第55話 麗しきハニー
7月13日。
朝のうちに、父への手紙と金貨60枚の送金を託した。
控えを確かめ、返済用の帳面へ記す。残りは40枚。あとは、無事に届いたという返事を待つ。
教室へ向かう足が、いつもより軽かった。
夏休みまで、あと19日。
家のことも、冒険のことも、少しずつ前へ進んでいる。
今日は、穏やかな1日になりそうだ。
*
「お前、Cになったんだって?」
教室へ入るなり、ブルーノが言った。
「昨日の夕方、ギルドで聞いたぞ。あいつら、今度はCだって大騒ぎだった」
「ああ。3人とも認めてもらえた」
「3人とも、か……」
ブルーノは俺の後ろを見た。
エステルが女子たちに囲まれ、両手を広げて黒曜の広さを説明している。シルヴィアがその横で、広げた手が隣の席へ当たらないように押し戻していた。
「強くて、きれいで、かわいくて、可憐で、一緒にCに上がって……」
「どうした?」
「いや。夏って、不公平だなと思って」
季節には、何の責任もない。
机へ鞄を置くと、フェリクスが椅子を寄せてきた。
「黒曜の第2層まで、全部歩いたんだよね。水を使う魔物はいた?」
「いた。資料を見ながらなら、出会ったものの話はできる」
「助かる。僕たちも、いずれ行くから」
眼鏡の奥の目は真剣だった。
そこへ、ヴィンセントが来る。
「その前に、俺たちは第5層だ」
相変わらず、きっちりと制服を着ている。机の端へ置かれた手には、小さな擦り傷があった。
「第4層は、前より安定してきた。今度は第5層で実績を積む」
「リネットも、Eに上がったんだ」
ブルーノが、少し誇らしそうに言った。
呼ばれたリネットは、慌ててこちらを向いた。
「まだ、皆さんについていくので精一杯ですけれど」
「そんなことない。リネットがいて助かってる」
ヴィンセントが返す。
「帰る時も決めやすくなった」
リネットは一瞬驚き、それから、小さく笑った。
以前、岩の窪みで仲間を守っていたヴィンセントを思い出した。
今は、4人で戻ってくるための話をしている。
「いいパーティになったな」
俺が言うと、ヴィンセントは眉を動かした。
「ふん、お前に言われてもな」
短く返してから、こちらを見る。
「だが、C昇格は認めてやる。おめでとう」
「ありがとう」
「俺たちもDへ上がる。夏休みの間には、白晶の奥へ進むつもりだ」
「ああ。先の魔物で分からないことがあれば、聞いてくれ」
「……聞く時は聞く」
ブルーノが横で笑った。
「素直に、よろしくって言えばいいのに」
「お前は、荷物の整理を先に覚えろ」
「今、それ関係あるか?」
リネットまで笑った。
*
「わたしたちも、夏休みは迷宮へ行くの」
アニエスが話に加わった。
《四つ葉》の4人も、揃っている。
「この前、Eに上がれたから。まず、第2層をちゃんと歩けるようになりたい」
「初めて下りた時、階段の途中で全員黙ったのよね」
マリオンが言うと、コレットが頷いた。
「アニエスまで静かになったから、余計に怖くて」
「考えていたの。先頭で何を言うか」
「結局、『下りるわよ』だった」
「大事なことでしょう!」
4人で笑う。
ノエミは、シルヴィアの手帳を見ていた。
「今度、記録の取り方を見せてもらってもいい? 帰ってから書こうとすると、順番を忘れちゃって」
「ええ。全部を文章にしなくても、印を決めておくと楽ですわ」
シルヴィアが手帳を開いた。
それをエステルが横から覗く。
「これは?」
「できるようになったことの印です」
「あ、増えてる」
「増やしましたもの」
シルヴィアが、少し得意そうに答えた。
女子たちが、その頁へ集まる。
「いいなあ。3人で黒曜まで行って、こんなに色々できるようになって」
「わたしも、あんな魔法を使ってみたい」
「まずは、今の魔法を外さないようにしようって決めたでしょう」
「それは、そうだけど!」
羨ましいと口にしながら、誰も、自分たちの話をやめなかった。
次はここへ行く。これを覚える。そのために、夏休みを使う。
教室のあちこちに、そんな話がある。
俺たちが迷宮へ通い始めた頃より、随分と賑やかになった。
*
昼休みになっても、その話は続いていた。
「そういえば、お前への挑戦、なくなったよな」
ブルーノが、思い出したように言った。
俺はパンを持つ手を止める。
「そうだな。最近は、静かだ」
「レオノーラ殿下との決闘を見た後じゃ、さすがにな」
フェリクスも頷く。
「勝負の条件が特別だったのは分かってる。でも、あの打ち合いを見て、自分もやろうとは……」
「俺は、あの円の外から応援する役でいい」
近くの男子が言い、何人かが笑った。
「1年じゃ、もう誰も申し込まないだろ」
「だな」
俺も、頷きかけた。
……ん?
