖へ砂がかかった。


 以前なら、刃へまとう闘気に魔力を回しすぎて、体内を巡る身体強化の加減が乱れた。今は、内と外への配分を崩さず、足を動かしながら刃の白い光を保てる。


「カエル、押さえるね。絡め、土よ――《アース・バインド》!」


 エステルの土が後ろ脚を捕まえた。


 だが、カエルは喉を膨らませる。


 脚を止めても、口は動く。


「左へ寄って!」


 俺が伝えると、2人は射線を外れた。石弾が通り過ぎたところへ、シルヴィアが杖を向ける。


「凍てつく矢よ、走れ――《フロスト・アロー》!」


 氷が開いた口を捉えた。続くエステルの水の槍が、カエルを倒す。


 シルヴィアが、ゴーレムを狙える位置へ動く。俺はその間に、ゴーレムの膝へ回った。


 足元を土で少し盛り上げる。踏み直そうとした脚の関節へ、闘気をまとわせた剣を通した。


 巨体が傾く。


 膝をついた拍子に、首と胸の間から、淡く光る石が見えた。


「そこ、狙えますわ!」


「頼む!」


 シルヴィアの詠唱が始まる。俺はゴーレムの足元の土をさらに盛り上げ、立ち上がるのを妨げた。


 詠唱を最後まで紡いだシルヴィアが、杖先を隙間へ向ける。


「――《フロスト・ランス》!」


 氷が隙間を押し広げた。


 その脇へ、俺の刃が届く。


 光が砕け、岩の腕が止まった。


 崩れた岩の身体が、先に倒れたカエルと同じく白い粒へ変わる。周囲を確かめてから、俺は闘気を解いた。


「胸を割ろうとするより、ずっと早かったね」


「動くところには、隙間がありますものね」


「ああ。2人のおかげで、そっちへ集中できた」


 太い岩の腕と、小さな口から来る石弾。


 同じ場所にいる魔物でも、対処はまるで違った。


 消滅した跡には魔石と魔岩片、カエルの硬い皮が落ちていた。砕いた身体の石を集めるのではなく、ドロップとして残った品を拾い分ける。カエルの魔石と、吐き出した普通の小石まで混ぜるわけにはいかない。


