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『婚約破棄され、冒険者パーティも追放されたモブ貴族』~前世の知識と転生特典で借金を返して楽しく生きるつもりが、いつの間にか英雄になりそうです~  作者: 雅
間章 それぞれの歩み、忍び寄る影

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第62話 危機察知

 迷宮は夜になっても、薄暗い通路のままだ。


 あくびを1つ噛み殺す。


 眠い。


 当たり前だが、回復が早いからといって、眠くならないわけではないらしい。


 そろそろ交代の時間だった。


 通路に動きがないことを確かめてから、女子用のテントへ声をかける。


「シルヴィア。そろそろ交代の時間だよ」


「……はい」


 少し間を置いて、返事があった。


 布の擦れる音。それから、入口が静かに開く。


 顔を出したシルヴィアは、俺を見ると1度まばたきをした。ほどけかけた茶色の髪が頬へかかり、まだ眠たげな青い目が、ゆっくり俺を捉える。


 学院で見る、隙のない優等生の顔とは違った。


 少しぼんやりしていて、俺を見つけた途端、安心したように目元が緩む。


 俺は交代の前に、彼女の様子を確かめた。


「本当に、迷宮に泊まっているのですわね」


「ちゃんと眠れたか?」


「ええ、でも起きたら自分の部屋かと思いましたの」


 小さく笑って、彼女はテントから出てきた。


 シルヴィアは頬にかかった髪を耳へ掛け、通路を見た。


 肩に羽織った上着を直し、彼女は寝床の方へ振り返る。俺は声を落として尋ねた。


「エステルは?」


「よく眠っていますわ。寝る前は、あれほど楽しそうに話していましたのに」


「楽しそうだったな。何を話していたんだ?」


「……女同士の話です」


 急に声がはっきりした。


 眠気が覚めたなら何よりだ。


 俺たちは入口へ戻った。見張りの位置と、通路の奥にある見えにくい窪みを指し示す。


「当番の間、魔物は来ていない。遠くで2度ほど足音がしたが、こちらへは近づかなかった」


「分かりましたわ」


「何かあれば、すぐ起こしてくれ」


「あなたも、ですわよ」


「ああ。心配してくれてありがとう」


「何か気になることがあって眠れないなら、黙って起きていないでくださいませ」


 シルヴィアは通路へ目を向けたまま言った。


 自分の見張りだけでも緊張するだろうに、俺のことまで気にかけてくれていた。


 俺は入口の見える場所に腰を下ろした。


「ちゃんと寝てみるよ」


「……先輩方のことですの?」


 返事が1拍遅れた。


 その間に、シルヴィアがこちらを見た。


「今朝、見送ったあと。少し難しい顔をしていらしたから」


「そうだったか」


「ええ」


 俺は入口の向こうへ目を戻した。


 あの8人なら大丈夫だ。


 実力があり、経験もあり、準備もしていた。俺がここで心配したところで、彼らの剣が鋭くなるわけではない。


 頭では分かっている。


「世話になった人が遠くへ行くと、妙に気になるものだな」


 結局、言葉にできたのはそれだけだった。


 シルヴィアは急いで慰めようとはしなかった。


 膝の上で指を重ね、しばらく一緒に通路を見つめる。


「クラリッサ先輩に、帰ってきたら見ていただきたいものがありますの」


「クリーンか?」


「それもです。補助魔法も、もっと上手に使えるようになりたいですわ」


 彼女は小さく笑った。


「教えていただいたとおりにできました、と言うだけでは、少し悔しいですもの」


「驚かせたい?」


「ええ。できれば、レオノーラ様も」


 頼もしい話だった。


 今もきっと先輩たちは先へ進んでいる。帰ってきた時に何を見せるかを考える方が、ずっとシルヴィアらしい。


「さっきのクリーンには、十分驚かされた」


「では、今夜の用意は、わたくしの勝ちですわね」


「そうだな。汗も埃もきれいになって、気持ちよく眠れそうだ」


 シルヴィアが、少しだけ顎を上げた。


「帰りましたら、あなたにもお教えしますわ。次までに覚えていただきます」


「ぜひ頼むよ。次は、シルヴィアの分も俺がかけられるといいな」


「ええ、期待しておりますわ。その間に、わたくしは別の魔法も覚えますから」


 得意げな顔につられて、俺も笑った。教わるのが楽しみだった。


「でも、明日の分はお願いしていいか?」


「もちろんです。ですが、覚えるお約束とは別ですわよ」