今、何か立たなかったか。
旗のようなものが。
平穏を確信した直後に、厄介事が来る。
実に分かりやすいテンプレだ。
「いや。そういうことは、あまり言わない方が――」
教室の入口で、こつ、と靴音がした。
「失礼。麗しき花の咲く教室は、こちらかな」
遅かった。
*
扉の向こうに、背の高い男子生徒が立っていた。
2年生の徽章。
金色の髪は丁寧に流され、額を出している。整った顔立ちに、磨き上げた靴。制服の襟元には、青い石を留めた飾りがあった。
片手には、1輪の赤い薔薇。
もう片方の手は、扉の枠へ添えられている。
何となく入ってきた姿ではない。
1番よく見える角度を、選んでいる。
「……ジュリアン様」
シルヴィアの声がした。
俺は、彼女を見た。
さっきまで手帳を広げていた手が、止まっている。
エステルもシルヴィアを見た。
それから、入口の薔薇を見た。
何かに気づいた顔になった。
「やあ、シルヴィア。僕の麗しきハニー」
男は、柔らかく微笑んだ。
「迎えにきたよ」
教室が、静かになった。
ブルーノのパンから、肉が1枚落ちた。
*
「その呼び方は、おやめくださいませ」
シルヴィアは立ち上がった。
声は丁寧だった。
ただ、手帳が閉じられる音は、少し大きかった。
「おや。人前では、まだ恥ずかしいかな」
「人のいないところでも、おやめください」
「2人きりなら、別の呼び名を?」
「シルヴィアで結構です」
「控えめだね。そういうところも、君の魅力だ」
会話が、進んでいない。
ジュリアンは薔薇を胸へ寄せ、1歩入ってきた。
「聞いたよ。僕のために、婚約を破棄してくれたのだろう」
今度は、俺のパンが止まった。そして周りの空気が凍った。
「違います」
「すぐに伝えてくれればよかったのに。君1人に、つらい決断をさせてしまった」
「ですから、違うと申し上げています」
「分かっている。皆の前では、話しにくいね」
分かっていない。
ここまで綺麗に分かっていないと、いっそ感心する。
エステルが、そっとシルヴィアの袖を引いた。
「ねえ。この方が、紹介するって言ってた人?」
「……そう、ですけれど」
「本当に迎えにきたね。ハニー」
「エステル」
低い声だった。
エステルは唇を押さえる。
肩は、押さえられていなかった。
*
ジュリアン。
思い出した。
婚約破棄を告げた時、シルヴィアが説明していた名前だ。
婚約は決まっていない。花を贈られたり、茶に誘われたりしただけだと。
つまり、あの時、紹介されるはずだったが、そもそも新しい婚約者ではなかった人。
ややこしい。
本人まで勘違いしているので、さらにややこしい。
「オスカー・エルフォード君だね」
ジュリアンが、俺へ顔を向けた。
名乗る前に、胸へ手を当てる。
「僕はジュリアン・ド・ベルクール。ベルクール侯爵家の長男にして、紅蓮と蒼流を従える槍の貴公子」
そこで、1拍待った。
誰も何も言わない。
「……ジュリアン・ド・ベルクールだ」
2度名乗った。
拍手を待っていたのかもしれない。
「初めまして。オスカー・エルフォードです」
俺も立ち上がり、1礼する。
ジュリアンは満足そうに頷いた。
「君のことは聞いている。爆炎の剣姫、レオノーラ殿下との勝負、見事だったそうだね」
「ありがとうございます」
「だが、彼女との約束を清算するために、そこまで強くなる必要はなかった」
「……何の話でしょうか」
「シルヴィアを、安心して僕へ託せる男になろうとしたのだろう」
なっていない。
その方向へは、1度も努力していない。
後ろで、誰かが机に額をつけた。
笑いをこらえる音がした。
「ジュリアン様。わたくしは、あなたとの婚約を望んでおりません」
シルヴィアが、はっきりと言った。
ジュリアンの微笑みが止まる。
ようやく、言葉が届いたらしい。
