6-10
理不尽、という言葉の定義について、深く考えたことはなかった。意味合いなどとっくに知っている。
しかし俺は今、自分の部屋、この6畳間の聖域の中で、その定義を深く考えさせられる出来事に直面していた。そう考えるに至る理由は単純だ。理不尽に晒されているのが、山谷 真太郎──俺だから。
六畳間の聖域が、遠慮という概念を母親の胎内に置いてきたかのような女子高生からの侵略を受けている。侵略者の父はともかく、母はできた人間だと思っているが、どうしてその娘は……と頭を抱えた。そいつは今、年季の入ったフローリングに這いつくばり、俺のベッドの下に手を伸ばしている。
「……武田。さっきから何してんの?」
「ちょっと黙ってて。アタシ今、重大なミッションの最中だから」
白いニットにボルドーのロングスカートという出で立ちの武田は、あろうことか俺のベッドの下に頭を突っ込み、ゴソゴソと何かを探索している。その服、高そうに見えるけどいいの? 汚れるよ?
寒さが少しだけ和らいだ、二月の昼下がり。なぜ武田が山谷家にいるのか、その答えは数日前のバイト終わりまで遡ることとなる。
「──そういえば山谷、アンタの部屋そろそろ招待してくれてもよくない?」
「え、なんで? なんもないよ俺の部屋。ゲームも機材買うために売ったし」
「そういうことじゃなくて。アンタはこの前、純粋な乙女であるアタシの部屋に入ったわけ。そうよね?」
純粋?
乙女?
おいおい武田、日本語の意味がわからなくなったのか?
全国の純粋な乙女にあやま──
「ねえ山谷、アンタ、何か失礼なこと考えてない?」
なぜわかった。
「そ、そんなわけ! そんなことより武田の部屋な、入った入った! で!?」
「あからさまにごまかしたなコイツ……まあ今はごまかされてあげようじゃないの。で、今まで誰もアタシの部屋には入ったことがないの。アンタが初めて」
「……武田って友達多いのに、なんで家に連れてってないのさ」
「あんな家に呼べるわけないでしょ! しかもみんな、アタシみたいに髪の色明るいし、制服も着崩してるし……」
あ、それは呼べないか。武田父、もし武田一味が家に押し寄せてきたら一気に沸騰しそうだし。
「だからアタシも、アンタの部屋に行くことでイコールなわけ。わかった?」
「全然わからんって。拒否権を使うぞ俺は」
「拒否権? あるわけないじゃん」
──いや、あるだろ普通。
そんな俺の至って正しいはずの正論は、暴君の耳にはかけらも届かなかった。バイトから帰ってすぐ『日曜に武田が来るよ』と両親に伝えたところ、母さんは急いでデパートに行き、父さんはとっておきのよそ行きをクローゼットから引っ張り出した。なんでだよ──
そして今日、武田を盛大に出迎えたのだった。そんな手厚い歓迎を受けた武田は先ほどの奇行へと走るのであった。
「うーん……おかしい。何もないじゃん」
「何を探してんの」
「そりゃあアンタ、男子高校生のベッドの下と言ったら、やらしい本とかビデオの隠し場所の定番じゃん!」
ベッドの下に伸ばした手が、何も見つけられなかったことを確認した武田は、何事もなかったように膝の埃を払いながら不満げに口を尖らせた。
「つまんないなあもう。決定的な山谷の弱みを見つけられると思ったのに」
「あのさあ……そういうのは見つけないのが礼儀だろ普通は」
「あのねえ、アタシは山谷の弱みを握りに来たの! なのに何よこれ。ベッドの下にあるのはエフェクターの空箱、バンド雑誌、楽譜……クローゼットの中にはギターのケースとどう見ても使ってなさそうなアンプ……山谷、ホントに男なの?」
「……無いよ、悪いか。あと俺は見るからに男だろ」
「え……嘘。こんなはずは……」
なんで武田がショックな顔してんだよ、遠回しに男じゃないとか言われてる俺はすでに泣きたいよ。
「あの……山谷さん。アンタ、ほんっとーに、女子に興味ないの?」
「さん付けやめろ、怖い。そうだなー、興味がないっていうか……」
俺は部屋の片隅に鎮座する機材の山と、壁際に並べられた大量のCDラックに目をやった。どれも俺が音楽に全てを捧げてきた、何よりの証左だ。
「考えようとも思わなかったというか……学校から帰ったらギター弾いてさ、エフェクターのパラメーターいじって、バイトしてPAの勉強して……気付いたら、ずっと音楽のことばっか考えてるだけなんだよなー」
それは強がりでもなんでもなく、ただの事実だった。
音楽に狂わされてからというもの、俺の脳内リソースは『音』によって完全に占拠されている。女子と遊ぶ時間があるなら、よくわからない女子たちと密室で数時間過ごし合コンに行くぐらいなら、一秒でも長くギターを弾いていたかったから。