「もちろん。自分で使えたら嬉しくて、何度も着替えを出してしまいそうだ」


「まずは、今着ている物からで結構ですわ」


 シルヴィアも笑った。声を潜めて話しているうちに、肩の力が少し抜けていた。


 シルヴィアが俺を見る。


「ですから、今は寝てくださいませ」


「そうだな。話してくれて、少し落ち着いたよ」


「こうしている間にも、あなたの寝る時間が減っています」


 正論だった。


 立ち上がると、彼女も姿勢を正した。杖を手元へ置き、入口へ視線を戻す。


「おやすみ、シルヴィア」


「おやすみなさい、オスカー」


 立ち去りかけた俺へ、シルヴィアが顔を上げた。


「……わたくしがいますから」


 気負った声ではなかった。


 ただ、安心してほしいと願うように微笑んでいる。


「ああ、ありがとう。おかげで安心して眠れそうだ」


 その言葉に任せて、自分のテントへ戻った。


 硬さを和らげるマット。薄い毛布。手を伸ばせば届く位置に置いた剣。


 寮のベッドほど快適ではない。


 それでも、思ったより悪くなかった。


 入口には、シルヴィアがいる。


 次はエステルが起きてくれる。


 任せると決めたのだから、ちゃんと寝よう。


 そう考えたところまでは、覚えていた。


     ◇


 ――目が覚めた。


 誰かに呼ばれたわけではない。


 夢を見ていた記憶もなかった。


 ただ、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が、眠りを断ち切った。


 《危機察知》。


 そう理解した時には、剣の柄を握っていた。


 身体を起こした直後、テントの外で声がした。


「オスカー、エステル。起きてください。入口に何かいます」


 シルヴィアだ。


 声は低く、しかし、はっきりしていた。


「起きた」


 返事をしながら外へ出る。


 ひんやりとした空気が頬に触れた。シルヴィアは杖を構え、入口より少し内側に立っている。


「右の岩陰です。爪の音がしました」


 俺は彼女の隣へ並んだ。


 灯りの端で、灰色の影が動く。


 狼だ。


 1匹が身を低くし、こちらを見ている。その後ろで、別の影が岩を回り込んだ。


 2匹。


 探索マップでも近くの反応を確かめる。いま迫っているのは、その2つだった。


 第3層では何度も相手にした魔物だ。


 ただし、寝起きで、背後にテントがある。


 いつもの探索中とは条件が違う。


「2匹いる。俺が前に出る。入口を越えさせない」


「ええ」


 後ろでテントが開いた。


「起きたよ」


 エステルの声から、眠気はほとんど消えていた。


「後ろの1匹を頼む」


「分かった」


 3人揃えば、決着は早かった。


 エステルが後ろの狼の脚を土で捕らえ、シルヴィアが氷の鎖を重ねる。その間に俺が手前を斬り、動きを止めたもう1匹も仕留めた。


 魔物が粒となって消えたあとも、すぐには剣を収めない。俺が通路の奥、シルヴィアが岩陰、エステルが背後を確かめた。


「……ほかは、今のところいない」


 2人の返事を聞き、ようやく息を吐く。


 怪我はない。テントも荷物も無事だ。昼間なら、歩みを少し止めただけで済んだ相手だった。


 それでも、昼間より心臓が速く打っていた。


 眠っていた場所の、すぐそばまで来ていた。


 その事実が、少し遅れて身体へ届いたらしい。


「2人とも、怪我は?」


「ありませんわ」


「わたしも。オスカーは?」


「大丈夫だ」


 剣を確かめてから、入口付近の処理を済ませる。2人には周囲を見てもらい、俺も必要以上に通路へ出ないようにした。


 このまま近くを1周しておこうか。


 一瞬そう考え、やめる。


 暗がりへ追いかけて、新しい戦闘を増やす必要はない。


 今は、3人で戻って休む方が先だ。


     ◇


「ちゃんと眠れていましたの?」


 入口へ戻ると、シルヴィアが尋ねた。


「眠っていた」


「随分、早かったので」


「俺も驚いた」


 それは本当だった。


 《危機察知》が眠っている間にも働く。


 今回は、そうだった。


 ありがたい。心底ありがたい。


 だが、これで見張りはいらない、とはならない。


 警告で目を覚ました時、俺には何が起きているのか分からなかった。相手の位置を教えてくれたのはシルヴィアだ。


 彼女が入口を見ていたから、剣を持って出た瞬間に動けた。


 寝ている俺が頼りになるかどうかを試すために、2人の命を賭ける気にはなれない。