「……望んで、いない?」
「はい。以前のお誘いも、お断りしております」
沈黙。
彼は薔薇を見た。
シルヴィアを見た。
それから、彼女の右手の指輪を見た。
「その指輪は」
「オスカーがくれたんだよ。わたしにも」
エステルが、自分の右手を上げた。
ジュリアンの目が、2つの青い石を往復する。
「2つ……?」
「うん」
彼は、ゆっくりと俺を見た。
さっきまでの芝居がかった顔から、初めて余裕が消えた。
「エルフォード君。君は、なかなか大胆な男だな」
「3人で見つけた魔道具を、2人に使ってもらっています」
「実用品だと言えば、何でも許されるわけではないぞ」
う、痛いところをつく。そこだけ、妙に現実的だった。
*
「そもそも、なぜ今日なのです?」
シルヴィアが尋ねた。
「もう、ずいぶん前のお話ですのに」
「僕も、すぐに行こうとは思った」
ジュリアンは姿勢を立て直した。
「しかし君は、いつも彼らと一緒だった。だから、考えたんだ」
「何を、ですか」
「これは、僕が迎えに行く勇気を試されているのだと」
どうして、そこへ行った。
「今日、君たちがCに上がったと聞いて、確信した。夏休みまでに来なければ、迷宮の奥まで迎えに行かせるつもりなのだね」
「違いますわ」
「なかなか厳しい試練だ。だが、美しい薔薇には棘があるものだ」
シルヴィアが、目を閉じた。
エステルが、その肩へそっと手を置く。
「棘、もっと増やす?」
「今、増えています」
ジュリアンは聞いていなかった。
俺へ向き直り、深く息を吸う。
「エルフォード君。僕と勝負してくれ」
教室の空気が、変わった。
笑いをこらえていた男子が顔を上げる。
「きたーーーっ!」
一斉に教室内が盛り上がる。
廊下から覗いていた生徒が、ググッと近づいた。
「僕が勝ったら――」
「シルヴィアをどうするか、という条件なら受けません」
先に言った。
ジュリアンの口が止まる。
「彼女が誰と過ごすかは、彼女が決めることです。俺が勝負に賭けられるものではありません」
シルヴィアが、こちらを見た。
ジュリアンは、少しだけ黙った。
それから、薔薇を下ろす。
「……それは、そのとおりだな」
おや。
そこは、聞くのか。
彼は背筋を伸ばした。
「ならば、何も賭けなくていい。彼女に、僕の戦う姿を見てもらいたい」
「勝っても、お返事は変わりませんわよ」
シルヴィアが念を押す。
ジュリアンは一瞬だけ肩を落とした。
落としてから、胸を張り直す。
「それでも、見ていてくれるかな」
さっきよりも、少し普通の声だった。
シルヴィアは息を吐いた。
「……試合を見ることは、構いません」
「ありがとう、麗しき――」
「シルヴィアです」
「シルヴィア」
訂正された。
学習は、するらしい。
*
「受けるのか?」
ヴィンセントが聞いてきた。
「ええ。普通の試合なら」
「2年の槍では、上の方だぞ。火と水も使う」
「見たことがあるのか。どんな戦い方をする人なんだ?」
「実技を見た。顔はよく観客へ向けるが、穂先は相手から外さない」
それは、なかなか器用だ。
俺は改めてジュリアンを見た。
立ち姿は大げさだが、片脚へだらしなく体重を預けてはいない。こちらが動くと、足先が自然に向きを変える。
飾りだけの男では、ないようだった。
槍に火と水。
どんなふうに使うのか、見てみたい。
「先生の許可を取りましょう。場所と時間は、それからです」
「もちろんだ。正式な場こそ、僕にふさわしい」
ジュリアンは頷き、薔薇を差し出しかけた。
シルヴィアの顔を見て、止めた。
しばらく手元で迷った末、自分の胸へ戻す。
持ち帰るらしい。
「では、放課後に」
見事な1礼。
踵を返すと、扉の前で1度だけ振り向いた。
「君の瞳に、僕の勇姿を焼きつけよう」
廊下で待っていた教員と、目が合った。
「通路を塞がないように」
