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一面がうっすらと雪に覆われて、もはや外に出ること自体が億劫になって久しい、2月のある日。
そろそろ雪が降りそうだなと、空を見上げて少しだけわくわくする。
いつものように、『Sparkle Polar』へと出勤していた。
重い防音扉を開けてフロアに入ると、カウンターの中でグラスを拭いていた東田さんと小夜さんが、俺の顔を見るなりピタッと動きを止めた。
なんだ?
「お疲れ様です、東田さん、小夜さん」
「おう、山谷。来たか……」
東田さんはなぜか、口元を手で覆いながら肩を小刻みに震わせている。
高専祭の後、顔を合わせたファミレスで『エクリプス』の件をイジられた時と全く同じ、最高にタチの悪い笑顔だ。髭面で癖っ毛の長髪、そこに楽器メーカーのキャップ目深に被り、顔に深く刻まれた皺。その向こうに見える鋭い眼光。
たぶん俺が東田さんと面識がなくて、こんな風貌の人と街でばったり出くわそうものなら、全速力で逃げ出す自信しかない。
つくづく、小夜さんってなんで東田さんと結婚し……その話は前聞いたか。でもやっぱり疑問だ。
「……なんですか東田さん、その顔。俺、なんかやらかしました?」
「いや? なんでもねえ、なんでも……あ!」
なんだ、この取って付けたような「あ!」は。
これ、絶対何かあるな。
「そうだ山谷。お前に言い忘れてたことがあったんだったー! いやー、俺としたことがうっかりさんだな」
「東田さん……うっかりさんって言葉が世界一似合わないですね……」
「うるせえ、それより今日から、ホールに新しいバイトが入る」
「え? そうなんですか? 全然知らなかった……」
「そりゃ言ってねえからな」
言ってないのかよ。
「ま、今日から先輩としてだな、しっかり仕事のイロハを教えてやれよ……ブフッ!」
「ちょっとオーナー、笑っちゃダメって言ったじゃないですか。ごめんね山谷くん、この人気持ち悪かったでしょ」
「正直、かなり」
「だからあなたは演技なんて向いてないって言ったでしょ」
「だってよお、面白えことには全力で乗りたいし……」
東田さんも、小夜さんには弱いな。
世の中の夫ってものは、妻には弱いものだ。うちもそうだし。
「さ、仕事の前に顔合わせね! 山谷くん、いい?」
「そんなもったいぶらなくてもいいですって。今日は二人ともどうしたんですか?」
「いいからいいから、どうぞ、入ってきて」
小夜さんが満面の笑顔で、スタッフルームの扉へと声をかけた。ガチャリ、と扉が開く。
「え…………はああああああああっ!?」
俺の絶叫がライブハウスのフロアに反響した。
扉の向こうから現れた、黒いスタッフTシャツを着た人物の顔を見て、俺の思考は完全に停止した。
なんでお前、こんなとこにいるんだよ。
「今日からここで働くことになりました、武田 椿でーす! ご指導よろしくね、山谷、せーんぱい?」
「 な、なんで武田!?」
「アッハハハハハッ!! 見ろ小夜、こいつのツラ!! ヒィーッ、腹いてえ!!」
限界を迎えた東田さんが、カウンターに突っ伏して大爆笑し始めた。
「東田さん! 知ってたんですか!?」
「そりゃ当然だろ、面接したのは俺なんだからよ! 武田ちゃんが面接で『山谷には初出勤の日まで絶対に秘密にしといてください。その方が面白いですよ!』なんて言うもんだから、小夜と二人で必死に黙ってたんだぜ!」
「東田さんだけじゃなく、小夜さんまでグルだったなんて……。ていうか武田、なんでここでバイト!?」
頭を抱える俺の前で、武田は腰に手を当てて得意げに胸を張った。
「フッフッフ、驚いた? これも秘密にしてたんだけど、アタシ、下関の美容専門学校に合格したのよ!」
「マジか……おめでとう!やったじゃん!!」
「ありがと! で、母さんとの約束通り、学費の残りと自分のお小遣いを稼ぐためにバイトを探したわけ。どうせ働くなら、アンタから聞いたこのお店が一番面白そうじゃん?」
ケラケラと笑う武田。
……だが、俺の脳裏には一抹の不安がよぎっていた。
こいつ、Peacefulでは客席にふんぞり返って金谷と鈴森を下僕のようにこき使っていたやつだぞ。
そんな武田に、多種多様な客が来るライブハウスの接客なんて務まるのか……?