「はあ……よくわかったわ……」
俺の答えを聞いた武田は、大げさに肩をすくめて深い溜め息を吐いた。
「アンタ、ほんっと女子と関わることってなさそうね。青春してないわー」
「うっさいな、だって俺にはこれしかないんだよ」
俺は床に座り込み、ギターを武田にずいっと見せつけながら何気なく口を開く。
「俺、武田しかいないし」
そう、こんな俺と日常的に関わりのある同年代の女子なんて、目の前にいるコイツか、妹の麻耶くらい。当然母さんは除外。音楽に全てを捧げてきたという哀しい事実に基づいた、ごく当たり前の見解だった。ありがとう武田、俺は良い友達を持ったよ。
「…………は?」
武田の動きが、ピタッと止まった。なんだこいつ、また何かおかしなことでも思いついたのか? こいつの探し求めるお宝なんて、俺の部屋には一つもないというのに。
「なに?」
「は……はあああああああぁーーーーっ!!?!??!?」
突然、武田が素っ頓狂な叫び声を上げた。
見れば、色白な武田の顔が、首の根元から耳の先まで、まるで茹で上がったエビのように真っ赤に染まっているではないか。
「山谷! あ……アンタ何言ってんのバカじゃないのそうに違いない絶対バカだうわあああああああああ!?」
「お、落ち着け武田! 俺、なんか変なこと言ったか?」
「変なこと!? いや変なことじゃないけど! っていうか、その、いきなりそういうこと言われると心の準備がっていうか、いやアタシは別にアンタのことそういう風に見てるわけじゃないんだけど、アンタがそういうつもりならアタシだって考えなくもないってわけじゃなくてぇっ!!あああああああぁぁぁもおやだコイツ!!!!」
両手で真っ赤になった顔を覆い、バタバタと床の上でジタバタし始める武田。
言語中枢が完全にショートしているようだ。
「どうした武田、そんな顔真っ赤にして。熱でもあるのか?」
「ばっ、バカ! バカ山谷!! 近寄るな!!」
心配して手を伸ばそうとした俺の顔面に、ベッドの上にあったクッションがクリーンヒットした。
理不尽だ。意味がわからん。
「どうしたの真太郎! 椿ちゃんの悲鳴が聞こえてきたけど!?」
「真太郎! ちゃんと順序を守ってお付き合いをだなあ!!!」」
もう、収拾がつかない。
武田がいつもの調子に戻るまで、そこからたっぷり十五分はかかった。
部屋の窓を開けて冷たい冬の空気を取り込み、一階から持ってきた麦茶を三杯ほど一気飲みして、ようやく武田の顔から赤みが引いていった。
「……コホン。まあ、アンタの部屋が色気ゼロの音楽オタク部屋だってことはよーく分かったわ」
「いやいや、武田が勝手に一人でパニックになってただけじゃん。何で俺を刺した?」
「うっさい! アタシはパニックになんてなってないし刺してもないって!」
武田はキッと俺を睨みつけながら、少し目を閉じる。ふうっ、と息を吐き、少しだけ真面目な顔になった。
「そういえばさ、アンタに報告しとこうと思って」
「報告?」
「東田さんのことなんだけどね」
武田はベッドの縁に腰掛け、両足をブラブラと揺らしながら話し始めた。
「この前、バイト終わりに東田さんに呼ばれてさ。『武田ちゃん、ヘアメイクアーティストだっけか? そういう仕事に就きたいんだったよな』って聞かれたの」
「ああ、面接の時に言ってたんだっけ?」
「うん。そしたら東田さんがね、『だったら美容学校に入学して、基礎を学んで自信がついたら俺に声かけてくれ』って」
「声かけてくれって、なんかするの?」
俺の言葉を待っていたかのように、武田が嬉しそうに目を輝かせた。
「そう! 『もちろん武田ちゃんがいいならだが、うちに出演するミュージシャンのヘアメイクを、練習がてらやってみないか?』って言ってくれたの!!」
「え、それ、まじか……すげえじゃん、武田……!」
思わず、心の声がそのまま漏れ出た。
ライブハウスに出演するバンドマン、特にビジュアル系や派手なロックバンドにとって、ヘアメイクはアイコンと言っても過言ではない。そんな大役を任せてもらえるなんて、これ以上ない最高の実践経験になる。
「東田さん、武田のことそこまで評価してくれてたんだな」
「へへっ、アタシの接客スキルに惚れ込んだんでしょ! これで学校の勉強にも気合いが入るってもんよ。夢への第一歩って感じ!」
武田の笑顔は、冬の寒さを吹き飛ばすように眩しく、熱がこもっていた。自分の手で親の敷いたレールを壊し、バイトで自分の価値を証明し、そして自らの手で『次の道』を切り拓いたのだ。
こいつは本当に、すげえやつだ。
「……ところで、アンタはどうなの?」
