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高専の吹奏楽部は、1年生から5年生、そして数年前に新設された専攻科の2年まで、幅広い年齢層の学生が所属している。
15歳の新入生から、ハタチを過ぎた大人までが同じ空間に混在し、年齢も、経験も、思想も全く違う人間たちが、ひとつの部室で息を合わせる特殊な環境。
見学初日、なかば強引に「唇が厚いから」という理由でチューバをあてがわれたのも、そんな場所だった。
「ほら山谷! 息が続かなくて音符が短くなってるよ! もっと腹から息出して!」
「はいっ……苦しいなこれ……!」
「弱音吐いてても音符は待ってくれないよ! ほら頑張る!!」
見学初日に俺の運命《楽器》を決定づけた張本人、ユーフォニアム担当の亜美先輩が容赦ない檄を飛ばす。
俺の半身ほどもある、鈍く光る巨大な真鍮の塊。それを抱き抱えるようにしてマウスピースに唇を押し付け、ひたすらに拙い低音を息が切れるまで吐き出し続ける日々。
そして吹奏楽は、文化部にしては体力勝負な一面もあるため、基礎体力の向上として走り込みや筋トレまでもが練習に組み込まれていた。
入部して1ヶ月、思ってた何倍もしんどい基礎練習の合間に、俺はこっそりとため息をついた。
──俺がやりたかったのは、LUNA SEAのSUGIZOみたいに、低く構えた漆黒の刃で空間を切り裂くようなロックだ。
なのになぜ、メロディのメの字もない、ひたすら低音を這いずり回るだけの重労働をさせられているのか。
そんなことを考えていた数ヶ月前の自分はどこへやら、
──低音が完璧に制圧された空間では、中高音がどこまでも輝き出す、なんて決定的な事実に気づくことになって以来、俺は曲の土台を作ることに夢中にな理、個人練のたび、パーカッションの先輩たちと一緒に重厚な土台を組み立てていく日々。
ある程度楽器に慣れ、全体での音出しにも余裕を持ってついて行けるようになった頃、俺の耳は妙な引っ掛かりを捉えはじめた。
数十人という人間が、それぞれ全く違う楽器を同時に鳴らす全体練習の時間。
トランペット、トロンボーン、サックス、クラリネット、フルート、ホルン、ユーフォニアム、そして俺たちチューバなどの低音域にリズム隊のパーカッション。
全員が同じタイミングで息を吹き込み、和音を鳴らす。
ものすごい音圧だ。狭い音楽室の空気が物理的に震え、窓ガラスがビリビリと共鳴する。大迫力だ。
数ヶ月前、入部したての俺は「すげー!」と感動していた音。
……だが、俺の耳は、どうしようもなく『気持ち悪さ』を感じていた。
なんだろう、この違和感は。
決して、誰かが大きく音程を外しているわけじゃない。譜面通りに音は鳴っている。なのに、耳の奥がざわざわするのだ。
まるで、サイズの合わない服を無理やり着せられているような。ジグソーパズルのピースを、力任せに叩き込んで完成だと言い張られているような。
──音が、濁っている。
トランペットの音がやけに耳に刺さる気がする。サックスの中音域がモゴモゴと団子になって聞こえる。そして俺の出している低音は、ただ空気を無駄に震わせているだけで、全体の響きに全く貢献していないような感覚。
(何かが違う。LUNA SEAのCDで聴いたあの分厚い音の壁は、こんな不快な塊じゃなかった)
俺の耳は、明確にその「濁り」を感知していた。
だが、それを言語化するだけの知識が、当時の俺にはなかった。
「高音域の周波数がぶつかってマスキングを起こしている」だとか、「低音の輪郭がぼやけて中音域を侵食している」だとか、そんな専門用語を知るのはもっと先の話だ。
だから俺は、ただただ言語化できないモヤモヤを抱えながら、言われるがままに真鍮の塊に息を吹き込み続けるしかなかった。
ある日の放課後。
「おーい、みんな揃ってるかー? 今日は仕事早く終わったから、少し長めに見てやるぞー」
