第20話 知りたい、その先まで
【エステル視点】
やっぱりそうだった。
王城の自室へ戻っても、昼休みに見た光景が頭から離れなかった。銅貨が消えた机。何もない場所から現れた椅子。そして、それをわたしたちに見せる前の、少し緊張した彼の顔。
オスカーは、出会った日から特別だった。
理由を全部、説明できるわけじゃない。それでも、わたしの勘は強烈に告げていた。
彼と一緒にいるべきだ。彼から離れてはいけない。
あの時のわたしに、教えてあげたい。
あなた、なかなか見る目があるよ、と。
*
子供の頃から、知りたいことが多すぎた。
雨はどうして落ちてくるのか。落ちてきた水を魔法で浮かべると、どうしてそのまま留まるのか。同じ水なのに、何が違うのか。
1つ教わると、そこから3つくらい、聞きたいことが増えた。
「エステル様、続きは明日の授業で」
「じゃあ、明日までにこの本を読んでもいい?」
「それは、まだ少し難しいかと」
「分からないところに印をつけておくね」
翌朝、印をつけた紙を何枚も挟んで持っていくと、先生は眼鏡を直した。
あの時は、読んだところが多くて驚いたのだと思っていた。今なら、今日の授業が予定どおりに終わるか、心配したのかもしれないと思う。
それでも、先生は1つずつ答えてくれた。説明しきれなかったことは、次の授業までに調べてきてくれた。
わたしは、恵まれていた。
第3王女として生まれ、欲しい本を買ってもらえた。分からないことを聞ける先生がいた。お父様も、お母様も、わたしにできることが増えるたび、喜んでくれた。
お姉様は、少し大げさだったけれど。
教わった詠唱のとおりに、小さな火を指先に灯せただけで、練習用の剣を置いて駆け寄ってきたことがある。
「見事だ、エステル! 誰か、陛下をお呼びしろ!」
「お父様、今、お仕事中だよ」
「では、私が覚えておく。今の火の大きさと色を、正確にお伝えしよう」
次の日には、昨日より大きな火を作れるようになっていた。
お姉様は、また報告しに行こうとした。
家族から愛されていることを、疑った覚えはない。王女だから窮屈だと思う時はあっても、この家に生まれたことを嫌だと思ったことはなかった。
ただ、欲しいものを1つもらっても、それで終わりにはならなかった。
本を読み終えるたび、そこに載っていないことを知りたくなる。魔法を1つ覚えるたび、別の形にはできないのか、考えたくなる。
褒めてもらうのは嬉しい。でも、褒められた後も、わたしの目は次のページへ向いていた。
*
魔法の才能には、自分でも早くから気づいていた。
先生に教わったことを試すと、大抵はできた。1度でできなくても、何回か練習すれば、魔力をどう動かせばいいのか分かった。
火も、水も、風も、土も。
使えるものが増えるのが嬉しくて、練習する。すると、さらに上手くなる。周りの大人たちは、天才だと喜んだ。
初等部に入ってからも、試験の1番上には、わたしの名前があった。
その隣に、シルヴィアの名前が並ぶようになるまでは。
「今回は、わたくしの方が上ですわね」
返された答案を胸の前に持って、茶色い髪の女の子が言った。
わたしは自分の答案と見比べた。
1点。
たった1点、負けている。
「この問題、最後の計算を書き間違えただけだよ」
「その1点も、試験のうちですわ」
悔しかった。
そして、その日の帰り道は、次の試験のことばかり考えた。
王女だからと、勝ちを譲る子ではなかった。わたしが満点を取れば、次は自分も取ろうとする。わたしが間違えれば、嬉しそうに自分の答案を見せにくる。
もちろん、わたしが勝った時は、お返しをした。
「あれ。今回は、わたしの方が上だね」
「見れば分かりますわ。次もそうとは限りませんけれど」
「うん。次も楽しみにしてる」
シルヴィアは、そこで少しだけ変な顔をした。
からかっていると思われたのかもしれない。でも、わたしは本当に楽しみだった。
競い合える人がいると、勉強はこんなに面白くなる。
それを初めて教えてくれたのが、彼女だった。
シルヴィアは凄い子だ。
分からないところを、そのままにしない。できないことは、できるまで練習する。たまたま上手くいっただけなら、もう1度できるか確かめる。
試験が終わった後も、間違えた問題を解き直していた。わたしができた理由を上手く説明できなくて困っていると、自分のノートを開き、順番に確かめてくれることもあった。
その根気も、真面目さも、わたしは尊敬している。
回復魔法にあんなに力を入れていた理由も、覚えている。
昔、自分を守って怪我をした男の子がいたこと。自分は、その傷を治してあげられなかったこと。
その話をする時だけ、負けず嫌いな彼女の声が、少し小さくなった。
大切な人のために覚えたい。その気持ちを、何年も毎日の練習へ変えられる。
そういうところも、好きだ。
本人に言ったら、きっと驚く。普段、顔を合わせれば言い合ってばかりいるから。
でも、わたしはシルヴィアが好きだ。
*
それでも、王都を離れたいと思った。
初等部を終える頃には、魔道王国の学校で何を学べるのか、何度も調べていた。
きっかけの1つは、もっと幼い頃に、本の中で見つけた言葉だった。
森羅万象。
初めて見た時は、読み方も知らなかった。
「この世にある、あらゆるものと、あらゆる出来事を指す言葉ですよ」
先生にそう教わった瞬間、胸が熱くなった。
窓の外に見える木も。そこに止まった鳥も。雨も、風も、人も。昨日できなかった魔法が、今日できるようになったことも。
