第58話 父上へ
エルフォード男爵視点
売るものを探す時、人は部屋の隅を見るようになる。
飾り棚。壁の絵。使わなくなった銀の燭台。
初めは、なくなっても困らないものから選んだ。
次に、なくなれば少し不便なものを選んだ。
今、執務机の上にあるのは、父から譲られた懐中時計だった。
蓋には、小さな傷がある。
幼かったオスカーが触りたがり、膝の上で持たせてやった時に落としたものだ。
あの子は私より先に青くなった。
『ごめんなさい、父上』
壊れてもいなかったのに、何度も謝っていた。
私は蓋を開いた。
針は、今日も動いている。
7月17日。
8月3日の支払いまで、17日だった。
「……これだけでは、足りんな」
声にしても、数字は変わらない。
時計を布の上へ戻した。
窓の向こうでは、荷車が街道を進んでいる。積まれているのは、畑で使う道具だろう。車輪が石を踏む音に、遠くの子供の声が重なった。
あの街道を、再び荷車が通れるようにした。
流された橋を架け直し、泥に埋もれた畑を戻した。
それは、よかった。
窓の外を見るたびに、そう思う。
だが、机へ向き直ると、別の答えが待っていた。
土地が元に戻ることと、借金を返せることは、同じではない。
収穫を待つ畑はある。働く者もいる。それでも、支払日は収穫の都合に合わせてはくれなかった。
帳簿の端へ置いていた筆を取る。
今年の収入の見込みは、もう何度も確かめていた。
ラングレー伯爵家からの支援も、今なお続いている。
オスカーとシルヴィア嬢の婚約が解消されたあとも、伯爵は援助を打ち切らなかった。子供たちの婚約とは別に、古くからの友人である私と、この領地を支えてくれている。
その厚意がなければ、ここまで持ちこたえることさえ難しかっただろう。
だからこそ、いつまでも頼り続けるわけにはいかない。
支援を受けてなお、領地を維持する支出と、迫る返済の両方を賄うには足りなかった。伯爵への感謝と、帳簿に残る不足額は、どちらも変わらぬ現実だった。
王都へ出す資料も、揃えてある。オスカーが陛下に願い出てくれた相談先へ、こちらの状況を説明するためのものだ。
利用できる支援が決まったわけではない。
返済の条件も、まだ変わっていない。
決まっていないものを、入る金として数えることはできなかった。
机の端には、息子からの手紙を重ねてある。
最近の手紙には、知らなかった言葉が増えた。
迷宮の階層。魔物の名。覚えた魔法。
以前は、授業を受けています、変わりありません、と短く書いてくることが多かった。
困っていることはないかと尋ねても、大丈夫です、と返ってきた。
その言葉を、私は信じたかったのだと思う。
家のことまで、あの子に背負わせたくなかった。
せめて学院にいる間くらい、同じ歳の子供たちと学び、笑っていてほしかった。
そのための金も、十分には持たせてやれなかったが。
扉が叩かれた。
「旦那様。王都から、お届けものです」
「入ってくれ」
長く家に仕えている執事が、封筒を持って入ってきた。
その後ろには、送金を扱う商会の者がいる。
私は椅子から立った。
「オスカーからか」
「はい。お手紙と、お預かりした金貨でございます。受け取りのご確認をお願いいたします」
卓上へ、袋が置かれた。
重い音がした。
目が、そちらへ向く。
商会の者が差し出した書類には、息子の名があった。
その下に、金額が書かれている。
60枚。
私は、もう1度読んだ。
「……60枚?」
「はい。金貨60枚、お預かりしております」
執事が、隣で小さく息をのんだ。
私は書類と袋を見比べた。
以前、送ってくれたのは8枚だった。
あの時も、十分に驚いた。王女殿下をお助けした褒賞だと知り、誇らしく思うより先に、怪我をしなかったのかと手紙を読み返した。
今度は、その何倍もの金がある。
「先に、手紙を」
執事に言われ、ようやく封筒を手に取った。
見慣れた字だった。
封を切る指に、妙な力が入る。
紙の端を破らないよう、ゆっくり開いた。
*
父上へ。
8月3日の返済に必要な金貨60枚を、用意できました。
明日、送金の手続きをします。
生活と冒険に必要な金は、別に残してあります。
仲間に助けられながら、元気にやっています。
そこまで読み、顔を上げた。
生活の金は、残してある。
元気にしている。
私が何を心配するか、先に分かっていたような文章だった。
「……あの子らしいな」
呟いてから、少し考える。
いや。
こういう書き方をするようになったのは、最近のことだ。
以前のオスカーなら、心配をかけて申し訳ありません、と書いただろう。
今は、こちらが安心できることを、1つずつ伝えてくる。
私は続きを読んだ。
冒険者の個人ランクと、3人のパーティのランクが、Cに上がったという。
黒曜の第1層と第2層を、仲間と1通り歩いたこと。
