第59話 帰る場所と、進む先
父からの手紙は、朝食へ向かう途中で受け取った。
7月22日。
寮の窓から入る風は、朝から温かい。
封筒を受け取った時、俺はまず差出人の名を見た。それから、封が破れていないことを確かめ、部屋へ引き返した。
机の前へ座る。
紙を傷つけないように封を開くと、何枚かの書類と、1通の手紙が出てきた。
父の字だ。
オスカーへ。
金貨60枚と、手紙を受け取った。
ありがとう。
8月3日の支払いは、7月17日に済ませた。
俺は、その1行で止まった。
済ませた。
送った、ではない。
これから払う、でもない。
支払いが、終わっている。
別紙にも目を通す。日付と金額、支払いの記録が添えられていた。
60枚。
間違いない。
「……よし」
声が出た。
椅子の背へ、ゆっくり身体を預ける。
送金した時にも、安心はしていた。必要な金を用意し、届ける手続きをした。俺にできることは、ひとまず済ませたつもりだった。
それでも、どこかで気になっていたのだろう。
今、ようやく肩の力が抜けた。
借金全部が消えたわけではない。
だが、目前に迫っていた返済は、期限前に済ませられた。
壁に掛けた暦へ目を向けた。
8月3日のところには、小さく印をつけてある。
あの印を見るたびに、あと何日かと数えていた。
今日は、数えなくてよかった。
*
先に送った8枚についても、父は書いてくれていた。
使途の記録もあった。
俺は、自分の帳面へ受領を確認した日を書き込んだ。
送った金と、返済された金は分けておく。
父もそのつもりで、今の収支と借り入れの資料を添えてくれていた。これから相談する時にも役立つ。
ひと通り確かめ、手紙へ戻る。
仲間と先輩方へ、父からも礼を伝えてほしい。
その後には、1人ずつ名前が並んでいた。
シルヴィア。エステル。レオノーラ。ユリウス先輩。クラリッサ先輩。
父なりに、誰に何をしてもらったのか、丁寧に読んでくれたらしい。
少し、顔が緩む。
その次に、帰省の話があった。
夏休みに帰れる日があれば、顔を見せてくれると嬉しい。
ただし、仲間との約束や、自分で決めた予定まで変える必要はない。
土産もいらない。
元気な顔と、手紙に書ききれなかった話を持って帰ってきてほしい。
父上らしいな、と思った。
帰ってこい、と言えばいいのに。
その後へ、こちらが断れる理由まで書き添えている。
だが、断ろうとは思わなかった。
会いたかった。
あの橋も、畑も、今の父の顔も、自分の目で見たかった。
最後の1行へ、視線が落ちた。
お前を、誇りに思う。
……参ったな。
俺は手紙を机へ置いた。
窓の外を見て、もう1度、紙へ目を戻す。
前世では、褒められることも、礼を言われることもあった。
それなのに、父が書いた短い1文で、こんなに言葉が出なくなるとは思わなかった。
俺は、この人の息子として育った。
前世を思い出す前も、思い出してからも、それは変わっていない。
気弱で、剣も魔法も上手く使えなかった俺を、学院へ送り出してくれた父だ。
少しでも、助けたかった。
それが、届いた。
机の上で手を握る。
「……よかった」
今度は、それしか出てこなかった。
*
「何か、いいことあった?」
教室へ入ってすぐ、エステルに聞かれた。
俺は鞄を置きながら、彼女を見る。
「そんなに分かるか」
「分かるよ。教室に入ってきた時から、ずっと笑ってるもの」
「そこまで分かるか。じゃあ、隠さずに話すよ。いい知らせなんだ」
「うん、聞かせて!」
俺は笑って、鞄から父の手紙を取り出した。
「父から返事が来た。金は届いて、支払いも済ませたそうだ」
シルヴィアが、手にしていた本を閉じた。
「……8月3日の分ですの?」
「ああ。17日に払ってくれた」