「石がいっぱいだと、仕分けも大変だね」


「全部持ち帰ればいい、では済みませんわね」


 エステルとシルヴィアが顔を見合わせて笑った。


 俺も笑い、袋に種類を書いた。


     *


 その後も、いくつかの通路を確かめた。


 昼には、見通しのよい場所で交代して食事を取った。


 午後は地図の主な通路を辿り、第5層へ下りる階段を見つけた。


 下から、かすかな羽音が上がってくる。


「虫が多い層、だったね」


「鉄殻アリと、刃羽蜂が中心だ。今日はここまで記録しておこう」


 足元と帰り道を確かめ、階段の位置を地図へ書き込んだ。


 明日は、ここから先へ進める。


 今日は、授業の後だけでは確かめきれなかった場所まで、自分たちの足で歩けた。


 時計を見て、俺は2人へ声をかける。


「今日は、ここまでにしよう」


「もうそんな時間?」


 エステルが顔を上げた。


「野営の準備にも時間を残したい」


「あ、そうか。今日は、帰らないんだ」


 言ってから、彼女が笑う。


 朝にも確かめたことなのに、改めて嬉しくなったらしい。


 シルヴィアは肩の紐を直し、頷いた。


「寝床は、疲れきる前に作っておきたいですわね」


 その意見には、全面的に賛成だった。


     *


 第3層の野営候補地へ戻ると、もう1度、中と周囲を確かめた。


 通路から少し外れた、乾いた岩陰だ。


 奥行きがあり、入口は1つ。頭の上にも、魔物が潜みそうな穴はない。


 安全が保証されている場所ではないが、交代で入口を見張るには都合がよかった。


 俺は奥の地面を確かめ、手で小石を拾った。


 エステルが隣へしゃがむ。


「ここ、少し出っ張ってる」


「ああ。寝たら背中に当たりそうだ」


「ちょっと待って」


 彼女の短い詠唱に合わせ、土が動いた。


 尖っていた部分が低くなり、足元が平らになる。


「どう?」


「助かった。これなら寝やすい」


 エステルが満足そうに笑った。


 入口で見張っていたシルヴィアが、こちらを振り返る。


「では、次は天幕ですわね」


 2つのテントを出した。


 設営は、授業で何度か練習している。


 ただ、学院の柔らかな土の上と岩の多い迷宮では、同じようにはいかない。


 紐を留める位置を変え、互いの入口が見張りの場所から分かるように向きを調整する。


 できあがった時には、思ったより汗をかいていた。


「……家を作るって、大変なんだね」


「ひと休みしたいな。どんな寝心地か、さっそく試したくなってきた」


「わたしも。今夜のお家だもの!」


 エステルが、2つの天幕を見比べる。


 その言い方に、少し胸がくすぐったくなった。


 俺たちで用意した、今夜の居場所。


 そう思えば、確かに、小さな家に見えなくもない。


     *


 最後の紐を確かめ、俺は袖を見た。


 砂と埃がついている。


 ゴーレムの拳を避けた時に汚れたところは、汗と混ざっていた。


「水と布を出すか」


 そう言うと、シルヴィアが待っていたように杖を持ち上げた。


「その前に、少しよろしいかしら」


 エステルが顔を向ける。


「朝、言ってたやつ?」


「ええ」


 シルヴィアは俺の袖を見た。


「こちらで、試しても?」


「いいよ」


 俺は腕を上げた。


 彼女が1歩近づく。


 丁寧に、言葉を紡いだ。


「清らかな流れよ、触れるものの汚れを払い、本来の清潔を取り戻せ――《クリーン》」


 淡い光が、袖を撫でた。


 砂の跡が、消えていく。


 張りついていた埃も、汗のべたつきもなくなった。


 俺は袖を指でつまんだ。


 濡れていない。


 布の色が、朝と同じになっている。


「……おお」


 声が出た。


 そして、1拍遅れて気づいた。


 クリーン。


 ど定番中の、ど定番ではないか。


 異世界で旅をするなら、まず欲しくなる生活魔法。風呂にも洗濯場にも困る場所で、身体や服をきれいにできる。


 前世の記憶を取り戻した頃、覚えておきたい魔法の候補には、ちゃんと入れていた。


 それなのに、後回しにした。


 まず戦えるようになろう。金を稼ごう。次は身体強化、その次は雷。


