第28話 見せたい指輪と、隠せない気持ち
【シルヴィア視点】
……お気づきになりませんの?
わたくしは紅茶のカップを持ち上げ、そっと右手を傾けた。
人差し指の青い石が、灯りを受けて光る。
よく見える角度だと思う。
けれど、お父様は紅茶を飲み、お母様は焼き菓子を選んでいる。お兄様に至っては、口元を手で隠したまま、窓の方を向いていた。
今夜は、父のベルナール・ラングレー伯爵も、母のクラリッサも、兄のセドリックも、領地から王都へ来ている。久しぶりに、家族が屋敷にそろっているのだ。
帰宅してすぐ、今日の迷宮のことは報告した。
100体もの魔物と戦い、最後にはオークキングを倒したと聞いた時、お父様は身を乗り出した。怪我がないか、全員で無事に帰ったのか、何度も確かめられた。
入る前に、危険と備えを3人で確かめたこと。それでも、入口が封じられてからは、最後の王を倒すまで外へ出られなかったこと。魔力を補いながら力を合わせ、全員で帰り、ギルドへの報告も済ませたこと。
お父様には、勝てたからといって、次も同じように帰れると思ってはいけないと言われた。
わたくしも、あの連戦を簡単だったと言うつもりはない。忘れませんと答えて、ようやく、お茶になったところだ。
だから、そろそろ別の話をしてもよいと思う。
たとえば、この右手について。
「今日は、とてもよい香りのお茶ですわね」
もう1度、カップを持ち上げる。
指輪が光る。
お兄様の肩が揺れた。
「シルヴィア。その茶は、いつになったら飲むんだ?」
「……今、いただこうと思っていました」
「持ち上げるのは3回目だぞ」
数えていたのですか。
わたくしがカップを置くと、お母様がにっこり笑った。
「冷める前に、その指輪のお話をしてくれる?」
わたくしは、背筋を伸ばした。
「指輪、ですか?」
「ええ。さっきから、とてもよく見えるもの」
お兄様が、とうとう声を立てて笑った。
何も、そこまで笑わなくてもよろしいのに。
*
「魔力回復リングですわ」
右手を、今度は堂々と差し出す。
お父様の目が、細くなった。
「それほどの品だったのか」
「装着していると、魔力が戻るのが早くなります。ギルドでも確かめていただきました。1つで金貨50枚。オークションなら、100枚つく可能性もあるそうです」
「大した宝を見つけたものだな」
お父様は感心したようにうなずいた。
お母様は、わたくしの顔を見ている。
「それで、誰にいただいたの?」
「回復魔法にも、氷魔法にも役立つものですから、これからの練習も――」
「何に使うかではなくて、誰から、よ」
言い直されてしまった。
お兄様は、もう隠す気もなく笑っている。
わたくしは指輪へ目を落とした。
「……オスカーが」
口にしただけで、また頬が熱くなった。
「わたくしとエステルに、1つずつ」
お父様が、ゆっくりカップを置く。
「彼の家の事情は、お前も知っているな」
「はい。ですから、売って返済に充ててほしいと、わたくしも申し上げました」
あの小さな箱の前で、考えたことを話す。
2つを売れば、次の返済に必要な額を超える。
彼にはお金が必要で、わたくしは、それを知っている。
「でも、2人に使ってほしいと。わたくしたちが、もっと魔法を使えるようになる方がいいと、言ってくださったのです」
お父様は、黙って聞いていた。
「ですから、魔石を売った金貨28枚は、全部オスカーに受け取っていただきました。エステルとも、相談して」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、眉間の皺は、少し緩んでいた。
「今日手に入れた宝を、3人でどう生かすか考えたのだな」
「はい」
「なら、その期待に応えられるよう使いなさい」
わたくしは、しっかりとうなずいた。
もちろん、そのつもりだ。
詠唱をもっと短くしたい。氷の精度も上げたい。回復魔法も、必要なところへ無駄なく届くようになりたい。
次に彼が前へ出た時、今日よりも確かに、その背中を支えられるように。
そう考えると、右手の小さな輪が、少し重く感じられた。
嬉しい重さだった。
*
「……それは、婚約の品として受け取ったのか?」
お父様に聞かれ、わたくしは顔を上げた。
胸が、少しだけ痛んだ。
「いいえ。仲間として、これからも一緒に進むための贈り物です」
彼は、そう言った。
聞きたい言葉だけを拾って、別の意味に変えてしまってはいけない。
あの頃のように。
「手紙は読んだ。お前がどう考えているかも、分かった」
お父様は、穏やかな声で続けた。
「ただ、2人の話だ。彼の意思も、きちんと聞いていこう」
「……はい」
以前なら、わたくしの婚約者なのだから、と言えた。