彼女は俺の顔を見て、1度、小さく頷いた。
それから、ほっとしたように笑う。
「よかったですわ。本当に」
「うん。これで、お父様も安心できるね」
エステルの声が弾んだ。
俺は2人へ、父からも礼を伝えてほしいと書いてあったことを話した。
「2人にも、直接会って礼を言いたいだろうな」
「会いに行く!」
速かった。
エステルが、椅子ごとこちらへ向き直る。この少女は自分が王女ということを理解しているのだろうか。
「夏休み、帰るんでしょう?」
「日程は、これから考える。迷宮の予定もあるし」
「じゃあ、それも一緒に考えようよ」
シルヴィアが、エステルの袖を軽く引いた。
「ご家族で過ごす時間も必要ですわ。最初から2人で押しかけるようなお話は――」
「シルヴィアも行くよね!」
沈黙。
「わ、わたくしは――」
婚約破棄したことを気にしているのだろう。
俺は彼女へ顔を向けた。
「シルヴィアも、よかったら一緒に来ないか?」
シルヴィアは申し訳なさそうに、ちらりと俺を見る。
俺は静かに頷く。
「……お邪魔でなければ、ご挨拶くらいは」
「父も喜ぶと思うよ。日程は、それぞれ家に相談してから決めようか」
「うん。ちゃんと聞く。絶対行く」
エステルが頷いた。こうなった時のエステルを止めるのは、例え陛下でも無理だろう。
シルヴィアも、姿勢を正す。
「わたくしも、お父様にお話ししますわ」
約束したのは、相談することだけだ。
まだ、旅行が決まったわけではない。
それでも、エステルは目を輝かせ、シルヴィアは困惑しつつも、決意を固めた顔をしている。
「オスカーの家の近くって、何があるの?」
「畑と、川と、橋」
「それから?」
「少し歩くと、また畑と森」
「ふふ。じゃあ、案内してね」
王女殿下と伯爵令嬢を案内する場所があるだろうか。
考えてから、少し違うと気づいた。
父が守った畑を、2人に見せればいい。
俺が何のために金を稼いでいたのか、話しながら歩けばいいのだ。
「分かった。来ることになったら、ちゃんと案内する」
答えると、2人が笑った。
*
昼休みには、生徒会室へ顔を出した。
ユリウス先輩は書類を広げ、クラリッサ先輩はその横で何かを確かめていた。
レオノーラは、卓上の地図へ身を乗り出している。
俺たちの顔を見ると、先輩が筆を置いた。
「どうしたの?」
父の受領と支払いを報告し、預かった礼を伝える。
ユリウス先輩が、目を細めた。
「そうか。それなら、安心して夏休みを迎えられるね」
「はい。ありがとうございます」
「お父上には、こちらこそ、よい後輩と出会えましたと伝えてくれるかな」
少し、返事が遅れた。
「……はい。伝えます」
クラリッサ先輩も頷き、シルヴィアへ顔を向けた。
「教えたことを大切に使ってくれて、私も嬉しいわ」
「まだ、教わりたいことがたくさんありますわ」
「帰ってきたら、続きをしましょう」
帰ってきたら。
その言葉で、卓上の地図へ目が向いた。
俺たちが広げている第3層の地図とは違う。
20層より下の通路が、何枚にも分けて描かれていた。
「出発まで、あと10日ですね」
「ああ。準備も最後の確認に入った」
レオノーラが答えた。
地図には、いくつもの書き込みがある。
休める場所。荷物の持ち分。戻る時に使う道。
余白には、1度消して書き直した跡も残っていた。
「8人とも、授業の合間によく集まれるね」
エステルが言うと、ユリウス先輩は笑った。
「集まれない時は、こうして書いて回すんだ。誰かが見落としても、別の誰かが気づくからね」
「ここ、お姉様の字?」
エステルが、地図の端を指した。
「そうだ」
「その下は?」
「私よ」
クラリッサ先輩が答える。
覗くと、レオノーラの書き込みの下に、別の道が付け足されていた。
