第61話 帰らない夜と、覚えてきた魔法
「……今日は、地上へ戻る時間を考えなくていいんだね」
第4層へ続く階段を下りたところで、エステルが言った。
「そうだな。今日は野営地へ戻る時間まで、ゆっくり見られるよ」
「うん。地上まで帰らなくていいのって、新鮮だね」
「ああ。俺も楽しみだよ」
黒曜へ入ってから、何度も歩いた第1層と第2層を抜けてきた。
第3層では、今夜使うつもりの場所を先に確かめた。ほかの冒険者はおらず、崩れた跡も、魔物が居ついた様子もない。
それから、第4層へ下りた。
普段なら、ここまで来るだけで、帰りの時間が頭をよぎる。
今日は違う。
同じ場所に立っていても、使える時間が増えたように感じた。
「急がなくても、先を見られるね」
エステルは、杖を握ったまま笑った。
その顔を見ると、こちらまで嬉しくなる。
「ただし、初日に張り切りすぎないことですわ」
シルヴィアが言う。
「3日分を1日で済ませようとしないでくださいませ」
「俺を見て言ってる?」
「お2人を見て言っています」
エステルと目が合った。
俺たちは揃って頷いた。
*
第4層は道幅の変化が多く、剣を振る余地に注意が要る。
7月のうちに来た時、狭いところで大きく剣を振ろうとして、動きを変えたことがあった。
今日は、先に剣の位置を低くする。
通路の先で、石が動いた。
壁から岩が剥がれ、腕を持ち上げる。人の倍ほどもある岩殻ゴーレムだった。
その足元を、別の反応が跳ねる。
「ゴーレムと、石弾カエル。カエルは口を開いたら気をつけて」
エステルが言った。
岩殻ゴーレムには、7月の下見でも手間をかけさせられた。硬い胸を剣で叩いても、腕を振る勢いは止まらない。
その周囲で、灰色のカエルが喉を膨らませた。
ぱん、と音がする。
吐き出された小石が、俺の横の壁へ突き刺さった。
「奥のカエルを頼む。俺がゴーレムを止める」
「ええ。巡る力よ、彼の身に満ち、踏み出す歩みを支えよ――《フィジカルブースト》」
シルヴィアの魔法が身体へ満ちた。
俺は1歩前へ出て、剣へ白い闘気を沿わせる。
岩の拳が振り下ろされた。
正面では受けない。横へ踏み、地面を砕いた腕の肘へ刃を入れる。
岩と岩の隙間が、裂けた。
反対の腕が来るより早く、足を戻す。石片が跳ね、袖へ砂がかかった。
以前なら、刃へまとう闘気に魔力を回しすぎて、体内を巡る身体強化の加減が乱れた。今は、内と外への配分を崩さず、足を動かしながら刃の白い光を保てる。
「カエル、押さえるね。絡め、土よ――《アース・バインド》!」
エステルの土が後ろ脚を捕まえた。
だが、カエルは喉を膨らませる。
脚を止めても、口は動く。
「左へ寄って!」
俺が伝えると、2人は射線を外れた。石弾が通り過ぎたところへ、シルヴィアが杖を向ける。
「凍てつく矢よ、走れ――《フロスト・アロー》!」
氷が開いた口を捉えた。続くエステルの水の槍が、カエルを倒す。
シルヴィアが、ゴーレムを狙える位置へ動く。俺はその間に、ゴーレムの膝へ回った。
足元を土で少し盛り上げる。踏み直そうとした脚の関節へ、闘気をまとわせた剣を通した。
巨体が傾く。
膝をついた拍子に、首と胸の間から、淡く光る石が見えた。
「そこ、狙えますわ!」
「頼む!」
シルヴィアの詠唱が始まる。俺はゴーレムの足元の土をさらに盛り上げ、立ち上がるのを妨げた。
詠唱を最後まで紡いだシルヴィアが、杖先を隙間へ向ける。
「――《フロスト・ランス》!」
氷が隙間を押し広げた。
その脇へ、俺の刃が届く。
光が砕け、岩の腕が止まった。
崩れた岩の身体が、先に倒れたカエルと同じく白い粒へ変わる。周囲を確かめてから、俺は闘気を解いた。
「胸を割ろうとするより、ずっと早かったね」
「動くところには、隙間がありますものね」
「ああ。2人のおかげで、そっちへ集中できた」
太い岩の腕と、小さな口から来る石弾。
同じ場所にいる魔物でも、対処はまるで違った。
