第51話 劣等感
【シルヴィア視点】
手帳の端が、少しだけ丸まっていた。
昨日、図書室で開いていた時間が長すぎたのだろう。指で撫でても戻らない。わたくしは直すのを諦め、書き写した詠唱をもう1度目で追った。
《フィジカルブースト》。味方の身体能力を高める魔法。
《マジックガード》。魔法の攻撃から身を守る魔法。
《ウィークネス》。敵の力を弱める魔法。
できるようになりたいことは、はっきりしていた。
あとは、覚えるだけだ。
そう考えて訓練場へ向かったのに、扉を開ける直前、手帳を抱く腕に力が入った。
オスカーとエステルは、今頃、雷の練習をしている。
あの2人なら、昨日よりも遠くへ届くようになるだろう。昨日よりも速く、正確になるだろう。
帰りに話を聞くのが楽しみだった。
楽しみなのに、胸の奥が、ほんの少し急ぐ。
「シルヴィア?」
呼ばれて顔を上げると、半開きになった扉の向こうで、クラリッサ先輩が微笑んでいた。
「入って。もう準備はできているわ」
*
レオノーラ様は、訓練用の木剣を持って待っていた。
窓から差す午後の光が、赤い髪の先を明るく透かしている。
「本日は、よろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそ」
頭を下げるわたくしに、殿下は普段どおり頷いた。
その何でもない返事に、少しだけ肩の力が抜ける。
クラリッサ先輩は、わたくしの手帳を見せてほしいと言った。
差し出すと、ページを1枚、また1枚とめくる。写してきた3つの術式だけでなく、分からなかった言葉に引いた線にも目を留めていた。
「よく調べてきたのね」
「先輩のお時間を、無駄にしたくありませんでしたので」
「ふふ、あなた私に似てるわね。私よりすごいかも」
責めるような言い方ではなかった。
先輩は手帳を返し、杖を取った。
「まずは、実際にシルヴィアにかけてみるわ。説明を読むより分かりやすいと思うわ」
詠唱の後、淡い光がわたくしの身体を包んだ。
袖口へ視線を落とす。光はすぐに薄れたが、身体の内側には温かさが残っていた。
「そこの剣を持ってみて」
ベンチに置かれた木剣を拾う。
軽い。
思わず裏返して、握りの部分を確かめた。訓練で使う、ごく普通の木剣だ。それが、いつもよりずっと楽に持ち上がる。
「これが、強化ですの……」
「ええ。かかった人の身体が強くなる。つまり攻撃力、防御力、速度も。まずは、それだけ分かれば十分よ」
軽く振ってみると、剣先が気持ちよく空気を切った。
これを、オスカーにかけられたら。
黒曜で鎧トカゲの爪を受けた時の、彼の腕を思い出す。押し返す力が増える。剣を振る力が増える。怪我もしづらくなる。危険な場所から抜ける足も速くなる。
想像しただけで、杖を握りたくなった。
「わたくしにも、試させてください」
クラリッサ先輩が笑った。
「そのために来てもらったのよ」
*
1度目は、光が杖の先で消えた。
2度目は、レオノーラ様の袖へ触れたところで散った。
3度目に、ようやく光が身体を包んだ。
殿下が木剣を振る。
ひゅ、と短い音がした。
「どう、でしょうか」
「ああ。力が増している」
返事は、ためらいなく返ってきた。
胸の奥が熱くなる。
けれど、殿下が2度、3度と剣を振る間に、光は消えてしまった。
「……もう、切れてしまいましたわね」
「最初から長くは続かないわ。今ので、ちゃんとかかったでしょう?」
「はい」
「なら、まず1つできたの。この早さでできるようになるのはすごいことよ」
クラリッサ先輩は、わたくしの杖先を軽く指した。
「最後の言葉で急いでしまったから、次はそこを落ち着いて。ヒールを使う時と同じように、最後まで丁寧にね」
頷いて、もう1度構える。
4度目は、さっきよりも長く続いた。
レオノーラ様が木剣を下ろす前に、思わず手帳へ手を伸ばした。今の感覚を忘れないうちに書いておきたい。
先輩は、それが済むまで待っていてくれた。
5度目。6度目。
成功するたび、殿下は同じように剣を振って確かめてくれる。僅かな違いにも気づいて、「今の方がよい」と教えてくれた。
楽しかった。
さっきできなかったことが、今はできる。
もう1度試せば、もっとよくなるかもしれない。
