6-9
翌日の午後。
二勤明けで昼過ぎまで寝ていた父さんが、起きてきてリビングのソファに腰を下ろした。テレビの電源を入れ、ぼんやりと昼のワイドショーを眺めている。
父さんの様子を見た俺は、胸に手を当て深呼吸を一度。「よし」と小さく呟きながら、昨日からずっと腹の中でくすぶっている『決意』を伝えるため、父さんの座るソファーへと足を向けた。
「父さん、おはよう。まだ眠そうだね」
「おう、真太郎。二勤の後は体内時計がグッチャグチャだ。さながら体感時間だけはイギリスかな」
真面目な顔で、よくわからないボヤキを口にする親父。
昔からこうだ。根はすごく真面目で、家族のために毎日きっちり働いてくれる昭和の男。だけど時々、こうしてクスッと笑えるようなことを真顔でボソッと呟く。この前家族でいいお店に行った時には、麻耶が注文した小さいデザートを見て『二口三口じゃタランチュラ』とか言ってた。なお、前後の話にタランチュラなんてワードも話題も一切出てきてはいない。この、独特な感性をお持ちの男が俺の半分を構成していると思うと、なんだかこそばゆくなってきた。
しかし、今はそんな楽しい話をする時じゃない。俺はソファの横に立ち、小さく息を吐く。胸の鼓動を抑えるように、言葉を紡いだ。
「父さん、ちょっとだけ、話というか……相談があって」
「なんだ? 恋の悩みか? そういう話は母さんと俺には聞くな。俺たちは高校の時に出会ってお互い初恋人だったから──」
「違うって……その話、数えきれないほど聞いたから。そうじゃなくてさ、あの……将来の進路のことで……あ、忙しいなら後でもい──」
言うが早いか、父さんがテレビの電源を消した。冗談めかした空気が一瞬で消え、静まり返ったリビングに、父親としての静かな威圧感が漂う。母さんからは、まだ何も聞いていないはずだが……父さんはまっすぐに俺の目を見た。
「真太郎、まあ座れ。リラックスして話した方がいいだろ」
「ありがと、じゃあ……」
促されるまま、俺は向かいの椅子に座る。父さんは俺をまっすぐ見ている。俺も父さんをまっすぐ見つめるが、その視線を受けると妙に背筋が伸び、緊張してしまう。無意識に、父さんのまっすぐな視線には威厳というか、俺が本能で緊張してしまう意志が込められているのだと、昔から思っていた。
しかし、いざ見つめ合ってみると、その視線に俺が感じていたものはなく、息子の話を真剣に聞こうという心持ちと、優しさが半分ずつこもっていた。父さんの目を信じ、俺は自分の意思を吐息と共に言葉に乗せる。
「俺、高専の就職推薦、受けないかもしれない」
父さんは何も言わない。ただ、続きを促すようにじっと俺を見ている。
「この前さ、ライブハウスでPAの卓を触らせてもらって……それが、底知れないぐらい面白かった。ギターも相変わらず楽しくて、ずっと弾いていたいって思えてる。……高専に入って、将来のことを考えてる人たちと話す機会がいくつもあった。大企業に入って、誰かと結婚して、家族が増えて……そんな時に自分が歩く場所が、もし安定した道ならさ、何の不安もなく、生きていけるんだろうなって思った」
少しだけ、ほんの少しだけ、父さんが寂しそうに笑うのが視界に映る。
「だけど、いざ自分自身がそういう安定した道を歩き始めて、趣味程度に音楽をやって、時々ライブハウスで仲間たちと音を合わせる、そんな生き方に、俺の心は何のときめきも感じてくれないんだ。これが今、俺が考えてるすべて」
言った。思いを伝えた。自分の言葉で、ちゃんと。
父さんは、俺が話し終わると瞼を閉じ、考え込むように腕を組んだ。
沈黙は何分だったか、数える余裕はなかった。
工業高校を卒業してからずっと、地元の大きな化学工場でプラントを動かしてきた父さん。真面目に、堅実に、俺たち家族を養うために『安定』を体現してきた人だ。それに父さんの父親、俺のおじいちゃんも、実は歌が大好きで、テレビののど自慢大会にも何度か出場し、鐘を打ち鳴らされるほどに上手かった。小さい頃、おじいちゃんの家に行った時によく見せてくれた。歌が何かも知らない頃だったが、テレビの中のおじいちゃんは、心地よく伸びやかに、演歌を歌っていたのを覚えている。
つまり父さんは、安定した生活を送りつつ、歌を趣味として楽しむ人間を一番近くで見てきたのだ。そんな父さんに、こんな浮ついた夢物語を語れば、きっと一喝されるだろう。
山谷家の六代目だ、後継ぎだと、昔から俺はおじいちゃんに可愛がられてきた。父さんもその話を嬉しそうに言ってたのをずっと見てきたからこそ、父さんにこの話をすることが恐かった。
「……そうか」
予想に反して、親父の口から出た一声は、思いのほか静かな受け止めの言葉だった。
「真太郎、 安定を捨てるのは恐いか?」
「……うん。すごく怖い。おじいちゃんとか父さんみたいに、ちゃんと会社に入って真面目に働くのが一番だって、音楽はおじいちゃんみたいに、趣味でやればいいって、頭では分かってるんだ。わかってる、のに……。心がさ、音楽に引っ張られて、板挟みになってて……どう身動きを取ればいいのか、わからなくなっちゃった」
父さんは腕を組んだまま、長く息を吐き出した。