「先へ進む道だけ考えていると、戻る方が遠回りになるの。だから、そこは相談ね」
「……もう直しただろう」
「ええ。ちゃんと」
クラリッサ先輩が微笑んだ。
レオノーラは咳払いをした。
この人たちも、こうして準備している。
強いから迷わないわけではないし、最初から全部分かっているわけでもない。1度訪れた場所が安全とは限らない。
何度も話して、確かめて、8人で決めている。
俺は、自分たちの地図を思い出した。
入口の広間には、シルヴィアの字で死角の注意が書いてある。エステルは、岩角山羊が跳びかかってきた岩の位置を足していた。
先輩たちの地図ほど、まだ書き込みは多くない。
それでも、やっていることは少し似ていた。
「俺たちも、第3層で道を増やしています」
ユリウス先輩がこちらを向く。
「最初の日は、東の通路を少し進んで戻りました。その後も何度か潜って、今は入口の広間へ戻る別の道まで分かっています」
「うん。帰り方が増えるのは、いいことだ」
「今日は、その先の分岐を確かめる予定です」
「無理なく、進んでおいで」
先輩の声は、いつもと同じだった。
こちらを子供扱いせず、けれど、心配はしてくれる。
俺も、同じように返したかった。
「先輩たちも、全員で帰ってきてください」
ユリウス先輩が、1度だけ瞬きをした。
それから、笑う。
「もちろん。そのつもりで、準備しているよ」
「戻ったら、話を聞かせてください。俺たちが見たことのない場所の話を」
「ああ。君たちの話も聞かせてほしい」
レオノーラも頷いた。
「留守の間に、どれだけ腕を上げるか楽しみにしている」
「お姉様がびっくりするくらい」
エステルが、当然のように答えた。
「言ったな」
「うん。お姉様もね」
姉妹が笑い合う。
その隣で、シルヴィアが杖の柄へ指を添えた。
「わたくしも、次にお会いする時には、もっと上手く使えるようにしておきます」
「期待しているわ」
クラリッサ先輩の返事に、彼女は真っ直ぐ頷いた。
まだ、出発の日ではない。
それでも、夏休みが近づいていることを、はっきり感じた。
*
午後の授業が終わると、3人で黒曜へ向かった。
第3層へ初めて下りてから、8日。
毎日潜っていたわけではない。探索を休んで練習した日もあれば、資料を広げて話した日もある。
あの日、岩角山羊と戦った広間を、今日は迷わず通り抜けた。
岩棚を確かめ、柱の向こうへ注意を向ける。
東の通路へ入り、最初の分岐で右へ。
次の曲がり角で、シルヴィアが足を止めた。
「こちらでしたわね」
「ああ。その先の低い岩を越えたところだ」
新しく確かめたいのは、前回、帰る時刻になって残した道だった。
探索マップにも、俺たちが通ったところまでは残っている。
その先は、今日、歩いて覚える。
エステルが、少し前へ出て天井を見上げた。
「ここから、低くなるね」
奥へ進むほど、天井が低くなっていた。
俺は剣の位置を変え、長く振り回さずに済むようにした。
足元には、乾いた砂が溜まっていた。
靴底で確かめながら進む。
「……1匹いる。曲がり角の先だ」
近くの反応を伝えると、2人の足音が静かになった。
奥で、乾いた砂が盛り上がった。
潜んでいた岩潜りトカゲが、平たい頭を突き出す。鎧トカゲほどの厚い鱗はないが、砂に隠れたまま足元へ寄ってくる相手だ。
盛り上がった砂の先を見て、俺は足を止めた。
この道幅では、横へ大きく避けられない。
俺が剣を構えるより先に、シルヴィアが言った。
「少し、壁際へ寄ってくださいませ。正面から狙えますわ」
俺は剣を身体へ引き寄せ、壁際へ身を寄せた。
空いた通路へ、シルヴィアが杖先を向ける。
詠唱が響く。
砂を蹴って飛び出したトカゲへ、《フロスト・ランス》が突き立った。
その身体が止まる。