「気づいてくれて助かった」


「……ええ」


 シルヴィアは頷いたあと、少しだけ肩を落とした。


「姿が見えなくて。風で何かが動いた音かとも思いましたの」


「だから、もう少し確かめようか迷った?」


「一瞬だけ」


「起こしてくれてよかったよ。迷った時も、遠慮しないでくれ」


 俺が言うと、エステルも大きく頷いた。


「何もいなかったら、また寝ればいいもん」


「そうだな」


「その時は、おやすみをもう1回言えるし」


 妙な利点まで追加された。


 シルヴィアの表情が、ようやく緩む。


「では、遠慮なく起こしますわ」


「ああ」


 俺たちは水を1口ずつ飲んだ。


 エステルが自分の指輪へ目を落とす。


「寝る前より、魔力が戻ってる。ちゃんと」


「わたくしもですわ」


 俺も、自分の状態を確かめた。


 先ほどの身体強化を使っても、余力は十分にある。


 休んでいる間に回復していた分が、いまの戦闘を支えてくれた。


 魔力回復リングも、回復促進も、やはり遠征では大きい。


 ただ、口を開いたエステルが、そのまま小さなあくびをした。


「……魔力は、戻ってるんだけど」


「眠気までは消えないな」


「うん」


 本人も納得したように目を擦りかけ、途中で手を止める。


「明日は、少し遅く出よう」


 俺は時計を確かめた。


「今の分、余計に起きていた。朝に3人の調子を見て決める」


「予定の道を全部回れなくても?」


「その時は、次の楽しみにしよう。寝ぼけて歩いて、見たい景色を通り過ぎたらもったいないからな」


「オスカー、さっきもあくびしてたもんね」


「見られてたか。もう少し、格好よく言うつもりだったんだけどな」


 エステルが笑う。


 シルヴィアも、口元を押さえた。


 それから、当番を元へ戻した。


 シルヴィアには残りの見張りを頼み、次は予定どおりエステルへ交代してもらう。


 俺が代わりに起き続けるという案は、口にする前から2人の顔に却下されていた。


「おやすみ、オスカー」


「おやすみなさい」


「……おやすみ」


 確かに、もう1回言えた。


 これを利点と数えていいかは、まだ分からない。


     ◇


 次に目を覚ました時は、危険を知らせる感覚はなかった。


「オスカー。朝だよ」


 テントの外から聞こえる、エステルの声だった。


 身体を起こす。


 時計を見る。夜中に相談して遅らせた、起床時刻になっていた。


「起きた」


「おはよう」


「ああ。おはよう」


 外へ出ると、エステルが入口の方を見ながら手を振った。


 顔を洗ったばかりなのか、頬が少し濡れている。銀色の髪の1房が、妙な方向へ跳ねていた。


 俺は自分の頭の横を指さした。


「ここ」


「え?」


「髪が跳ねている」


 エステルが手で押さえる。


 手を離す。


 髪が戻る。


「……強い」


「手強いな」


「シルヴィアのクリーンで、どうにかならないかな」


「寝癖は汚れではないと思うぞ」


 生活魔法への期待が、すでに少し大きすぎる。


 エステルは不満そうに髪を押さえ、俺の顔を見た。


 まだ少し眠たげな目が、急に楽しそうに細くなる。笑いをこらえるように唇を結んだが、結局、こぼれてしまった。


 銀色の髪が1房、また跳ねる。


 寝癖を相手にしていると、いつもの朝に戻った気がした。


「オスカーも」


「俺もか」


「うん。後ろ」


 触ってみると、確かに跳ねていた。


 人の髪を指さして、自分も同じことになっていた。2人で笑ってしまった。


「見張り、代わろうか。髪を直してきていいよ」


「ありがとう」


 通路の状況を聞いてから、エステルと位置を入れ替わる。


 彼女の当番中には、魔物は近づかなかったらしい。


 背後で水と布を扱う小さな音がした。


「ねえ、オスカー」


「何だ?」


「起きた時、シルヴィアがいたの」


「交代だからな」


「そうなんだけど」


 エステルが隣へ戻ってきた。


 髪は、どうにか落ち着いている。


 エステルは俺の後ろへ目をやると、小さな布を持ち上げた。


「オスカーも。ここ、まだ跳ねてる」


「あとで直すよ」


「わたしがやっていい?」


 頷くと、彼女が隣から少し背伸びをした。湿らせた布で後ろ髪を押さえ、指でそっと整える。


 俺は通路を見たまま、髪を整えてもらった。


「これで、よし」


「ありがとう」


「どういたしまして。次は、もう少し寝やすい枕も欲しいね」