「シルヴィア。少し休もう」
言われて初めて、額に汗をかいていることに気づいた。
*
ベンチへ腰を下ろすと、クラリッサ先輩が水筒を渡してくれた。
窓の外から、遠くで魔法が弾ける音が聞こえる。
反射的に、そちらを見ていた。
レオノーラ様が、隣へ座る。
「2人の練習が気になるか」
「……はい。今日は、どこまでできたのかと思いまして」
「帰りに聞けば、喜んで話すだろう」
「ええ。きっと」
エステルは、自分で思いついた工夫を話す時、少し早口になる。
オスカーも普段は落ち着いているのに、魔法の話になると、こちらの質問に幾つも答えを返してくる。
2人とも、楽しそうで。
それを見るのが、わたくしも好きだった。
「嬉しそうに見ていたな」
殿下が言った。
「先日の雷の練習でも。エステルが成功した時も、オスカーの雷が遠くへ届いた時も」
「はい。すごいと思いました」
心から、そう思った。
レオノーラ様は頷いた。それから、少し間を置く。
「その後、2人が次の練習の話を始めると、君は自分の手帳を見ていた」
水筒を握る指が止まった。
「……見て、いらしたのですか」
「ああ」
殿下は、こちらを覗き込まなかった。膝に置いた木剣へ視線を落としたまま、続ける。
「羨んでいるのとは、少し違う顔だった。私の思い違いなら、そう言ってくれてよい」
すぐには、声が出なかった。
クラリッサ先輩も、急かさない。
水筒の蓋を閉める音が、やけに大きく聞こえた。
「……2人が強くなるのは、嬉しいのです」
「ああ」
「一緒にできることが増えて。今まで難しかった魔物にも勝てるようになって。次は何をしようかと、話していると……わたくしも、わくわくします」
そこまでは、簡単に言えた。
その先を口にするのが、怖かった。
自分で認めてしまえば、今まで隠れていたものに、形ができてしまう気がした。
「ただ……」
膝の上で、手帳の角を撫でた。
「次にできることが、2人には、次々と見つかるのです」
エステルが雷を覚える。
オスカーが、それを見て別の覚え方を思いつく。
昨日まで越えられなかったものを、今日には越えている。
「わたくしも進んでいるつもりなのに……あの2人があまりにも凄くて……同じだけ進めているのか、分からなくなる時があって」
言葉が途切れた。
指の下で、手帳の端がまた折れる。
「このままでは、置いていかれるのではないかと。少しだけ、思ってしまいました」
*
クラリッサ先輩が、静かに椅子を引き寄せた。
「エステル殿下とは、初等部からのお付き合いだったわね」
「はい」
頷くと、不思議と昔の教室が浮かんだ。
答案が返される日の、紙の匂い。
わたくしの席までやってくる、銀色の髪。
「同じ試験で、同じ点数を取ることもありました。でも、同じだけ勉強していたわけではありません」
わたくしは、前の日にも、その前の日にも、何度も本を読んだ。
解けなかった問題には印をつけ、誰もいない部屋で、答えが出るまで考えた。
エステルは、正解した問題の、その先を知りたがっていた。知りたいことがたくさんありすぎて、むしろ試験のこと以外をもっと勉強していた。
先生に聞いて、図書室へ行って、試験には出ないことまで調べてくる。次の日には、その話を目を輝かせながら聞かせてくれた。
「きっと、同じ点数を取るために、わたくしはあの子の何倍も努力していたのだと思います」
声にすると、少し苦かった。
けれど、それだけではなかった。
「あの子は、勉強が終わるのを待っていないのです。次のことを知るのを、待っているのです」
レオノーラ様が、懐かしそうに目を細めた。
「昔から、そうだったな」
「ええ。わたくしが、こんなに頑張らなくてはと思っていた時も、エステルは、こんなに面白いことがあるのだと……」
同じ机に座って、同じ本を開いていた。
なのに、見えているものが違った。
それに気づいた時、少しだけ、あの子の真似をしてみようと思った。
分からないところを減らすためだけに本を開くのをやめて、知りたいところを探してみた。
難しい問題が解けた日は、答案の隅に小さく印をつけた。
翌日に同じ印が増えるのが、嬉しくなった。
「だから、わたくしも楽しもうと思いました。昨日できなかったことが、今日できたなら。それは、喜んでよいことなのだと」