 そうしているうちに、存在を知っているだけで、準備した気になっていた。


 ……全てのテンプレに備えるつもりの男が、定番の生活魔法を忘れて、洗い物用の布を詰めてきたわけだ。


 いや、布も必要だ。持ってきたことは間違っていない。


 だが、思いついたことを後回しにして、そのままにしたのは反省すべきだった。


 袖を見る。


 きれいだった。


 俺が先送りにした準備を、シルヴィアは済ませてきた。


 これは、素直に頭が下がる。


 エステルが、俺の腕へ顔を近づけた。


「待って。今ので、きれいになったの?」


「ええ。清潔にする生活魔法ですわ」


「水で洗わなくても?」


「この程度の汚れでしたら」


 エステルが、俺の袖をつまむ。


 表を見て、裏を見て、それからシルヴィアを見た。


「シルヴィア」


「はい」


「わたしにも、お願い」


 とても真剣な声だった。


     *


 まずは、エステルの手からだった。


 同じ詠唱の後、指についた土が落ち、手首の汗も消える。


 エステルは両手を開き、握り、もう1度開いた。


「……すごい」


 呟いてから、今度は袖を差し出す。


 シルヴィアが少し笑った。


「順番ですわ。あちこち1度に動かさないでくださいませ」


「うん。動かない」


 本当に、ぴたりと止まった。


 ユリウス先輩の雷を見ていた時に似た目をしている。


 だが、今、彼女が見ているのは、袖から消えていく土汚れだった。


「いつの間に覚えたんだ?」


 俺が聞くと、シルヴィアは詠唱を終えてから答えた。


「泊まりで潜ると決めてからです。クラリッサ先輩に、用意しておくとよい魔法はないか伺いましたの」


 なるほど。


 朝の会話は、このことだったのか。


「生活魔法の本を借りて、教えていただきました。最初は、布の端だけしかきれいになりませんでしたけれど」


「練習してたの?」


「ええ。毎日、少しずつ」


 シルヴィアが自分の袖へ目を落とす。


「2晩も泊まるのでしょう。汗をかいたまま眠るのは、嫌ですもの」


 真面目な理由だった。


 そして、まったく正しかった。


 食べ物と寝具は考えた。


 身体を拭くための布や水も用意した。


 そこからさらに、使える魔法を増やしてきたのだ。


「ありがとう。そこまで準備してくれて」


「わたくしも使いたかったのですわ」


「それでも、助かるよ」


 そう答えると、シルヴィアは少しだけ顎を引いた。


 頬が、淡く赤くなっていた。


 いつもなら、ここでもう一言、澄ました返事が続く。今日は何も言わず、嬉しさを隠すように唇を結んでいる。


 それでも、こちらを1度だけ見た。


 褒められたことを、もう1度確かめるような目だった。


 俺まで少し、照れくさくなった。


 エステルは、すっかりきれいになった手を見つめている。


「知ってはいたんだよ。こういう魔法があるの」


 ぽつりと言った。


「でも、帰れば着替えがあって、お風呂にも入れるでしょう。だから、自分で覚えるなら新しい攻撃魔法が先だって思ってた」


 水や土を、戦い以外に使うことは彼女も知っている。


 さっき、地面をならしてくれたばかりだ。


 それでも、生活そのものを助ける魔法を、今までの暮らしでは急いで覚える必要がなかったのだろう。


「……違ったね」


 エステルが、俺を見る。


「今日の夜まで考えるなら、こっちも大事だった」


「ああ。寝心地が、かなり違うと思う」


 彼女はシルヴィアへ向き直った。


「わたし、絶対に覚える。そして毎日使う」


 力強く、言い切った。


「次は、わたしがシルヴィアをきれいにするから」


「……では、お願いしようかしら」


「うん。約束」


 差し出された小指を見て、シルヴィアが笑った。


 子供の頃からしていたのだろうか。


 迷うことなく、2人の指が絡んだ。


     *


「では、俺にも教えてほしい」


 言うと、2人が揃ってこちらを見た。


「オスカーも?」


「便利すぎるだろう。服と身体をきれいにできるなら、エステルと同じく毎日でも使いたい」


「何でもすぐ覚えようとするんだから」


「はは、エステルと同じだよ。さっきから、俺も使ってみたくて仕方ない」