全部。
たった4つの文字の中に、そんなにたくさんのものが入っている。
「じゃあ、迷宮も?」
「ええ。もちろん」
「魔法がある理由も?」
「それも含まれるでしょうね」
知りたい、と思った。
どうして魔法はあるのだろう。
どうして迷宮は、世界のあちこちにあるのだろう。魔物を倒すと物が残るのは、なぜだろう。魔石ってなんだろう。
この世界は、どうやってできているのだろう。
考え始めると、眠れなくなった。枕元へ紙を持ち込み、聞きたいことを書きつけては、侍女に灯りを消す時間だと言われた。
魔道王国の学校がある魔法都市には、研究をしている人たちが集まると聞いた。
今ある魔法を教えるだけではなく、新しい使い方を考え、まだ解けない疑問を調べている人たちがいる。
会ってみたかった。その人たちが、どんなことを不思議に思うのか、聞いてみたかった。
お父様には、何度も反対された。
「教師なら、こちらへ招くこともできる」
「教えてもらうだけじゃなくて、わたしが見に行きたいの」
遠い国へ娘を送り出す心配は、分かっていた。それでも、諦めたくなかった。
学校のことを調べ、向こうでの暮らしについて聞き、何度もお願いした。3年間で帰ることも、きちんと手紙を書くことも約束した。
お姉様には、心配だから一緒に行くと言われた。
「お姉様は、こっちの学院があるでしょう?」
「剣は向こうでも振れる」
「授業は?」
お姉様は黙った。
たぶん、剣とわたしのこと以外、考えていなかった。
シルヴィアには、もっと短く言われた。
「帰ってきた時、置いていかれたと驚かないでくださいませ」
「それ、わたしの台詞じゃない?」
「では、どちらが驚くか、楽しみですわね」
送り出す時まで、彼女らしかった。
少し寂しくなった。でも、帰ってきたら、きっとまた競い合える。その約束をもらったようで、嬉しかった。
*
留学先には、知らないことが山ほどあった。
同じ水の魔法でも、教える人によって説明が違った。わたしが当たり前だと思っていたやり方に、別の考え方を示す本があった。
先生たちにも、答えの出ていない問いがあった。
誰かが答えを持っていると思っていたわたしは、驚いた。そして、自分も一緒に考えたいと思った。
詠唱短縮の練習では、言葉を1つ省くだけで魔法が崩れた。どうして崩れたのかを考え、流す魔力を変え、次の日も試した。
中でも、足を止めずにいられなかったのが、空間魔法の研究だった。
マジックバッグは、その術式を組み込んだ道具だ。使うだけなら、持ち主が空間魔法を習得している必要はない。わたしの借りた王家の品も、古代から受け継がれたものだった。
現存する品の多くは、そんな古い遺物だという。今も小容量のものを作れる人はいるけれど、ごくわずか。王家の品ほどの空間を安定させる技術は、容易には再現できない。
習得難度は、超S級。冒険者の階級ではなく、魔法を学ぶ難しさの評価だ。適性があっても、高度な理論と精密な魔力制御を身につけなければ届かない。
その説明を聞いた時、わたしは怖がるより先に、胸が躍った。
いつか、自分の力で収納空間を作りたい。小さくてもいい。古代の誰かができたことを、自分の手でも確かめてみたい。
首席で卒業したらバッグを使わせてほしいと頼んだのも、便利だからだけではなかった。憧れている魔法の実物を、そばで見ていたかったのだ。
3年間は、あっという間だった。
帰国する頃には、短い詠唱で4属性の魔法を使えるようになっていた。自分でも、かなり成長したと思っていた。
そして、帰ってきたその日に。
わたしは、言葉を1つも使わずに魔法を操る、同い年の男の子に出会った。
……こんなの、気になるに決まっている。
護衛をまいたのは、わたしが悪かった。久しぶりの街を、自分の足で好きなように歩いてみたかったのだ。
絡んできた男たちには、勝てたと思う。けれど、騒ぎを大きくしたら、すぐに見つかる。どう片づけようか迷っているところに、オスカーが現れた。
彼は、わたしが王女だから助けたわけじゃない。
困っている女の子を見て、間に入ってくれた。
そのことが、まず嬉しかった。
それから、彼の魔法を見た。
無詠唱。しかも、状況を見ながら、必要なところへ必要なだけ使っている。3年間学んできたわたしだからこそ、その難しさが分かった。
何、この人。
もっと見たい。話したい。どうやっているのか、知りたい。
胸の奥が、森羅万象という言葉を知った時と、よく似た熱を持った。
彼についていけば、まだ知らないものに出会える。
強い確信があった。
オスカーという名前を聞いて、シルヴィアが話していた男の子なのだと分かった。けれど、彼女の思い出の中の彼を知っていても、目の前の彼については、分からないことばかりだった。
知っているつもりになるには、もったいなさすぎる人だった。
その直感は、間違っていなかった。
今日、彼が打ち明けてくれた秘密は、その憧れさえ越えていた。
昨日しまったというパンが、まだ温かかった。保温や保存ではないかと聞いても、彼は氷も溶けず、入れた時の状態から変わらないと言った。
空間の先に、時間まで。
時間魔法は、神話の中で語られる領域だ。現代の使い手も、確かな再現方法も、確認されていない。
目の前のパンを持つ手が、動かなくなったことを覚えている。
わたしは今日、ただ便利な収納を見せてもらったのではない。教科書の説明が届かなくなる、その先に触れてしまったのだ。




