6-8
武田がSparkle Polarのカリスマ店員になって数日が経った、休日の午後。
「真太郎、紅茶入れたから降りておいでー」
1階から俺を呼ぶ、母さんの声がした。
階段を降りると、テーブルには湯気を立てるマグカップが二つ置かれていた。麻耶は友達と遊びに出かけている。なんか11人の詐欺師が活躍する映画とか言ってたな。父さんはそろそろ仕事なのか、慌ただしく準備をしていた。
「んじゃ、行ってくる!」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
父さんを見送り、階段を降りる。化学工場のプラントで交代勤務のため、父さんの仕事はカレンダー通りのものとは違う。今日は2勤なので、帰りは夜中だ。
リビングには久しぶりに、母さんと俺の二人だけとなった。
「はい真太郎、熱いから冷まして飲んでね。あんた猫舌だから」
「ありがと。心配しなくてもすぐには飲まないって」
ティーカップからは湯気がたちのぼり、いい香りを振り撒いている。菓子盆には定番の茶菓子がどっさりと、その中にちらほらと、うちではまず見ないような高級なお菓子があった。
俺が席に着くと、母さんは向かいの席に着き、ティーカップに口をつける。
「真太郎、見て。菫さんからこんないいお菓子もらっちゃったの」
「すごいね、これ……袋の中で輝いてるのが見えてくる」
「これはバターがしっかり使われてる証拠ねー。今度はうちがいいお菓子準備しないと。あ、それとこの紅茶も菫さんからもらったのよ!」
「武田の母さんのおかげで、うちの生活レベルが上がってる……」
「と・こ・ろ・で、椿ちゃんとはあれからどうなのよお? 会って話はした?」
「そう、武田! あいつ俺のバイト先に面接受けてさ、この前から一緒にバイトしてるんだ」
「あら、あららそれはまた……ご馳走様ですっ!」
ニヤニヤと笑いながらお手々のしわとしわを合わせ、母さんが容赦なくいじってくる。
「何してんの母さん。意味わかんないって」
「あんた本当に……まあいいわ。バイトはどう? もう慣れた?」
「うん。すごいよねプロの現場って。改めて身が引き締まった」
「頑張りなさいねー、椿ちゃんと一緒に! ……ところで真太郎、もうすぐ4年生でしょ。進路はどう考えてるの?」
からかうような響きがスッと消え、母さんのトーンが一段下がった。
マグカップを見つめる母さんの目は、息子の友達をからかう顔ではなく、完全に親の顔になっていた。
最近ずっと悩んでいる、将来のことが頭をもたげてくる。
考えてもみれば、高専は就職がいいという世間からの評判は、入学して先輩の進路を知れば知るほど、確かな情報だったと実感した。俺も学校の推薦枠を使って、手堅い企業に就職した方が安定した未来が約束されている、そう思っていた。
さんざん心配をかけた家族への、せめてもの恩返しはそれだと、今でも信じてはいる。
でも。
「……俺さ、そのことでずっと悩んでるんだ」
「話してみなさい」
静かなリビングに、時計の秒針の音だけが響く。
母さんは急かす様子もなく、ただじっと俺の次の言葉を待っていた。
「俺が高専に入った理由、話してなかったよね」
「聞いてないけど、そんなのわかる。音楽について勉強したかったんでしょ?」
驚いて顔を上げ、母さんを見る。
母さんは怒るでもなく、ただ微笑んでいた。
「これでも18年あんたの親やってんだから、わかって当然。褒めていいけど?」
「なんで得意げなの……でさ、今Sparkle Polar……東田さんのライブハウスでバイトを始めて、PAの卓を触らせてもらって。俺、音を作って空間をコントロールするのが……底知れないぐらい面白くて、楽しくて」
「東田くん、懐かしい名前ね。元気してるの?」
「母さんも知ってるんだ。うん、いっつもウイスキー浴びるほど飲んで、タバコずっと吸ってる」
「相変わらずねあの子も……」
ため息をつきながら、何か思い出すように母さんを宙を見上げた。
俺は母さんから視線を逸らし、ティーカップに向ける。
「そういう環境で働いていて……まだ漠然としてるけど、俺、音響とか、音楽に関わる仕事に進みたいって、思い始めてるんだ」