 エステルが笑った。


 シルヴィアは、俺たちを交互に見た。


「今夜は、練習で魔力を使いきらないでくださいませ。初めての野営なのですから」


「そうだな。帰ってから、教えてもらえるか?」


「わたしも。まずは、話だけ聞く」


「それなら、夕食の時に」


 シルヴィアが頷いた。


 誰にかけるか、どこまで汚れているかで、使う魔力も変わるらしい。今の彼女は1度で全員をきれいにするほど慣れていない。


 少しずつ、必要なところへ使っていく。


 傷を治す魔法ではないし、服の破れも直らない。


 だが、今日欲しかったのは、まさにそれだった。


 俺が入口の見張りに戻り、2人は天幕の陰で身支度を整えることになった。


 俺もその前に、手や首元へかけてもらう。


「少し、襟を緩めてくださいませ」


「こうか?」


「ええ。そのまま」


 シルヴィアが近づいた。


 だが、杖を上げたところで1度止まる。


「どうした?」


「いえ。少し、あちらを向いて……」


 言われたとおりにすると、彼女の視線が俺の顔へ上がった。


 それきり、次の言葉が来ない。


「シルヴィア?」


「分かっていますわ。今、かけますから」


 彼女は小さく息を整え、杖を持ち直した。


 首元へ杖先を向け、静かに詠唱を始める。


 首元を光が撫でる間、彼女の顔がすぐ近くにあった。


 伏せた睫毛が、小さな影を落としている。真剣な顔をしているのに、近づいた時から頬だけがほんのり赤い。


 こんなに近くで、彼女の顔を見たのはいつだったか。


 考えかけたところで、青い瞳が上がった。


 目が合う。


 すぐ逸らすのも不自然な気がして、見たままになった。シルヴィアも動かず、詠唱の声だけが、ほんの少し小さくなる。


 それでも、最後まで唱え終えた。


「……終わりましたわ」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 そう言っても、彼女はすぐには離れなかった。


「……あまり、見ないでくださいませ」


「すまない」


「嫌だとは、言っておりませんけれど」


 最後の方は、聞き取れるぎりぎりの声だった。


 返事を考えているうちに、シルヴィアが先に身を引く。耳にかかった髪を直す手が、少しだけ忙しい。


 エステルが何か言いかけたので、俺は入口へ向かった。


 別に、逃げたわけではない。


 見張りは、必要な仕事だ。


     *


 夕食は、地上で用意して収納しておいたものを出した。


 温かいスープ。鶏の唐揚げと刻んだ葉野菜を挟んだパン。それから、切り分けた果物。


 昨日のうちに、鶏肉へ塩と香味野菜の汁を揉み込んでおいた。こちらの芋から取れる粉を薄くまぶし、今朝、寮で揚げてから収納したものだ。醤油味にはできなくても、衣を噛む楽しさは再現できる。


 エステルがパンをかじると、かり、と小さな音がした。


「えっ。今の、パンじゃないよね?」


「中の肉だ。唐揚げにしてみた」


 もうひと口。今度は、噛んだまま目を丸くする。


「外はかりかりなのに、中から汁が出てくる!」


「……この葉野菜も、合いますわね。お肉だけより、次のひと口が欲しくなります」


 シルヴィアが口元を拭き、空いた手でパンを持ち直した。


 居酒屋で何度も揚げた唐揚げを、迷宮の中で2人が食べている。見慣れない光景なのに、揚げ物を噛んだ時の顔は、前世のお客さんと同じだった。


 こういうのを見られるなら、仕込みの手間も悪くない。


 エステルがカップを受け取り、嬉しそうに湯気へ顔を寄せる。


「地面は土の魔法。きれいにするのはクリーン。ご飯はオスカーの収納」


「他の冒険者は恨むでしょうね」


 温かい食事を出せることには、もう驚かない。


 それでも毎回、嬉しそうにしてくれる。


 シルヴィアも、両手でカップを受け取った。


「ありがとうございます」


 俺は返事をしかけ、少し遅れた。


 髪をほどいていた。


 いつも整えて結っている茶色の髪が、肩から背へ柔らかく落ちている。


 上着を脱いで、動きやすい服へ替えていた。髪を結う飾りがない分、整った顔立ちがよく見える。灯りを受けた茶色の髪は毛先だけ淡い金色に透け、カップを受け取る拍子に頬へ1筋かかった。