消滅した跡には魔石と魔岩片、カエルの硬い皮が落ちていた。砕いた身体の石を集めるのではなく、ドロップとして残った品を拾い分ける。カエルの魔石と、吐き出した普通の小石まで混ぜるわけにはいかない。
「石がいっぱいだと、仕分けも大変だね」
「全部持ち帰ればいい、では済みませんわね」
エステルとシルヴィアが顔を見合わせて笑った。
俺も笑い、袋に種類を書いた。
*
その後も、いくつかの通路を確かめた。
昼には、見通しのよい場所で交代して食事を取った。
午後は地図の主な通路を辿り、第5層へ下りる階段を見つけた。
下から、かすかな羽音が上がってくる。
「虫が多い層、だったね」
「鉄殻アリと、刃羽蜂が中心だ。今日はここまで記録しておこう」
足元と帰り道を確かめ、階段の位置を地図へ書き込んだ。
明日は、ここから先へ進める。
今日は、授業の後だけでは確かめきれなかった場所まで、自分たちの足で歩けた。
時計を見て、俺は2人へ声をかける。
「今日は、ここまでにしよう」
「もうそんな時間?」
エステルが顔を上げた。
「野営の準備にも時間を残したい」
「あ、そうか。今日は、帰らないんだ」
言ってから、彼女が笑う。
朝にも確かめたことなのに、改めて嬉しくなったらしい。
シルヴィアは肩の紐を直し、頷いた。
「寝床は、疲れきる前に作っておきたいですわね」
その意見には、全面的に賛成だった。
*
第3層の野営候補地へ戻ると、もう1度、中と周囲を確かめた。
通路から少し外れた、乾いた岩陰だ。
奥行きがあり、入口は1つ。頭の上にも、魔物が潜みそうな穴はない。
安全が保証されている場所ではないが、交代で入口を見張るには都合がよかった。
俺は奥の地面を確かめ、手で小石を拾った。
エステルが隣へしゃがむ。
「ここ、少し出っ張ってる」
「ああ。寝たら背中に当たりそうだ」
「ちょっと待って」
彼女の短い詠唱に合わせ、土が動いた。
尖っていた部分が低くなり、足元が平らになる。
「どう?」
「助かった。これなら寝やすい」
エステルが満足そうに笑った。
入口で見張っていたシルヴィアが、こちらを振り返る。
「では、次は天幕ですわね」
2つのテントを出した。
設営は、授業で何度か練習している。
ただ、学院の柔らかな土の上と岩の多い迷宮では、同じようにはいかない。
紐を留める位置を変え、互いの入口が見張りの場所から分かるように向きを調整する。
できあがった時には、思ったより汗をかいていた。
「……家を作るって、大変なんだね」
「ひと休みしたいな。どんな寝心地か、さっそく試したくなってきた」
「わたしも。今夜のお家だもの!」
エステルが、2つの天幕を見比べる。
その言い方に、少し胸がくすぐったくなった。
俺たちで用意した、今夜の居場所。
そう思えば、確かに、小さな家に見えなくもない。
*
最後の紐を確かめ、俺は袖を見た。
砂と埃がついている。
ゴーレムの拳を避けた時に汚れたところは、汗と混ざっていた。
「水と布を出すか」
そう言うと、シルヴィアが待っていたように杖を持ち上げた。
「その前に、少しよろしいかしら」
エステルが顔を向ける。
「朝、言ってたやつ?」
「ええ」
シルヴィアは俺の袖を見た。
「こちらで、試しても?」
「いいよ」
俺は腕を上げた。
彼女が1歩近づく。
丁寧に、言葉を紡いだ。
「清らかな流れよ、触れるものの汚れを払い、本来の清潔を取り戻せ――《クリーン》」
淡い光が、袖を撫でた。
砂の跡が、消えていく。
張りついていた埃も、汗のべたつきもなくなった。
俺は袖を指でつまんだ。
濡れていない。
布の色が、朝と同じになっている。
「……おお」
声が出た。
そして、1拍遅れて気づいた。
クリーン。
ど定番中の、ど定番ではないか。
異世界で旅をするなら、まず欲しくなる生活魔法。風呂にも洗濯場にも困る場所で、身体や服をきれいにできる。
前世の記憶を取り戻した頃、覚えておきたい魔法の候補には、ちゃんと入れていた。