「……失礼しました」
ジュリアンは、普通に横へ避けた。
*
ジュリアンが去った後、教室は一瞬静かになった。
最初に声を出したのは、ブルーノだった。
「……すごいのが来たな」
「君の言うとおりだった」
俺は席へ座る。
「1年生からは、来なかった」
フェリクスが眼鏡を押し上げた。
「学年を限定するから、そうなるんじゃない?」
その考え方は、かなり正しい。
隣では、シルヴィアが額へ手を当てていた。
エステルが、楽しそうに顔を覗き込む。
「紹介してくれるって言ってたの、この人だったんだね」
「……もう、申し訳なかったと、何度もお話ししました」
「うん。でも、想像してた紹介より、ずっと華やかだった」
「わたくしも想像しておりませんでしたわ」
「麗しきハニー」
「エステル」
エステルは、とうとう声を出して笑った。周りの女子も笑いを堪えている。
シルヴィアの耳が赤くなる。
俺と目が合うと、さらに居心地が悪そうに椅子へ座り直した。
「……あなたも、何かおっしゃりたいのですか」
「いや、困っただろうなと思って。もう分かっているから、気にしなくていいよ」
「……そうおっしゃっていただけると、助かりますわ」
シルヴィアの肩から、少し力が抜けた。
*
放課後には、訓練場の周囲に人が集まっていた。
早い。
噂だけなら、ユリウス先輩の雷より速いかもしれない。
「2年の槍使いが、エルフォードに挑んだって!」
「あの薔薇の人?」
「また名乗るのかな。前に見た時、すごく長かった」
「1回は長い。2回目は名前だけだ」
経験者がいた。
男子の一団が、観覧場所へ陣取る。
「ジュリアン先輩、頼みます! 1泡吹かせてください!」
「でも、エルフォードが勝つところも見たいんだよな」
「それはそれだ!」
女子たちからも声が上がった。
「オスカー君、頑張って!」
「雷、今日も見られるかしら」
ジュリアンは、既に中央で待っていた。
薔薇はない。
代わりに、先端を保護した訓練用の槍を持っている。
くるりと回した柄が、掌へ収まった。
華やかな動きだったが、足元は動かない。槍の重さを、きちんと扱っている。
「よく来たね、エルフォード君」
「お待たせしました」
立ち会うハインツ先生が、俺たちを呼んだ。
訓練用の武器を使い、魔法と身体強化は認める。決着は有効打か降参、危険と判断した時は先生が止める。
火と水を使うため、周囲との距離も取ってあった。
俺は右手首の真紅の腕輪を外した。訓練用の武器でも、打撃を強める装備を黙って持ち込むつもりはない。
ハインツ先生へ効果を伝えると、先生は頷いた。
「では、今回はそれを外して行う。ベルクール、そちらも攻撃を強める魔道具はないな?」
「はい。僕の情熱は、自前です」
「魔道具の話だ」
俺は笑いそうになりながら、腕輪をほかの荷物と一緒に置いた。
俺は木剣の握りを確かめる。
正面で、ジュリアンが槍を立てた。
「炎のように熱く、水のように優雅に。僕の槍は、愛のために舞う」
「ルールは聞いていたな?」
「はい、先生」
そこだけ短かった。
観客席で、エステルがシルヴィアへ何か囁く。
シルヴィアは、聞こえないふりをしていた。
ジュリアンが、そちらを向く。
「見ていてくれ、僕の――」
シルヴィアが、扇を閉じた。
ぱちん。
遠くからでも、よく響いた。
「……勇姿を」
危なかったな。
俺は、小さく息を吐いた。
静かになったと思っていた決闘の日々。
忘れかけていた紹介の約束。
どちらも、まとめて帰ってきた。
しかも、薔薇を持って。
ジュリアンが構える。
槍先が、俺の胸の高さでぴたりと止まった。
その瞬間だけは、笑っていられる相手には見えなかった。
俺も、木剣を上げる。
「始め!」
合図と同時に、槍が来た。
名乗りより、ずっと短く。
真っ直ぐ、俺の喉元へ。