日々の探索と帰還の実績を、ギルドに認められたこと。
これから、第3層へ進むために資料を調べること。
「C……」
声が漏れた。
学院へ送り出した時、あの子は火を灯すだけでも苦労していた。
剣の稽古では、相手の顔色を見て手を止めることがあった。自分が打たれるより、人に痛い思いをさせる方を気にする子だった。
それが、黒曜へ。
しかも、Cランク。
字を読み違えてはいないかと、同じ行へ戻った。
何度見ても、Cだった。
横から執事が、控えめに尋ねる。
「坊ちゃまは、お元気で?」
「ああ。元気だと書いてある」
「それは、何よりでございます」
「冒険者のランクが、Cになったそうだ」
執事の目が、大きくなった。
「……坊ちゃまが、でございますか」
「私も、今、同じところを3度読んだ」
2人で、しばらく黙った。
商会の者が待っていることを思い出し、私は慌てて頭を下げた。
「すまない。確認をしよう」
金貨を数える。
10枚ずつ、6つに分けた。
最後の1枚を置いたところで、また手が止まった。
8月3日の欄へ、何度も書き直した数字。
その金が、目の前に並んでいる。
私は受け取りの書類へ署名し、礼を伝えた。
扉が閉まってからも、しばらく椅子へ戻れなかった。
*
「どなたかに、お借りしたのではありませんか」
執事の声は、慎重だった。
私も、それを考えなかったわけではない。
息子と一緒にいるのは、第3王女殿下とラングレー家の令嬢だ。
家のために、無理を言ったのではないか。
口にできずにいると、手紙の次の頁に、その説明もあった。
迷宮で得た魔石や素材を売り、共同で使う金を取り分け、3人で分けている。
自分の取り分から、生活費や活動費を除いて貯めた金であること。
以前、仲間2人の申し出で、魔石の売却金を全額受け取ったことが1度あったこと。
そして、それ以外は、相談して決めた分配を続けていること。
誰かから借りた金ではなかった。
稼いだ金だった。
あの子が、仲間と一緒に。
「……ありがとうございます、と書かなくてはな」
「はい」
執事が頷く。
私は椅子へ戻り、続きを読んだ。
エステル殿下の魔法は、遠くの敵を任せられること。
シルヴィア嬢には、回復だけでなく、前へ出る力まで貸してもらっていること。
一緒に練習すると、自分では気づけなかった間違いが分かること。
教えてくれる先輩たちの名もあった。
ユリウス殿。レオノーラ殿下。クラリッサ殿。
私は、額へ手を当てた。王家、公爵家、侯爵家。王国を支える家々ばかり。
「……ずいぶん、立派な方々にお世話になっているらしい」
「ご学友に恵まれたのですね」
「恵まれすぎて、どちらからお礼を申し上げるべきか分からん」
執事の口元が、少し緩んだ。
私も、つられて笑った。
笑ってから、もう1度、手紙を見た。
名前の後には、いつも、その人に何をしてもらったかが続いていた。
教えてもらったこと。
助けてもらったこと。
嬉しかったこと。
金の説明より、そちらの方が長い。
あの子が、誰かと笑っている。
こちらの知らない場所で、教え合い、食卓を囲み、明日の約束をしている。
私は、そのことを知りたかったのだと思った。
家が苦しいからといって、あの子の毎日まで暗くしてはいないか。
離れて暮らすようになってから、ずっと気になっていた。
元気です、という一言だけでは見えなかったものが、何枚もの紙の向こうに見えた気がした。
文字が、少し滲んで見えた。
目元に触れて、ようやく気づく。
指先が、濡れていた。
「旦那様」
「……すまん」
差し出された布を受け取った。
目元へ当て、息を吐く。
「60枚も送れるようになったことが、嬉しいのだと思っていた」
執事は、何も言わずに聞いていた。
「もちろん、それも嬉しい。助かる。本当に、助かるが……」
言葉を探した。
手紙の上に、シルヴィア嬢の名がある。
小さな頃から知っている、気の強い女の子。
その隣に、新しく知り合った者たちの名が並んでいる。
「楽しそうなのだ」
ようやく、言えた。
「あの子が」
声が、少し震えた。
執事は静かに頭を下げた。
「はい」
短い返事だった。
それ以上、私の言葉は続かなかった。
*
昼を過ぎてから、畑を見に出た。
屋敷の裏手を抜け、街道へ出る。
日差しは強く、土の匂いがした。
橋の手前で、荷車を引く男が帽子を取った。
「領主様。今日は、川の方へ?」
「ああ。水路を少し見ておこうと思ってな」
「今のところ、よく流れてますよ。下の畑まで、ちゃんと来てます」
「それなら、よかった」
男が笑い、荷車を進めた。
背中を見送りながら、橋の欄干へ手を置く。
数年前、ここには何もなかった。
濁った水が流れ、折れた木が引っかかっていた。
向こう岸へ渡れず、立ち尽くしていた者たちの顔を覚えている。
あの時、蓄えを残すという選択もあったのだろう。