それなのに、後回しにした。
まず戦えるようになろう。金を稼ごう。次は身体強化、その次は雷。
そうしているうちに、存在を知っているだけで、準備した気になっていた。
……全てのテンプレに備えるつもりの男が、定番の生活魔法を忘れて、洗い物用の布を詰めてきたわけだ。
いや、布も必要だ。持ってきたことは間違っていない。
だが、思いついたことを後回しにして、そのままにしたのは反省すべきだった。
袖を見る。
きれいだった。
俺が先送りにした準備を、シルヴィアは済ませてきた。
これは、素直に頭が下がる。
エステルが、俺の腕へ顔を近づけた。
「待って。今ので、きれいになったの?」
「ええ。清潔にする生活魔法ですわ」
「水で洗わなくても?」
「この程度の汚れでしたら」
エステルが、俺の袖をつまむ。
表を見て、裏を見て、それからシルヴィアを見た。
「シルヴィア」
「はい」
「わたしにも、お願い」
とても真剣な声だった。
*
まずは、エステルの手からだった。
同じ詠唱の後、指についた土が落ち、手首の汗も消える。
エステルは両手を開き、握り、もう1度開いた。
「……すごい」
呟いてから、今度は袖を差し出す。
シルヴィアが少し笑った。
「順番ですわ。あちこち1度に動かさないでくださいませ」
「うん。動かない」
本当に、ぴたりと止まった。
ユリウス先輩の雷を見ていた時に似た目をしている。
だが、今、彼女が見ているのは、袖から消えていく土汚れだった。
「いつの間に覚えたんだ?」
俺が聞くと、シルヴィアは詠唱を終えてから答えた。
「泊まりで潜ると決めてからです。クラリッサ先輩に、用意しておくとよい魔法はないか伺いましたの」
なるほど。
朝の会話は、このことだったのか。
「生活魔法の本を借りて、教えていただきました。最初は、布の端だけしかきれいになりませんでしたけれど」
「練習してたの?」
「ええ。毎日、少しずつ」
シルヴィアが自分の袖へ目を落とす。
「2晩も泊まるのでしょう。汗をかいたまま眠るのは、嫌ですもの」
真面目な理由だった。
そして、まったく正しかった。
食べ物と寝具は考えた。
身体を拭くための布や水も用意した。
そこからさらに、使える魔法を増やしてきたのだ。
「ありがとう。そこまで準備してくれて」
「わたくしも使いたかったのですわ」
「それでも、助かるよ」
そう答えると、シルヴィアは少しだけ顎を引いた。
頬が、淡く赤くなっていた。
いつもなら、ここでもう一言、澄ました返事が続く。今日は何も言わず、嬉しさを隠すように唇を結んでいる。
それでも、こちらを1度だけ見た。
褒められたことを、もう1度確かめるような目だった。
俺まで少し、照れくさくなった。
エステルは、すっかりきれいになった手を見つめている。
「知ってはいたんだよ。こういう魔法があるの」
ぽつりと言った。
「でも、帰れば着替えがあって、お風呂にも入れるでしょう。だから、自分で覚えるなら新しい攻撃魔法が先だって思ってた」
水や土を、戦い以外に使うことは彼女も知っている。
さっき、地面をならしてくれたばかりだ。
それでも、生活そのものを助ける魔法を、今までの暮らしでは急いで覚える必要がなかったのだろう。
「……違ったね」
エステルが、俺を見る。
「今日の夜まで考えるなら、こっちも大事だった」
「ああ。寝心地が、かなり違うと思う」
彼女はシルヴィアへ向き直った。
「わたし、絶対に覚える。そして毎日使う」
力強く、言い切った。
「次は、わたしがシルヴィアをきれいにするから」
「……では、お願いしようかしら」
「うん。約束」
差し出された小指を見て、シルヴィアが笑った。
子供の頃からしていたのだろうか。
迷うことなく、2人の指が絡んだ。
*
「では、俺にも教えてほしい」
言うと、2人が揃ってこちらを見た。
「オスカーも?」
「便利すぎるだろう。服と身体をきれいにできるなら、エステルと同じく毎日でも使いたい」