クラリッサ先輩が、手帳へ目を向けた。
そこにも、同じ印がある。
先ほど初めて強化に成功した行の、その横に。
「エステルが留学してからは、中等部の3年間、ずっと学年1位でした」
それを話す声だけは、少しだけ強くなった。
「あの子がいない間に、他の誰かに負けるわけにはいきませんでしたから」
帰ってきたエステルに、見せたいと思っていた。
あなたがいなかった間も、わたくしは、ちゃんとここで頑張っていたのだと。
周りは、天才だと言った。
秀才だとも、ラングレー家の誇りだとも言った。
褒められれば嬉しかった。積み重ねた時間が、間違っていなかったと思えた。
それでも、本当の天才がどんなものか、わたくしは知っていた。
「あの子が帰ってきて……やっぱり、すごかったのです」
思わず、笑みがこぼれた。
寂しかった3年の間に、親友は、想像していたよりずっと先へ進んでいた。
それが、誇らしくて。
少しだけ、悔しかった。
「それに、今はオスカーまで」
あの人は、何なのだろう。
先日できなかったことを、今度はできると言う。
無茶をしているのかと思えば、できないことはできないと認めて、別の方法を探している。
それで本当に、できるようになってしまうのだ。
「2人とも、楽しそうに先へ行くものですから……わたくしも、早く追いつかなくてはと」
手帳を見下ろす。
今日、初めて使えた魔法の横に、小さな印がある。
さっきは、あんなに嬉しかったのに。
「……できたことまで、小さく思ってしまっていたのかもしれません」
*
「分かるわ」
クラリッサ先輩が言った。
あまりに自然な声だったので、顔を上げる。
先輩は眼鏡を外し、布で軽く拭いていた。
「私、入学してから、学年の成績はずっと2位なの」
「2位、ですか?」
「ええ。1位は、ずっとユリウス」
その名前に、レオノーラ様が小さく息を漏らした。
先輩は、苦笑する。
「自信があった試験ほど、掲示を見るのが悔しかったわ。今度こそと思っていたのに、またあの名前が上にあるんだもの」
「……先輩も、そう思われるのですか」
「もちろん。私だって、1位を取りたくて勉強しているのよ」
穏やかな笑顔のまま、はっきりと言った。
「今でも、次は勝ちたいと思っているわ」
胸の奥で、何かがほどけた。
諦めなさいと、言われるのだと思っていたのかもしれない。
自分にできることだけを見なさいと。
そんなふうに言われたら、きっと頷いた。正しいことだと思っただろう。
でも、この先輩は、今でも勝ちたいと言う。
「そのユリウスが、迷宮では私に頼むの。クラリッサ、強化をお願いって」
先輩は眼鏡をかけ直した。
「彼が私より上手にできることは、たくさんある。でも、私が彼にしてあげられることもあるのよ」
手にした杖を、膝へ置く。
「さっきの魔法、受けてどうだった?」
「身体が軽くて……木剣も、楽に振れました」
「ユリウスも同じ。私の魔法で、もっと強く戦える。彼は、それをちゃんと喜んでくれるわ」
強い人にも、できないことがある。
その人が既に強いからといって、こちらの力が要らなくなるわけではない。
頭では分かっていたはずのことが、先輩の声で聞くと、ずっと確かなものに思えた。
「シルヴィア。あなた、今日、初めて補助魔法を使えたでしょう」
「はい」
「私、それを2人が見たら、喜ぶと思うのだけれど」
想像した。
エステルは、きっと目を輝かせる。
オスカーは、1度驚いた後で、どうやったんだと聞いてくる。
その顔は、簡単に浮かんだ。
「……そう、ですわね」
手帳の印を、指先でなぞった。
消さなくてよかった。
小さな成功でも、これは、今日のわたくしができるようになったことだ。
「もう少し、練習してもよろしいでしょうか」
顔を上げると、2人の先輩が笑った。
「休憩を終えてからね」
「今度は、私の剣をよく見ていてくれ」
レオノーラ様が木剣を持ち上げる。
「君の魔法で、どう変わるのか。かける方にも、見て分かるように振ろう」
わたくしは、もう1度手帳を開いた。
次に印をつける場所を、空けておくために。
◇
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