なおも動こうとしたところへ、俺が踏み込んで剣を通した。
静かになった通路で、3人の呼吸だけが聞こえる。
「今の位置、撃ちやすかったですわ」
「先に言ってくれたから、空けられた」
シルヴィアが、小さく笑った。
エステルは後ろを確かめてから、こちらを向く。
「次、狭かったら、わたしも先に言うね」
「ああ、助かるよ。俺も、動く前に声をかけるな」
前衛だから、いつも俺が先に攻撃する。
そんな決まりはない。
2人が使いやすいように動いた方が、楽に進める場所もある。
トカゲが白い粒へ変わった後、砂の上に残った魔石と爪を拾い、回収を済ませた。
エステルが見張りに立つ間に、俺は地図へ通路の幅を書き足す。
横に、シルヴィアが小さく印をつけた。
「何の印だ?」
「氷の槍を使う時に、覚えておきたいので」
なるほど。
俺たちの地図に、また1つ、意味が増えた。
*
狭い道を抜け、開けた場所へ出た。
俺は足を止め、周囲を確かめた。
近くに、魔物の反応はない。
エステルが、俺の肩越しに奥を見る。
「あれ」
声の向きへ、目を向けた。
壁際に、下へ続く石段があった。
「階段ですわね」
シルヴィアの声が、僅かに弾んだ。
「ああ。第4層へ下りる階段だ」
近づく前に、柱の裏と壁沿いを確かめる。
足場に問題はない。
エステルは、杖を胸元へ引き寄せた。
「見つかったね」
「思ったより、こちら側へ回り込む道でしたわ」
シルヴィアが地図を開く。
借りた地図の印と、今日歩いた道を照らし合わせた。
紙の上では、すぐ近くに見えた場所だ。
だが、実際に立ってみると、その間にあった曲がり角や岩の陰を、1つずつ思い出せる。
俺は階段の印を、自分たちの線へ繋いだ。
第4層。
今のランクなら、進んでいい場所だ。
けれど、今日は、ここで戻る。
「次の階層は、時間を取ってからだな」
「うん。今からじゃ、すぐ帰ることになっちゃう」
エステルが、少しだけ名残惜しそうに下を見た。
シルヴィアは地図を畳む。
「帰りの道も、まだ1度しか歩いておりませんものね」
「ああ。今日は、そっちを確かめよう」
残念だとは思う。
俺だって、このまま下りてみたい。
それでも、次に来る場所が決まった嬉しさの方が、今は大きかった。
*
ギルドへ戻る頃には、西の空が赤くなっていた。
エマさんへ帰還を伝え、第4層への階段を確かめたことを報告する。
新しく通った道を説明している間、エステルが横から岩棚の位置を付け足し、シルヴィアが通路の狭いところを示した。
エマさんは地図を見て、頷く。
「次は、第4層ですね」
「はい。資料を確認して、時間のある日に行きます」
売却と分配を済ませ、外へ出た。
返済用へ取り分ける金は、また少し増えた。
だが、今朝読んだ手紙のことを思うと、金額より先に、父へ伝えたいことが浮かぶ。
今日は、新しい階段を見つけた。
3人とも、怪我はない。
それから、夏休みに1度、帰りたいと思っている。
「ねえ、オスカー」
隣から、エステルが呼んだ。
「帰る日が決まったら、早めに教えてね」
「ああ。父の都合を聞いてから、2人にも相談する」
「わたくしたちも、先に家へお話ししておきますわ」
シルヴィアが続ける。
それを聞いて、俺は頷いた。
10日後には、夏休みが始まる。
迷宮へ行く日。
練習する日。
父に会いに帰る日。
今までは、返済期限から逆算して予定を考えることが多かった。
これからも金は必要だし、家のことを忘れるつもりもない。
ただ、予定表へ書き込みたいものが増えた。
やらなければならないことの隣に、楽しみにできる約束がある。
寮へ戻ったら、まず返事を書こう。
帰りたいです、と。
そう書いた後に、今日見つけた階段の話をしよう。
父に話す土産は、もう1つ増えていた。