だが、食べるものがないと言われて、倉を閉じておくことはできなかった。
種を失った者へ、来年まで待てとは言えなかった。
今も、その判断を後悔してはいない。
ただ、息子には、すまないと思っていた。
いずれ渡す家に、借金ばかり残してしまう。
この橋を守った代わりに、あの子の行く先を狭くしているのではないか。
そう考える夜があった。
今日、あの子から手紙が来た。
家を、私を責める言葉は、1つもなかった。
私は欄干から手を離した。
橋の先では、2人の子供が追いかけっこをしている。
年上の方が、後ろを振り返って速度を落とした。小さな子が追いつくと、また一緒に走り出す。
オスカーにも、隣を走る者がいるのだろう。
あの子は今、こちらの心配をする余裕まで持って、遠くへ進んでいる。
ならば、私も、ここでやるべきことをしよう。
送ってくれた金を握りしめて、安心して終わるわけにはいかなかった。
*
屋敷へ戻ると、執事に返済の書類を出してもらった。
「8月3日の60枚を、先に支払う。受け取りの書面まで、必ず持ち帰ってくれ」
「承知いたしました」
期日まで袋を眺めていても、何も変わらない。
必要な金が届いたなら、済ませられる支払いは済ませよう。
執事を送り出してから、私は別の帳面を開いた。
以前、オスカーが送ってくれた8枚は、領地を維持するための支払いに使った。借金を減らしたわけではないが、あの金がなければ滞っていた支払いもある。
その使い道と、ラングレー伯爵家の支援を含めた今の収支、残る返済予定を別紙へまとめた。
ここまで助けてくれた息子に、家の状況を曖昧にしたまま伝えるわけにはいかない。
だが、次はいくら送れるかと尋ねるための手紙にはしたくなかった。
私は新しい便箋を広げた。
オスカーへ。
金貨60枚と、手紙を受け取った。
そこまで書いて、筆を止めた。
ありがとう。
続けて、その5文字を書いた。
小さすぎる言葉のような気がした。
それでも、ほかの言葉から始めることはできなかった。
*
夕方、執事が戻ってきた。
卓上へ置かれた受領書を、2人で確かめる。
期日。金額。支払いを受けたことを示す署名。
8月3日の60枚は、これで済んだ。
私は帳簿の該当する欄へ、支払済みと書いた。
書いてから、しばらく、その字を見た。
何度も見た頁だった。
夜中に起きて開いたこともある。数字を変えられないと分かっていながら、もう1度確かめたこともある。
今日は、閉じられる。
「……よかった」
自然に、声が出た。
執事も、ゆっくり頷いた。
「はい。旦那様」
借金が全てなくなったわけではない。
明日も、仕事はある。
それでも、今夜は同じ頁を開き直さずに済む。
私は、書きかけの手紙へ戻った。
支払いを済ませたことを追記する。
仲間と先輩方へ、父からも礼を伝えてほしい。
世話になっている方々の名を、1人ずつ確かめて書いた。
それから、少し迷い、続きを足す。
夏休みに帰れる日があれば、顔を見せてくれると嬉しい。
ただし、仲間との約束や、自分で決めた予定まで変える必要はない。
土産もいらない。
元気な顔と、手紙に書ききれなかった話を持って帰ってきてほしい。
そこまで書いて、椅子へ深く座り直した。
「旦那様。お茶が冷めてしまいましたので、淹れ直しましょうか」
「いや、これでいい」
カップを持ち上げ、1口飲んだ。
冷めていても、香りは残っていた。
いつも、こんな味だっただろうか。
窓の外では、日が傾いている。
あの子も今頃、どこかで夕食を取っているのかもしれない。
手紙にあった2人と、今日の出来事を話しながら。
私は筆を取り、最後の1文を書いた。
お前を、誇りに思う。
今度は、迷わなかった。
*
手紙を封じると、机の端にあった時計が目に入った。
執事が、そちらを見た。
「そちらは、いかがいたしましょう」
「……持っていくのは、やめておこう。いつか息子にあげたい」
時計を手に取る。
小さな傷へ、親指が触れた。
幼い息子の泣きそうな顔が、また浮かんだ。
あの時、私はどう言ったのだったか。
時計は壊れていない。
お前も怪我をしていない。
だから、そんなに謝らなくていい。
確か、そう言って抱き上げた。
今なら、もう、抱き上げることはできないだろう。
帰ってきたら、まずは顔を見よう。
背が伸びたかもしれない。剣を握る手も、少し変わっているかもしれない。
あの子が自分から話し始めるまで、急かさずに待とう。
私は時計の鎖を留め、上着の内側へしまった。
胸の近くで、小さく針の音がする。
執務机の上には、息子へ送る手紙が1通。
その隣には、支払済みの帳簿があった。
「明日の朝、1番に出してくれ」
「かしこまりました」
立ち上がり、窓を閉める。
灯りを消し、夕食へ向かった。
帳簿を持っていく必要は、なかった。