ふいに、武田の視線が俺の目をまっすぐに捉えた。
「アンタの、将来のこと」
「……」
俺は膝を抱え、少しだけ視線を床に落とした。
この数日間、頭の奥でずっと鳴り止まないその問い。
「実はさ、麻耶と、父さんと母さんに、少しだけ話をしたんだ」
「あ、お父さんとお母さんにも相談したんだ」
「俺が高専の推薦を受けずに、音楽に関わる仕事……PAとかの道に進みたいかもしれないって、正直に打ち明けた」
武田は茶化すこともなく、静かに俺の次の言葉を待ってくれている。
「反対されるかと思ったんだけど。……麻耶は『お父さんたちも絶対に背中を押してくれる』って言ってくれて。母さんは『自分の足で見つけた道なら全力で応援する』って。親父に至っては『デカい爆発を起こしてこい』なんて言われたよ」
「なんだ、最高じゃん! アタシの父さんとは大違い。アンタの親、ちゃんと見てくれてるじゃない。ちょっとうらやましい」
武田が自分のことのように嬉しそうに笑う。だが、俺の心の中に渦巻くモヤモヤは、晴れてはいなかった。
「……うん。みんな、俺のこと応援してくれてた。どうしようもなくなったら帰ってきていいから、全力で頑張れって背中を押してくれた」
俺は自分の両手を見つめた。
「どうやら、周りから反対はされなさそうで、そこは安心した。……でも、俺自身がまだ、迷ってるんだ」
情けない。周りがどれだけ背中を押してくれても、最後に足を踏み出すのは俺自身だ。
安定した未来を捨てる恐怖。
才能の限界を知りながら、それでも『音』に焦がれてしまう未練。
俺はまだ、自分が本当に『音楽を仕事にする覚悟』を持てるのか、信じきれていなかった。
静寂が、六畳の部屋に降り積もる。武田に呆れられるかもしれない。せっかく自分の道を切り拓いたこいつの目に、ウジウジと立ち止まっている俺の姿はどう映っているのだろうか。
「……じゃあさ」
武田が、ポンッと軽く手を叩いた。
「これからアンタは、本気で音楽と向き合いなさいな」
「え?」
「親にも認めてもらえて、障害は何もないんでしょ? だったら、あとはアンタ自身の心の問題じゃない。自分が本当にその道で生きていけるのか、腹くくって『本気』で音楽の中に入ってみなさいよ。逃げ道なんて用意しないでさ」
武田の言葉は、相変わらずストレートで、誤魔化しが一切効かない。
「でも、いつまでも悩んでたら時間が……」
「だから、期限を決めるのよ」
武田がビシッと俺の顔を指差した。
「期限は、そう……アンタが『五年生になる前日』まで!」
「五年生になる前日……それって、あと一年もあるぞ?」
「むしろ、五年生になる前日までなら、万が一『やっぱり自分には無理だ』って諦めたとしても、そこから進路変更してギリギリ就職活動にも間に合うでしょ?」
ハッとした。
武田はただ発破をかけているだけじゃない。俺が高専生であるというタイムリミットを正確に計算した上で、最もリスクの少ない、それでいて最大限に悩める『猶予期間』を提示してくれたのだ。
「その一年間、後悔しないように全力で音楽をやってみなさいよ。バイトでも、ギターでも、なんでもいいから。アンタの全部を音楽にぶつけてみてから、決めればいいじゃない。とはいえ、人生決めるのに使える時間がたった一年しかない。それって焦るかもしれないし、また進めなくなっちゃうかもしれない。でも」
武田はベッドから立ち上がり、俺を見下ろしてニッと笑った。
「アンタはきっと、自分で道を探して歩き出せるって信じてるから。だから期限の日、アタシはもう一度アンタに聞く。その時にどう考えて、何を決めたか。どこに歩いていきたいか。……山谷の想いを全部、アタシに教えて」
その顔は、有無を言わさぬ強引さと、不器用な優しさに満ちていた。武田の人生に、俺を巻き込んだあの日と同じ。
「……五年生になる前日、か」
あと、たった一年。逃げずに、誤魔化さずに、真正面から自分の『音』と向き合うための一年。胸の奥で燻っていた火種に、強烈な風が吹き込んだような気がした。
「……わかった。約束な」
「はい言質取ったー! アタシも死ぬ気で腕磨くから、アンタも本気でやりなさいよ? 中途半端なことしたら潰すからね!」
こうして、俺の進路を懸けた一年間の猶予が始まった。空っぽだった俺の中に生まれた、音楽という熱。それが俺の人生を焦がす一時の火遊びで終わるのか、それとも、世界をひっくり返すような大爆発を起こすのか。答えはまだ、誰にもわからない。
でも、もう立ち止まっているわけにはいかなかった。いつか、俺の作った音で、誰も見たことのない空間を支配するために。
人生を決める、自分自身との戦いが始まる。