「何でもすぐ覚えようとするんだから」
「はは、エステルと同じだよ。さっきから、俺も使ってみたくて仕方ない」
エステルが笑った。
シルヴィアは、俺たちを交互に見た。
「今夜は、練習で魔力を使いきらないでくださいませ。初めての野営なのですから」
「そうだな。帰ってから、教えてもらえるか?」
「わたしも。まずは、話だけ聞く」
「それなら、夕食の時に」
シルヴィアが頷いた。
誰にかけるか、どこまで汚れているかで、使う魔力も変わるらしい。今の彼女は1度で全員をきれいにするほど慣れていない。
少しずつ、必要なところへ使っていく。
傷を治す魔法ではないし、服の破れも直らない。
だが、今日欲しかったのは、まさにそれだった。
俺が入口の見張りに戻り、2人は天幕の陰で身支度を整えることになった。
俺もその前に、手や首元へかけてもらう。
「少し、襟を緩めてくださいませ」
「こうか?」
「ええ。そのまま」
シルヴィアが近づいた。
だが、杖を上げたところで1度止まる。
「どうした?」
「いえ。少し、あちらを向いて……」
言われたとおりにすると、彼女の視線が俺の顔へ上がった。
それきり、次の言葉が来ない。
「シルヴィア?」
「分かっていますわ。今、かけますから」
彼女は小さく息を整え、杖を持ち直した。
首元へ杖先を向け、静かに詠唱を始める。
首元を光が撫でる間、彼女の顔がすぐ近くにあった。
伏せた睫毛が、小さな影を落としている。真剣な顔をしているのに、近づいた時から頬だけがほんのり赤い。
こんなに近くで、彼女の顔を見たのはいつだったか。
考えかけたところで、青い瞳が上がった。
目が合う。
すぐ逸らすのも不自然な気がして、見たままになった。シルヴィアも動かず、詠唱の声だけが、ほんの少し小さくなる。
それでも、最後まで唱え終えた。
「……終わりましたわ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう言っても、彼女はすぐには離れなかった。
「……あまり、見ないでくださいませ」
「すまない」
「嫌だとは、言っておりませんけれど」
最後の方は、聞き取れるぎりぎりの声だった。
返事を考えているうちに、シルヴィアが先に身を引く。耳にかかった髪を直す手が、少しだけ忙しい。
エステルが何か言いかけたので、俺は入口へ向かった。
別に、逃げたわけではない。
見張りは、必要な仕事だ。
*
夕食は、地上で用意して収納しておいたものを出した。
温かいスープ。鶏の唐揚げと刻んだ葉野菜を挟んだパン。それから、切り分けた果物。
昨日のうちに、鶏肉へ塩と香味野菜の汁を揉み込んでおいた。こちらの芋から取れる粉を薄くまぶし、今朝、寮で揚げてから収納したものだ。醤油味にはできなくても、衣を噛む楽しさは再現できる。
エステルがパンをかじると、かり、と小さな音がした。
「えっ。今の、パンじゃないよね?」
「中の肉だ。唐揚げにしてみた」
もうひと口。今度は、噛んだまま目を丸くする。
「外はかりかりなのに、中から汁が出てくる!」
「……この葉野菜も、合いますわね。お肉だけより、次のひと口が欲しくなります」
シルヴィアが口元を拭き、空いた手でパンを持ち直した。
居酒屋で何度も揚げた唐揚げを、迷宮の中で2人が食べている。見慣れない光景なのに、揚げ物を噛んだ時の顔は、前世のお客さんと同じだった。
こういうのを見られるなら、仕込みの手間も悪くない。
エステルがカップを受け取り、嬉しそうに湯気へ顔を寄せる。
「地面は土の魔法。きれいにするのはクリーン。ご飯はオスカーの収納」
「他の冒険者は恨むでしょうね」
温かい食事を出せることには、もう驚かない。
それでも毎回、嬉しそうにしてくれる。
シルヴィアも、両手でカップを受け取った。
「ありがとうございます」
俺は返事をしかけ、少し遅れた。
髪をほどいていた。
いつも整えて結っている茶色の髪が、肩から背へ柔らかく落ちている。