音楽室のドアを開けて入ってきたのは、作業着姿の若い男だった。
手にはコンビニのビニール袋を提げ、寝癖のついた髪をボリボリと掻いている。どこからどう見ても近所の工場で働いている気さくな兄ちゃん、といった風情だ。
「あっ、松永先輩! お疲れ様です!」
亜美先輩をはじめ、上級生たちが一斉に居住まいを正して挨拶をする。
彼は、この吹奏楽部のOBであり、休日のたびにこうして手弁当で後輩たちの指導と指揮をしに来てくれている、松永さんという人だった。
「おう。みんな今日も元気そうだねー。
──よーし、じゃあ基礎合奏からいこっか。Bフラットのチューニングから、和音の展開ね。いくよー」
松永さんが指揮台に立ち、細いタクトを構える。
さっきまでの気さくな兄ちゃんの空気が一変し、音楽室にピンと張り詰めた緊張感が走った。
タクトが振り下ろされる。
俺たちは一斉に息を吸い込み、指定された和音を鳴らした。
相変わらずの、大音量の塊。そして、相変わらず俺の耳にまとわりつく、あの言語化できない『濁り』と『違和感』。
数秒間、その和音を響かせたところで、柏木さんのタクトがピタリと止まった。
全員の音が鳴り止み、静寂が落ちる。
「……あー、トランペットー」
柏木さんが、指揮棒の先でトランペットのパートを指した。
「先週もそうだったけど、口の周りに力入りすぎだねー。唇を締め付けて無理やり高い音を出そうとしてるからかな、音が薄っぺらくて耳に痛いねー。息のスピードはそのままでいいけど、口の中、あくびをする時みたいに喉の奥をもっと縦に開けてね。太くて温かい息を楽器に流し込んでー」
次に、タクトがサックスパートに向く。
「サックスは逆に息が散ってるかな。口の形をもう少しキュッと寄せて、息の柱を細く鋭く。今のままだと音がぼやぼやで、隣のホルンの邪魔をしてるねー」
最後に、俺たちチューバの低音パート。
「低音はね、ただデカい音を出せばいいってもんじゃないよー。山谷の音は息が浅い。胸の辺りで息を止めてない? もっと下腹部の底から、地を這うような重たい息を楽器に叩き込んでねー。楽器を鳴らすんじゃなくて、床を、壁を、天井を震わせるようにするといいよ」
俺は言われた通り、喉の奥の形を意識し、息のスピードと圧力を頭の中で微調整した。
ただ「音程」を合わせるんじゃない。口の形、喉の開き、息のスピード、腹筋の使い方。人間のフィジカルをミリ単位で調整することで、楽器から出力される「音の成分」を変えていく。
エフェクターのツマミを回すような手軽さはない。己の肉体そのものをイコライザーとして扱う、極めて生々しく、繊細な作業。
「じゃーもう一度。……息を合わせて」
タクトが振り下ろされる。
全員が、先ほどの指摘を意識して息を吹き込んだ。
————その瞬間。
俺は、自分の全身が総毛立つような、強烈な物理的衝撃を受けた。
(……っ!? なんだ、今の音……!?)
さっきまで感じていた『濁り』が、嘘のように消え去っていた。
トランペットの高音は、耳に刺さる鋭さを消し、どこまでも高く澄み渡るような透明感を纏っていた。
サックスとホルンの中音域は、互いに反発することなく、溶け合うように美しいグラデーションを描いていた。
そして俺たちチューバの低音は、決して出しゃばらず、しかし音楽室の床全体を包み込むような、分厚くて絶対的な土台としてそこに存在していた。
「……そうそう今のバランス! 体に覚え込ませてねー」
松永さんがタクトを下ろす。
和音が消えた後も、音楽室の空気には、ひとつの巨大な生き物が通り過ぎたような、美しい余韻が残っていた。
俺の耳にこびりついていたあの違和感は完全に消滅し、代わりに、今まで体験したことのない「調和」の美しさが脳裏に焼き付いていた。
(すげえ……。一人一人の出している『音程』はさっきと全く同じはずなのに……。口の形や息の通し方を変えただけで、こんなに音が変わるのか?)