隣へ来てほしい時も、こちらを向いてほしい時も、その言葉の後ろへ自分の気持ちを隠していた。
今は、そうはいかない。
自分から、一緒に行きたいと伝えた。教えてほしいと頼んだ。助けてもらった時には、ありがとうと言う。
簡単な言葉なのに、それを口にするたび、胸が忙しくなる。
けれど、彼は顔を上げて、ちゃんと聞いてくれる。
「今日は、嬉しいと言えたの?」
お母様が尋ねた。
「……大切にすると、申し上げました」
「それだけ?」
わたくしは、指輪の石を親指でそっとなぞる。
「あなたがくださったものですから、と」
お母様が微笑んだ。
お兄様も、今度は笑わなかった。
「言えてよかったな」
「……はい」
こんなふうにうなずく方が、からかわれるより、ずっと恥ずかしい。
目を伏せると、青い石が見えた。
『君の分を、ちゃんと引き受けられるように』
今日、オスカーはそう言ってくれた。
わたくしの怪我を治すために、回復魔法を学び続けると。
彼を治してあげたいと、何年も思ってきた。
その彼が、今度はわたくしのことを考えてくれている。
口元へ力を入れても、どうしても緩んでしまう。
「シルヴィア」
お母様に呼ばれ、顔を上げる。
「もう1度、近くで見せてちょうだい」
「……はい!」
少し大きな声が出た。
わたくしは隣へ座り直し、右手を差し出す。お母様が石へ顔を寄せ、お父様も覗き込んだ。
お兄様まで、反対側から見てくる。
「きれいな青ね」
「そうでしょう? 灯りにかざすと、奥まで透き通って見えますの」
指を、少し回す。
もう少し、見ていただきたい。
値段だけでは伝わらないほど、大切なものになったのだから。
その夜、紅茶をもう1度温めてもらうことになった。
わたくしは結局、まだ一口も飲んでいなかった。
*
【エステル視点】
「お姉様、まだ起きてる?」
扉の向こうから、すぐに返事があった。
「エステルか。入れ」
わたしは扉を開け、右手を上げた。
「ただいま」
灯りの方へ、少し傾ける。
青い石が、きらりと光った。
机に向かっていたお姉様が立ち上がる。
「遅かったな。帰還の報告は聞いた。疲れていないか」
「少し。でも、すごく楽しかったよ」
右手を、もう1度動かす。
お姉様の目が、手元へ落ちた。
気づいた。
「……その手を、痛めたのか?」
「違うよ」
「では、なぜ振っている」
「指輪っ!」
わたしは、とうとう自分から言った。
お姉様はわたしの手を取り、指の付け根まで確かめてから、ようやく石を見た。
「魔力回復リングか。これは、よい品だな」
「でしょ?」
「今日、手に入れたのか」
「うん。オスカーがくれたんだ」
わたしの手を持ったまま、お姉様が止まった。
「……誰が?」
「オスカー」
「何を?」
「この指輪」
もう1度、光る方へ傾ける。
お姉様の眉が、きゅっと寄った。
「まだ決闘も済んでいないというのに……」
「指輪をもらうのに、決闘は関係ないよ?」
「それは、そうだが」
お姉様は、椅子へ座り直した。
わたしは向かいへ腰を下ろす。
ようやく、ゆっくり見てもらえそうだ。
*
隠し部屋を見つけたことから、順番に話した。
倒しても、次の魔物が生まれてきたこと。
最後に、大きなオークキングが現れたこと。
お姉様の顔から、さっきの戸惑いが消えた。
「100体か。王を倒すまで、外へ出られなかったのだな」
「うん。入口が開くのは、全部倒してからだった。魔力は持っていたポーションで補って、部屋の中で配置を変えたの。最後の王は、3人で隙を作って倒したんだ」
お姉様が、指輪のはまったわたしの手へ目を落とす。
「連戦の最後に、まだそこまでの敵が残っていたのか。次に未知の部屋へ挑む時は、その分まで考えて備えろ」
「うん。最後の王の分は、もっと余裕を持たせたい」
風の槍を作る5呼吸を、オスカーが引き受けてくれた。
シルヴィアが、足と斧を止めてくれた。
わたしが胸当てを壊した場所へ、彼の剣が届いた。
話しているうちに、また嬉しくなる。
「あの男が、王の前で時間を稼いだのか」
「うん。戦っている間にも、どんどん動きがよくなってた。信じられないぐらいに。わたしがお願いした5呼吸を、ちゃんと作ってくれたよ」
お姉様が、静かにうなずく。
「よい連携だ。3人とも、よく戻った」
その言葉に、胸が温かくなった。
お姉様に認めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
今日、わたしたちは3人で、今までできなかったことをした。
その3人を、褒めてくれたのだから。
「それで、宝箱の中に2つ入ってたの。シルヴィアにも、同じものをくれたんだ」
「2つともか」
「うん。売るより、わたしたちに使ってほしいって」
お姉様の視線が、また指輪へ落ちる。
わたしは胸の前へ手を上げた。