しばらくティーカップを見つめていたが、ゆっくり顔を上げる。
そうして見えた母さんの表情は、想像していたものとは全然違っていた。
小さくため息をつき、マグカップを両手で包み込む。
「あんた……ギターで東京行くんじゃ、ないの?」
「……え?」
「音楽で仕事したいって、てっきりギターで、なんならバンドで行くものかと……」
「本当はそういう人生が送りたいって思ってたけど、俺の腕じゃさ、無理だよ」
嘘だ。
本当は、信じられないくらい大きな会場で、スポットライトを浴びてギターをかき鳴らしたい。
誰かの心を動かす曲を作りたい。
死ぬまでずっと、ギターを弾いていたい。
でも、これは口に出しちゃいけないことだ。
母さんは、ずっと弟のコーちゃんを心配していた。
それをずっと見ていた。
だから、この夢は言っちゃいけないんだ。
言ってないのに。
……なんで、言い当てちゃうのかな。
「もちろんあたしは、そんなこと言い出したら絶対に反対する。あたしは知ってるからね、才能だけで成功できる世界じゃないって。コーちゃんを一番近くで見てたあたしが言うんだから、これは的外れな意見じゃないと思う」
「だったら言えるわけないよ。たとえば、もしも、何かの間違いで、そんな夢を持ってたとしても」
「そのぐらいで諦められるような夢なら、捨てちゃいなさい」
言葉が心に刺さる。
諦めろと言われても諦められない、追いかけずにはいられない、届かないとわかったとしても手を伸ばし掴もうと抗う、それだけの情熱を持って求めるのが夢ってものだ。
「腕がないからとか、才能がないからとか、頑張ればどうにかなるものを言い訳にするのなら、そんな夢捨てちゃいなさい。努力もできずに、夢は叶うほど甘いものじゃないの」
何も言い返せない。
だって母さんは、俺を心配して、諦めず夢を追いかけている人を見て、その上で、言葉を投げかけているのだから。その気持ちを無下にして、どうして夢を追いかけたいなんて言えるだろう。
でも、あの日音楽にどうしようもなく恋をし、憧れ、ステージに立ってしまった時から、あのスポットライトの下でギターを弾き続けたいという欲望に囚われてしまっている。
その夢を、心配かけたくないからと捨ててしまえるのか?
俺の夢は、音楽への情熱は、その程度のものだったのか?
「……まだ、答えは出てない」
俯いたまま、膝の上で拳を握りしめる。
親に守られていた中学生までの俺とは違う。
親を安心させたい気持ちと、自分の中にある抑えきれない衝動がぐちゃぐちゃに混ざり合って、どうしていいか分からなかった。
無責任に「絶対プロになる!」なんて言えるほど、俺は子供じゃなくなってしまった。
「……怖いよ。安定を捨てるのは怖い。でもさ……安定な道を、これから先の人生で歩きだして、生活も保証された安全な場所で、趣味としてギターを弾いてる自分を想像しても……心がね、ちっとも動かないんだ」
顔を上げ、母さんの目を見て伝える。
親の庇護下を離れ、大人になった俺を思い描く。
親を安心させる安泰な将来に、自分の心が一切ときめかないことに、誰よりも俺自身が衝撃を受けていた。
無責任に、心のうちに秘めていた夢を捨ててしまえるほど、俺は大人にはなれなかった。
そんな俺の葛藤に満ちた姿を見て、母さんはふっと目元を和らげた。
「……あんたが、ただのワガママや憧れだけで言ってるんじゃないことは、今の顔を見ればわかる」
母さんが立ち上がり、俺の隣に立って、ポンと肩に手を置いた。
「真太郎。こんな大事なことは、今すぐここで決めなきゃいけないことじゃない。学校を卒業するまで、まだ2年もあるんだから」
「母さん……」
「だから、今は考えなさい。考えて、悩んで、考えて……それでも、真太郎がどうしても目指したいって心から思える道が見えたら」
母さんの手が、優しく俺の肩を撫でた。
「その時は、あたしたちも全力で応援するから」
その温かさに、胸の奥がギュッと締め付けられる。
自分で見つける答えを、待ってくれると言ってくれているのだ。
「……ありがとう、母さん」
俺は、小さく、だけどはっきりと頷いた。
答えを保留にしてもらった甘えは、決して無駄にはしない。
自分の足で、自分の進むべき道を見つけ出してみせる。