それは、魔法のような体験だった。
電気を使ったエフェクターも、ミキサー卓もない。
ただの人間の肉体と真鍮の筒だけで、これほどまでに完璧な「音の棲み分け」と「オーケストレーション」を構築してみせたのだ。
そして何より、その全てをコントロールした、松永さんという『指揮者』の存在。
俺は、気づけば楽器を抱きしめる手に力が入り、興奮で小さく震えていた。
その日の練習終わり。
部員たちが楽器の片付けと手入れをしている中、俺はたまらず、帰り支度をしている松永さんの元へ駆け寄っていた。
「松永さん!」
「ん? どうしたの山谷? 今日のチューバ、後半はすごく良くなったよー」
作業着のジャンパーを羽織りながら、松永さんが気さくに笑う。
俺は、どうしても聞きたかったことを口にした。
「あの……さっきの合奏の時、先輩はどうやってあの『音の整形』を構築したんですか?」
「音の……整形?」
「はい! 先輩がトランペットの口の開き方を変えさせて、サックスの息を鋭くさせて、俺の息を重くした瞬間……音がパズルみたいに完璧に組み合わさりましたよね!? 全部が綺麗に棲み分けされて、誰も邪魔してなくて……あんなの、どうやって頭の中で計算してるんですか!?」
早口でまくし立てる俺を見て、松永さんはポカンと目を丸くした後、あっはっは、と声を出して笑った。
「計算? いやいや、そんな難しいことしてないってー」
「え?」
「んー、なんて言うかな。みんなの音をバーッと聴いてて、なんか『この辺が足りないな』とか、『ここが過剰でうるさいな』ってところを調整してるというか……うん、強いて言うなら、勘!」
「……勘、ですか?」
俺は拍子抜けした。
もっとこう、周波数帯域の緻密な計算とか、各楽器の倍音成分の分析とか、そういう明確な理論があるものだとばかり思っていたからだ。
「じゃ、じゃあ! その勘は……どうやって身につけたんですか?」
食い下がる俺に、松永さんは首の後ろを掻きながら、ふんわりとした顔で答えた。
「どうやってって言われても困っちゃうなあ……。まあ、ずっと指揮台に立って、みんなの音を聴きながらタクト振ってたら、いつの間にか『ここだ』ってのが分かるようになった、って感じ。……山谷は耳がいいんだなー。俺のやりたかったバランスに気づいてくれた子なんて初めてかも」
「あ……」
「音楽なんて理屈でやれるもんじゃないよ。誰かの音を聴いて、自分の音を寄せていく。そうやってみんなで一つのデカい音を作るのが、オーケストレーションの面白いところなんだから。 じゃあー、また来週!」
松永さんはそう言ってヒラヒラと手を振り、音楽室を出て行った。
「……勘。いつの間にか……」
俺は、自分の手にある無骨なチューバを見下ろした。
理屈じゃない。
理論武装から入り、機材や回路図という「計算できるもの」に執着し始めていた俺にとって、その答えはもどかしくもあり、同時に、どうしようもなく魅力的なものに聞こえた。
「山谷、なーに呆けた顔してんの。ほれ」
ふと、冷たい感触が頬に当たり、ビクッと肩が跳ねた。
振り返ると、亜美先輩が缶コーヒーを俺の頬に押し当ててイタズラっぽく笑っていた。
「はい、ブラック武藤。飲める?」
「はい、好きですブラック無糖!」
本当は、ジョージアのテイスティぐらい砂糖が入ったのが好きだけど。
「山谷、今日の音よかったよー! とても最初『なんで俺がチューバなんすか』みたいな顔してた子の音とは思えないね!」
「なんでわかるんですか……先輩エスパーかなんかですか?」
「ふっふっふ、実はうちの家系は代々超能力を使えるんだよ!」
本当かどうか微妙なラインを突く冗談を笑いながらぶち込むなあ、先輩。
「今日は特に、みんなを下からしっかり支えてくれてる感じ出てたよ。ありがとね」
そう言って笑う先輩の顔を見て、俺の胸の奥に、今まで感じたことのない温かい感情がじんわりと広がっていくのを感じた。
俺の作った土台に乗って、誰かが気持ちよく音を鳴らす。
誰かの音を聴いて、自分の音を変化させる。
それは、自室の6畳間で、MTRと一人で向き合っているだけでは絶対に得られない、血の通った感覚だった。
(……俺の音で、誰かと合わせてみたい)
自作のルーパーが寸分の狂いもなく再生する、冷徹で孤独なループ音も好きだ。
だが、あの松永さんのタクトの下で完成した、生き物のようなオーケストレーションの震え。そして、「ありがとう」と笑ってくれた先輩の言葉。
俺は、無意識のうちに、自分一人で完結する音楽の殻から、一歩外へ踏み出したいと渇望していた。
この耳が感知した「調和」の正体を、今度は俺自身の愛機であるギターを使って、誰かと一緒に作り出してみたい。
(……誰かと、セッションしてみたい)
その得体の知れない衝動が、俺の足を、もう一つの部室──オーディオ部へと向かわせる原動力となったのだった。