上着を脱いで、動きやすい服へ替えていた。髪を結う飾りがない分、整った顔立ちがよく見える。灯りを受けた茶色の髪は毛先だけ淡い金色に透け、カップを受け取る拍子に頬へ1筋かかった。
彼女はそれを、指先でそっと耳へ寄せた。
ただ、それだけの仕草だ。
いつも見ているはずなのに、今は妙に目が離せなかった。
「……何か、ついていますの?」
「いや。髪を下ろすと、雰囲気が変わるなと思って」
シルヴィアの手が、髪の先へ触れた。
「寝る時まで、結っておくわけにはいきませんもの」
「そうだな」
「……変ですか?」
「似合ってる。綺麗だと思う」
言ってから、少し率直すぎたかと思った。
シルヴィアはカップを持ったまま固まっていた。青い目を丸くし、それから、ゆっくり視線を落とす。
「……そういうことを、急におっしゃるから」
カップの縁で隠しきれないほど、口元が緩んでいた。
その顔を見て、取り消さなくてよかったと思った。
エステルが、こちらを覗き込む。
「わたしは?」
銀色の髪を肩の前へ流している。
いつも元気に動き回る彼女が、マットの上で膝を揃え、カップを持っていた。
銀色の髪に灯りが映って、笑うたびに細い光が揺れる。昼間の弾むような笑顔も好きだが、今の、返事を待って少し首を傾げる顔には別の可愛らしさがあった。
「……エステルも、可愛いよ」
彼女が瞬きをした。
「ほんと?」
「ああ」
いつもの調子で喜ぶと思っていた。
だが、エステルはカップへ目を落とし、両手で持ち直した。髪の間から見える耳が、赤くなっている。
「自分で聞いたのに、なんか、恥ずかしいね」
小さく笑い、もう1度だけこちらを見た。
その笑顔に、俺の方が返事を忘れた。
「……2人とも、食べないと冷めますわよ」
シルヴィアの声で、ようやくカップを持ち上げる。
スープはまだ温かかった。
妙に熱く感じたのが、そのせいだけかは分からない。
*
入口を見られる位置で、順に食事を取った。
話題は、今日のゴーレムと石弾カエルから、いつの間にか生活魔法へ変わっていた。
「クリーンで、お皿も洗える?」
「小さな器でしたら。ただ、今夜はわたくしの魔力も残しておきたいので、全部は」
「うん。じゃあ、お皿は水で洗おう」
エステルが頷く。
「火でお湯を温めて、風で乾かして……覚えた魔法、もっといろんなことに使えるね」
「剣の手入れまでクリーンで終わるか、帰ったら武具屋で聞いてみたい」
俺が言うと、シルヴィアが首を横に振った。
「汚れが落ちても、刃こぼれは直りませんわよ」
「そこは、ちゃんと見る」
カップを持つシルヴィアの右手で、青い石が光った。
魔力回復リングだ。
「魔力は、どうだ?」
「戻ってきていますわ。クリーンを使った分も、少しずつ」
シルヴィアが指輪へ目を落とす。
エステルも、右手を持ち上げた。
「これ、泊まりだと、もっとありがたいね。ご飯を食べている間にも戻るし、この後、休む時間もあるでしょう?」
「ああ。明日も、迷宮の中で動くからな」
日帰りでも、何度も助けられた。
だが、地上へ戻らない遠征では、夜の備えも、翌日の戦いも、自分たちの魔力でまかなうことになる。
1戦を終えて休む。食事をする。交代で眠る。
その時間に戻る量が違えば、次に使える魔法の余裕も変わる。
俺の《魔力回復促進》も、こうして食事をしている間に働いていた。残量を確かめると、野営地へ着いた時より増えている。
《体力回復促進》のおかげもあって、座って休めば、歩き続けた脚の重さが和らぐのも早い。
戦っている時には、剣や雷の手応えに目が向く。
だが、明日も同じように戦えるようにしてくれる、こういう力が頼もしい。
「指輪、2人に使ってもらってよかったよ」
口にすると、シルヴィアが俺を見た。
「わたくしたちも、そう思っておりますわ」
「うん。いっぱい使ってる」
エステルが笑う。
あの時は、売ればどれだけ返済へ回せるかも考えた。
今は、2人の手に残っていることが嬉しかった。