よく見えるように。
「魔石のお金は、オスカーに渡したよ。わたしたちからも、何か贈りたかったから」
「なるほどな」
そう言って、お姉様は少し考え込んだ。
オスカーは今日、もう1つ、自分の能力について話してくれた。
それは、ここでは話さない。
わたしが贈ってもらった指輪は、こうして自慢してもいい。でも、彼が信じて打ち明けてくれたことは、わたしだけのものではない。
お姉様にだって、全部は話せないのだ。
*
「……欲しいものがあれば、私にも言えばよかっただろう」
お姉様が言った。
「お姉様?」
「もっと大きな石のついたものも、探してやれる。指輪でなくとも、首飾りなど――」
「大きすぎると、杖を握りにくいよ」
「では、小さい石をいくつか」
「数の話でもないよ」
お姉様の言葉が止まる。
わたしは右手を見た。
銀色の輪と、青い石。
魔道具として見たら、まだ調べたいことはたくさんある。どれくらい回復が早まるのか。どんな刻印で、この働きを生んでいるのか。
明日、授業が終わったら確かめたい。
けれど、今、何度も手を見てしまうのは、そのためだけではなかった。
「これがいいんだ。オスカーが、わたしにくれたから」
お姉様が、紅茶へ砂糖を入れた。
もう1つ、入れる。
さらに、スプーンを伸ばす。
「お姉様。まだ入れるの?」
「……今日は、甘いものが欲しい」
そういう日なのかもしれない。
わたしも、少しだけ焼き菓子が食べたくなった。
お姉様はカップを持ち上げ、飲む前に置いた。
「明日、あの男に……いや。約束は約束だな」
「決闘は、まだ先だよ」
「分かっている」
もう、と笑うと、お姉様は困ったように眉を下げた。
学院で剣を持つ時には、あんなに堂々としているのに。
わたしのことになると、時々、こんな顔をする。
それを見ると、お姉様のことも大好きだと、改めて思う。
「何か買ってほしくて、来たんじゃないよ」
わたしは、少し身を乗り出した。
「嬉しかったから。お姉様にも、見てほしかったの」
赤い髪が、わずかに揺れた。
お姉様はわたしを見て、それから、ふっと息を吐く。
「そうか」
「うん」
「……よかったな、エステル」
その声は、いつもより優しかった。
わたしは、うなずいた。
今度は、指輪を振らなかった。
*
「それほど、今のパーティが気に入っているか」
お姉様が尋ねた。
「うん。毎日、すごく楽しい」
知りたいことが増える。
できることも増える。
誰かに教え、自分も教わる。3人で前の日にはできなかったことをして、帰り道で次の話をする。
わたしが魔法を見せると、オスカーは驚く。
そのあと、どうすればできるのかと、真剣に聞いてくる。
天才だからできるのだと、そこで話を終わらせない。
5つの風刃を動かすために重ねた練習も、風の槍を作る難しさも、知ろうとしてくれる。
だから、もっと見せたくなる。
彼ができるようになった時には、わたしまで嬉しくなる。
でも、それだけなら。
今日、指輪を受け取った時に、あんなに胸が熱くなっただろうか。
「……嬉しかったのは、指輪だけか?」
お姉様に聞かれて、わたしは顔を上げた。
赤い髪の下の目は、思ったより真剣だった。
返事を考える。
オスカーがくれたから。
さっき、自分でそう言った。
わたしは指輪に触れ、少しだけ笑った。
「ううん。きっと、違う」
好きになっちゃいそう。
少し前には、そんなふうに思っていた。
でも、もう。
これをもらった時の気持ちを、魔法への好奇心だけで説明することはできなかった。
お姉様が、深く息を吐いた。
「……厄介な男だ」
「優しい人だよ」
「そのようだな。だから、厄介なのだろう」
今度の紅茶は、ちゃんと飲んだ。
そして、ほんの少しだけ顔をしかめた。
甘すぎたのかもしれない。
「だからね。決闘が終わったら、お姉様も一緒に来て」
「私が負けることを、先に決めるな」
「一緒に行きたいって、言ってるだけ」
わたしが笑うと、お姉様は何か言いかけて、やめた。
勝負を譲るつもりはないのだろう。
それでも、わたしの話を最後まで聞いてくれた。
それが、嬉しかった。
部屋を出る前、お姉様はもう1度、指輪を見た。
「大切に使え。お前が選んだ仲間からの贈り物だ」
「うん!」
廊下へ出てから、わたしは右手を持ち上げた。
青い石が、灯りを映す。
たぶん今頃、シルヴィアも同じことをしている。
明日はまた、何度も見てしまったことを、お互いに隠そうとするのだろう。
けれど、オスカーには。
もう1度、嬉しいと言ってもいいかもしれない。
贈ってくれた本人にも、ちゃんと分かるように。
わたしは指輪へ触れ、明日の挨拶を、小さな声で練習した。
「おはよう、オスカー。……今日も、つけてきたよ」
まだ練習なのに、頬がゆるんだ。