 彼女はそれを、指先でそっと耳へ寄せた。


 ただ、それだけの仕草だ。


 いつも見ているはずなのに、今は妙に目が離せなかった。


「……何か、ついていますの?」


「いや。髪を下ろすと、雰囲気が変わるなと思って」


 シルヴィアの手が、髪の先へ触れた。


「寝る時まで、結っておくわけにはいきませんもの」


「そうだな」


「……変ですか?」


「似合ってる。綺麗だと思う」


 言ってから、少し率直すぎたかと思った。


 シルヴィアはカップを持ったまま固まっていた。青い目を丸くし、それから、ゆっくり視線を落とす。


「……そういうことを、急におっしゃるから」


 カップの縁で隠しきれないほど、口元が緩んでいた。


 その顔を見て、取り消さなくてよかったと思った。


 エステルが、こちらを覗き込む。


「わたしは?」


 銀色の髪を肩の前へ流している。


 いつも元気に動き回る彼女が、マットの上で膝を揃え、カップを持っていた。


 銀色の髪に灯りが映って、笑うたびに細い光が揺れる。昼間の弾むような笑顔も好きだが、今の、返事を待って少し首を傾げる顔には別の可愛らしさがあった。


「……エステルも、可愛いよ」


 彼女が瞬きをした。


「ほんと?」


「ああ」


 いつもの調子で喜ぶと思っていた。


 だが、エステルはカップへ目を落とし、両手で持ち直した。髪の間から見える耳が、赤くなっている。


「自分で聞いたのに、なんか、恥ずかしいね」


 小さく笑い、もう1度だけこちらを見た。


 その笑顔に、俺の方が返事を忘れた。


「……2人とも、食べないと冷めますわよ」


 シルヴィアの声で、ようやくカップを持ち上げる。


 スープはまだ温かかった。


 妙に熱く感じたのが、そのせいだけかは分からない。


     *


 入口を見られる位置で、順に食事を取った。


 話題は、今日のゴーレムと石弾カエルから、いつの間にか生活魔法へ変わっていた。


「クリーンで、お皿も洗える?」


「小さな器でしたら。ただ、今夜はわたくしの魔力も残しておきたいので、全部は」


「うん。じゃあ、お皿は水で洗おう」


 エステルが頷く。


「火でお湯を温めて、風で乾かして……覚えた魔法、もっといろんなことに使えるね」


「剣の手入れまでクリーンで終わるか、帰ったら武具屋で聞いてみたい」


 俺が言うと、シルヴィアが首を横に振った。


「汚れが落ちても、刃こぼれは直りませんわよ」


「そこは、ちゃんと見る」


 カップを持つシルヴィアの右手で、青い石が光った。


 魔力回復リングだ。


「魔力は、どうだ?」


「戻ってきていますわ。クリーンを使った分も、少しずつ」


 シルヴィアが指輪へ目を落とす。


 エステルも、右手を持ち上げた。


「これ、泊まりだと、もっとありがたいね。ご飯を食べている間にも戻るし、この後、休む時間もあるでしょう?」


「ああ。明日も、迷宮の中で動くからな」


 日帰りでも、何度も助けられた。


 だが、地上へ戻らない遠征では、夜の備えも、翌日の戦いも、自分たちの魔力でまかなうことになる。


 1戦を終えて休む。食事をする。交代で眠る。


 その時間に戻る量が違えば、次に使える魔法の余裕も変わる。


 俺の《魔力回復促進》も、こうして食事をしている間に働いていた。残量を確かめると、野営地へ着いた時より増えている。


 《体力回復促進》のおかげもあって、座って休めば、歩き続けた脚の重さが和らぐのも早い。


 戦っている時には、剣や雷の手応えに目が向く。


 だが、明日も同じように戦えるようにしてくれる、こういう力が頼もしい。


「指輪、2人に使ってもらってよかったよ」


 口にすると、シルヴィアが俺を見た。


「わたくしたちも、そう思っておりますわ」


「うん。いっぱい使ってる」


 エステルが笑う。


 あの時は、売ればどれだけ返済へ回せるかも考えた。


 今は、2人の手に残っていることが嬉しかった。


 もちろん、戻るからといって使い放題ではない。今夜の見張りにも魔力は要るし、眠る時間を削っていいわけでもない。


 明日のために、ちゃんと休もう。