もちろん、戻るからといって使い放題ではない。今夜の見張りにも魔力は要るし、眠る時間を削っていいわけでもない。
明日のために、ちゃんと休もう。
帰り支度をしない夕食は、いつもよりゆっくり終わった。
俺は、剣の状態も確かめた。
2人から贈られたミスリルの刃は、今日もよく応えてくれた。
空いた皿を片づける。
明日の朝に必要な物を分け、すぐ手に取れる場所へ置いた。
「ねえ。今、地上はもう暗いよね」
エステルが言った。
俺は時計を確かめる。
「そろそろだろうな」
「いつもなら、別れてる時間だ」
言葉の後に、短い沈黙があった。
シルヴィアが、空になったカップを両手で包んでいる。
俺は、その横顔を見た。
シルヴィアも、こちらを見ていた。
目が合うと、慌ててカップへ口をつける。
「……もう、空だったな」
「知っておりますわ」
そっとカップが下ろされた。
耳まで赤くなっているので、それ以上は言わないでおいた。
迷宮の壁も、マットも、さっきまでと変わっていない。
ただ、今日の会話は、まだ終わらない。
どちらへ帰るか決めずに、同じ灯りのそばにいる。
「……不思議な感じですわね」
シルヴィアが言った。
「ああ」
エステルが、少しだけ肩を寄せた。
「わたしは、好きだな。こういうの」
軽い声だった。
だが、俺の顔を見る目は、少し真剣だった。
「俺も、来てよかったと思ってるよ」
「じゃあ、また来ようね」
「ああ。次の楽しみもできたな」
答えると、彼女は満足そうに頷いた。
エステルの視線が、俺の顔に留まる。
「何だ?」
「……今の顔、いいなって」
「顔?」
「笑ってたから」
言い終えた途端、エステルが口を閉じた。
いつもなら、もっと楽しそうにからかってくる。今は膝の上の布を指でつまみ、こちらを見たり、やめたりしている。
「もう1回って言ったら、変?」
「そう言われると、難しいな」
つい笑うと、エステルまで笑った。
そのあと、少し俯く。
「……うん。やっぱり、いい」
シルヴィアが横から彼女を見たが、何も言わなかった。俺と目が合うと、彼女まで視線を落とす。
どうして2人とも、急に静かになるんだ。
そう思った俺も、次の話題がなかなか見つからなかった。
*
最初の見張りは、俺だ。
次がシルヴィア。その次がエステル。
交代の時間を確かめ、2人が寝床へ向かう。
入口の近くには、小さな灯りを1つ残した。近づくものを見られる位置へ座り、剣を手元へ置く。
眠っている間まで、俺の地図が勝手に見張ってくれるわけではない。
だから、起きている者が、目と耳で確かめる。
エステルが天幕の入口から振り返った。
「ちゃんと起こしてね」
「ああ。時間になったら」
「眠そうでも、起こして」
「分かった」
シルヴィアも顔を出す。
「わたくしもです。勝手に交代を遅らせないでくださいませ」
「分かったよ。つい寝かせておきたくなるけど、ちゃんと頼るから」
「ええ。あなたにも、休んでいただきたいのです」
言われて、返事に詰まった。
エステルが笑う。
「じゃあ、おやすみ。オスカー」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
シルヴィアの声は、昼間より少し柔らかかった。
布が下ろされる。
中で小さく衣擦れがして、それから、2人の抑えた話し声が聞こえた。
内容までは分からない。
分からなくていい。
俺は入口の方へ向き直った。
遠くで、水の落ちる音がする。
今頃、先輩たちはどのあたりだろう。
朝、消えていった8人の背中が浮かんだ。
また嫌な続きを考えそうになって、目の前の通路へ意識を戻す。
今夜、俺が確かめるべき場所は、ここだ。
背中の向こうで、2人が眠ろうとしている。
やがて話し声が途切れた。
俺は時計を見て、交代までの時間を確かめる。
今日は、帰らない。
明日の朝、この2人へ「おはよう」と言うために、俺は静かな通路を見つめた。