「俺は工業高校を出てから、ずっとプラントの計器と睨めっこしてきた。毎月決まった日に給料が入って、そのお金でお前と麻耶を育てて、母さんにも苦労をかけない暮らし。家だって20代のうちに建てることができた。……この『安定』ってやつが、男にとっての義務であり、それを遂行することこそが最高の勲章だと思ってる。決してつまらないもんじゃないのは、わかってくれるか?」
「わかってる。俺は父さんのこと、すごく尊敬してるよ」
「ありがとう。……だけどな、真太郎」
父さんは少しだけ身を乗り出し、口元にニヤリとした笑みを浮かべた。
それは、いつもの『真面目な父親』の仮面をずらし、実は父さんの心の奥底で、静かに火を灯し続けている『はっちゃけたい男』の顔。
「休みの日に、真太郎が部屋で狂ったようにギターを弾いてる音、下まで聞こえてたぞ。最初は何弾いてるかさっぱりな音、まあ言ってみりゃ下手くそな音だった」
「それは……まあそうだね。始めてしばらくは、まともに弾けなかった」
父さんは軽く笑いながら、話を続ける。
「そんな下手くそだった音が、だんだんと音楽に変わっていくのも、ちゃんと聴いてたぞ。気がついた時には、お前の音はしっかりとロックになってた。……正直言うとな、俺はあの音を聴いてて、少しだけお前をうらやましく感じたんだ」
「うらやましい……?」
「ああ。俺みたいな昭和の男ってやつは、そういう熱い衝動みたいなものを外に向けるのが、まだまだ許されない時代に生きてた。代わりに『責任』って頑丈なショーケースを必死に組み立てて、外に向けて見せるしか、生き方がなかったんだ」
「父さんも、衝動とかってあったの?」
「あったよ。今でもフォークギターを弾いてるのは、その衝動の残滓みたいなもんだ。まあ、もうわずかしか残ってないけどな。俺だってお前みたいに、何かに夢中になって音をかき鳴らす時間が、10代の頃にはあったんだよ。だからこそ、そんな時代にエレキギター1本持って東京に行ったコーちゃんが、俺には眩しかった」
「そう、だったんだ……」
「母さんと付き合い始めてから、一年ぐらい経った頃かな。コーちゃんと引き合わされたんだけど。最初は不良かなんかだって、少しビビったんだ。でも話してみたら、真剣に音楽が好きで、外国のミュージシャンが大好きで、ただただギターをずっと弾き続けたい子でな。俺は憧れたよ」
父さんは立ち上がり、キッチンへ歩いてお茶の準備を始めた。
「父さんは、音楽で生きていきたいって、思ったことはなかった?」
「なかったな、自分が歌もギターも平凡なのは、皆の反応で嫌でも理解した。そういう意味でもお前はすごいんだ、平凡だったギターを、技術で補って聴かせるものに仕上げられるんだからな。この前の高専祭、俺も行ってたんだ」
「え、まじで!?」
「母さんがお前を殴ったあの先輩に、ダッシュで駆け寄って蹴り倒したところまではっきり見てた。母さん、さらに殴りつけようとしててな、腕を振り上げたところで俺が止めた」
母さん、父さんがいなかったらちゃんと傷害罪だったじゃん。
いや、すでに傷害罪か。
「だからお前がステージで、あのミキサーだっけ? あれで音を作っていく様を全部見てたんだ。真太郎、お前はもう立派に、音楽の世界で生きてるじゃないか」
父さんのその言葉が、俺には何より誇らしかった。
コーヒーのフィルターに視線を向け、父さんはコーヒー豆の缶を取り出す。香ばしい香りが、部屋に広がって鼻腔をくすぐる。
「ところで真太郎。俺の仕事はな、化学製品を作ることだ。高圧の釜の中で、危険な薬品同士を混ぜ合わせて、全く新しいものを作り出す」
父さんはマグカップを二つ用意しながら、背中越しに俺に言った。
「プラントで一番大事なのは安全弁だ。圧力が限界を超えそうになったら、弁が開いて圧を逃がし、大惨事を防ぐ。俺は毎日、その安全弁が正常に動くかばっかり確認して生きてる」
マグカップを運ぶ父さん。温かいコーヒーが二つ、テーブルに置かれた。
「でも真太郎。もしお前が、誰も見たことがないような新しい化学反応を起こしたいなら……安全弁ばっか気にしてたら、デカい爆発は起こせないんだ」
ドキリとした。父さんの目は、俺の心の中にある『安定への未練』と『音楽への渇望』を正確に射抜いていた。
「安定した人生を送りたいなら、安全弁はいつでも開けるようにしておけ。でも、お前がその音楽ってやつで、本気で世の中をひっくり返すような爆発を起こしたいなら……時にはその弁を力一杯締め上げて、自分がどこまでの圧力に耐えられるか、試してみるのも悪くない」
「父さん……」
「ま、限界を超えて吹っ飛んだ時は、骨ぐらいは拾ってやるから実家に帰ってこい。子供のピンチを救うのが親だからな」
父さんはそう言って、コーヒーをおいしそうに一口すすった。
「まだ時間はあるんだろ。じっくり考えろ。中途半端な火遊びで終わらせるか、デカい爆発を起こすか。……決めるのはお前だ」
母さんからの『覚悟の問いかけ』と、親父からの『爆発への許可』。両親が敷いてくれたレールは、決して俺を縛るためのものではなかった。どうしようもなくなった時には、いつでも帰ってこられるように作られた優しい場所。
父さんと話せて、よかった。安心感からそのあとは、しょうもない話をしながら、当然だと言わんばかりに武田とのことを聞かれ、青ざめた俺に気付いた父さんが「すまん」と慌てて話を変えた。
みんなどうしたんだ、武田は友達だって言ってんのにさ。
そんな俺の胸の奥に、火種が生まれたことを、俺はまだ気付いていない。