 帰り支度をしない夕食は、いつもよりゆっくり終わった。


 俺は、剣の状態も確かめた。


 2人から贈られたミスリルの刃は、今日もよく応えてくれた。


 空いた皿を片づける。


 明日の朝に必要な物を分け、すぐ手に取れる場所へ置いた。


「ねえ。今、地上はもう暗いよね」


 エステルが言った。


 俺は時計を確かめる。


「そろそろだろうな」


「いつもなら、別れてる時間だ」


 言葉の後に、短い沈黙があった。


 シルヴィアが、空になったカップを両手で包んでいる。


 俺は、その横顔を見た。


 シルヴィアも、こちらを見ていた。


 目が合うと、慌ててカップへ口をつける。


「……もう、空だったな」


「知っておりますわ」


 そっとカップが下ろされた。


 耳まで赤くなっているので、それ以上は言わないでおいた。


 迷宮の壁も、マットも、さっきまでと変わっていない。


 ただ、今日の会話は、まだ終わらない。


 どちらへ帰るか決めずに、同じ灯りのそばにいる。


「……不思議な感じですわね」


 シルヴィアが言った。


「ああ」


 エステルが、少しだけ肩を寄せた。


「わたしは、好きだな。こういうの」


 軽い声だった。


 だが、俺の顔を見る目は、少し真剣だった。


「俺も、来てよかったと思ってるよ」


「じゃあ、また来ようね」


「ああ。次の楽しみもできたな」


 答えると、彼女は満足そうに頷いた。


 エステルの視線が、俺の顔に留まる。


「何だ?」


「……今の顔、いいなって」


「顔?」


「笑ってたから」


 言い終えた途端、エステルが口を閉じた。


 いつもなら、もっと楽しそうにからかってくる。今は膝の上の布を指でつまみ、こちらを見たり、やめたりしている。


「もう1回って言ったら、変?」


「そう言われると、難しいな」


 つい笑うと、エステルまで笑った。


 そのあと、少し俯く。


「……うん。やっぱり、いい」


 シルヴィアが横から彼女を見たが、何も言わなかった。俺と目が合うと、彼女まで視線を落とす。


 どうして2人とも、急に静かになるんだ。


 そう思った俺も、次の話題がなかなか見つからなかった。


     *


 最初の見張りは、俺だ。


 次がシルヴィア。その次がエステル。


 交代の時間を確かめ、2人が寝床へ向かう。


 入口の近くには、小さな灯りを1つ残した。近づくものを見られる位置へ座り、剣を手元へ置く。


 眠っている間まで、俺の地図が勝手に見張ってくれるわけではない。


 だから、起きている者が、目と耳で確かめる。


 エステルが天幕の入口から振り返った。


「ちゃんと起こしてね」


「ああ。時間になったら」


「眠そうでも、起こして」


「分かった」


 シルヴィアも顔を出す。


「わたくしもです。勝手に交代を遅らせないでくださいませ」


「分かったよ。つい寝かせておきたくなるけど、ちゃんと頼るから」


「ええ。あなたにも、休んでいただきたいのです」


 言われて、返事に詰まった。


 エステルが笑う。


「じゃあ、おやすみ。オスカー」


「おやすみ」


「……おやすみなさい」


 シルヴィアの声は、昼間より少し柔らかかった。


 布が下ろされる。


 中で小さく衣擦れがして、それから、2人の抑えた話し声が聞こえた。


 内容までは分からない。


 分からなくていい。


 俺は入口の方へ向き直った。


 遠くで、水の落ちる音がする。


 今頃、先輩たちはどのあたりだろう。


 朝、消えていった8人の背中が浮かんだ。


 また嫌な続きを考えそうになって、目の前の通路へ意識を戻す。


 今夜、俺が確かめるべき場所は、ここだ。


 背中の向こうで、2人が眠ろうとしている。


 やがて話し声が途切れた。


 俺は時計を見て、交代までの時間を確かめる。


 今日は、帰らない。


 明日の朝、この2人へ「おはよう」と言うために、俺は静かな通路を見つめた。

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