 エステルは布を畳み、隣へ腰を下ろした。


「寝る時にはオスカーがいて、起きたらシルヴィアがいて。今は、わたしがオスカーを起こしたでしょう」


「ああ」


「なんか、いいね」


 そう言って、嬉しそうに笑った。


 俺は返事を探した。


 夜中には魔物が来た。地面は硬かったし、ベッドほどよく眠れたわけでもない。


 それでも、最初に聞いた声が仲間の声だったことを、悪くないと思っている。


 昨日の夜も、似たようなことを考えたな。


「……そうだな」


「また、こういうのしたい」


「俺も、また来たいな。まずは今回、みんなで無事に帰ろう」


「終わったら、考えてくれる?」


「ああ」


「約束ね」


「ああ。約束だ」


 エステルは満足そうに頷き、俺と並んで通路へ目を向けた。


     ◇


「何のお約束ですの?」


 ほどなくして、シルヴィアがテントから出てきた。


 エステルはあっさり答える。


「また3人で泊まりに来ようって」


「まだ、帰ってもいませんのに」


「シルヴィアは嫌?」


「……嫌とは言っておりませんわ」


「じゃあ、決まりだね」


 シルヴィアは小さく息をつき、エステルは楽しそうに笑った。


 朝食は入口を見られる場所で取った。


 収納から出した温かい食事を分け、昨夜のことを簡単に振り返る。


 最初に聞こえた音。魔物が姿を見せた場所。テントから出るまでの動き。


 シルヴィアが地図の端へ短く書き込む。


 エステルはパンを飲み込んでから、岩陰を指した。


「灯りを少しずらしたら、あそこが見えやすくなるかも」


「そうだな。今夜の野営地でも、灯りを置いたら、見えにくい場所が残らないか確かめよう」


「ええ」


 大げさな反省会にはしない。


 できたことを確かめ、次に変えることを1つ決める。


 初めて泊まったからこそ、分かったことだった。


 食後、シルヴィアが必要な箇所へクリーンをかけてくれた。


 昨日ほど驚かなかった。


 その代わり、昨日よりありがたかった。


「帰ったら、ぜひ教えてくれよ」


「わたしにもね。絶対だよ」


「分かっていますわ。お2人とも、練習から逃げないでくださいませ」


「ああ。俺もエステルに負けないくらい、楽しみにしてるよ」


「わたし、覚えるのは早いよ。すぐ追いつくからね」


「存じておりますわ。ですから、わたくしも練習を続けます」


 エステルがぱっと笑った。


「そういうところ、好き。教えてくれるのに、負ける気はないんだね」


「教えることと、負けることは別ですもの」


「俺が遅れても、先に帰らないでくれよ。初めて使えるところは、2人に見てもらいたいからな」


「もちろんだよ。一緒に覚えよう」


「ええ。分かるまで、お付き合いいたしますわ」


 それなら、失敗しても楽しそうだった。


 片づけを終え、荷物を収める。


 出発を遅らせた分、3人とも落ち着いて動けるようになっていた。魔力も十分だ。


 それでも、寮で朝まで眠った時と同じではない。荷物の留め具を締めながら、俺はもう1度だけあくびを噛み殺した。


 3人だけで見張りを回すと、1人あたりの当番も短くはない。何も来なくても気は張るし、何か来れば、眠っていた者まで起きることになる。


 戦いに勝てることと、何日もここで暮らせることは、別なのかもしれない。


 まだ初めての朝だ。今日は先を急ぐより、この身体でどれだけ動けるのかを確かめよう。


 今日は第4層の寄り道を減らし、昨日見つけた階段から第5層へ進む。


 まず野営候補地を自分たちの目で確かめる。そこを使えれば、時間と余力を見て第6層の入口周辺まで足を延ばそう。


 2晩目は第5層で泊まり、明日は帰路に専念する。


 そして明日は、地上へ帰る。


「行こうか」


「ええ」


「うん!」


 入口を出て、来た道を歩く。


 振り返ると、空になった岩陰が見えた。


 昨日までは、地図に印をつけた野営の候補地だった。


 今は少し違う。


 シルヴィアへおやすみを言い、エステルの声で朝を迎えた場所だ。


 迷宮で増えるものは、経験値と金だけではないらしい。


「オスカー?」


 先へ進んだ2人が、こちらを振り返る。


「何でもない」


 俺は歩幅を広げ、2人に並んだ。


 初めての泊まり探索、2日目。


 今夜もちゃんと眠って、明日も3人で朝を迎える。


 今日の目標には、それも入れておこう。

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