しかし、俺のその失礼な懸念は、オープンからわずか30分で間違いだったことを思い知らされる。
「今日の出演バンドの皆さんですね、お疲れ様でーす! リハの音、外までカッコよく響いてましたよー! ドリンクチケットはこちらになります!」
「お、おう! ありがと姉ちゃん、ノリいいな!」
受付に現れた、全身ピアスとタトゥーだらけのコワモテのバンドマンたち。
俺なら一瞬怯んでしまうような連中の懐に、武田はギャル特有の抜群のコミュ力と屈託のない笑顔でスッと入り込み、一瞬で空気を和ませてしまった。
かと思えば、年配の常連夫婦が来店した時には──。
「いらっしゃいませ。足元の悪い中お越しいただき、ありがとうございます。お召し物をお預かりいたしますね」
背筋をスッと伸ばし、指先まで揃えた完璧な角度のお辞儀。
そして、耳に心地よく響く流麗な敬語。
あの武田家で、幼少期から徹底的に叩き込まれたであろう『本物のお嬢様スキル』が、ここで遺憾なく発揮されたのだ。
「……おい山谷。武田ちゃん、ただのギャルじゃねえな。なんだあのテレビの中で見る金持ちみてえな所作は」
「あー……正解です、東田さん。武田って、ああ見えて結構すごい家のお嬢様なんですよ……」
PA卓の横で、東田さんが目を丸くして感心している。
だが、武田の真骨頂はそれだけでは終わらなかった。
ライブが中盤に差し掛かり、フロアの熱気が高まってきた頃。
カウンターの前で酒を飲んでいた体格のいい男の客が、だいぶ酔いが回ったのか、通りかかった若い女性客の腕を掴んで強引に絡み始めたのだ。
「おい山谷、ありゃまずいぞ。俺が止め──」
「あらあらお客様、女の子が怖がってますよ? 今すぐ手を離してくださいね」
東田さんが動くより早く、武田がスッと二人の間に割って入った。
「あぁ? なんだ姉ちゃん、よく見りゃ美人じゃねえか。お前も一緒に飲むか?」
「いいえ。うちは楽しく音楽とお酒を味わう場所ですので、他のお客様のノイズになる方は──お引き取り願います、ねっ!」
ニッコリと営業スマイルを浮かべたまま、武田は酔っ払いの腕を流れるような動きで掴むと、そのまま背後に回り込んで見事な関節技でひねり上げた。
「ぎゃあああ!? い、痛てててて!! 腕が、腕が折れるぅぅ!!」
「はい、そのまま真っ直ぐ出口へどうぞー! 外の夜風が気持ちいいですよー!! ……あとよく見りゃ美人って何だお前ーーー!!!」
自分より頭一つ分はデカい大男を、まるでゴミ出しでもするかのように軽々とエントランスまで連行し、文字通り店の外へと放り出してしまった。
戻った武田はパンパンと手を払い、何事もなかったかのように「お騒がせいたしました」と周囲の客に優雅に一礼して、ホールへと戻ってくる。
「…………」
「…………」
PA卓で固まる俺と東田さん。
数秒後、東田さんは咥えていたタバコを灰皿に落とし、震える声で呟いた。
「……小夜。武田ちゃん、時給500円上げてやれ。うちの永久用心棒として雇うぞ……」
こうして、一夜にして武田はSparkle Polarのカリスマ店員となった。
そんな波乱の後。
閉店作業のモップがけを終え、小夜さんたちと楽しそうに談笑している武田の横顔を、俺はPA卓からぼんやりと眺めていた。
親の敷いたレールを自力で飛び出し、専門学校への合格を掴み取り、この新しい環境でも自分の武器をフル回転させて輝いている武田。
それに比べて、俺はどうだ。
もうすぐ4年生になるというのに、俺はまだ、自分の立つべき場所を決めあぐねていた。
高専を卒業して、安定した企業に就職し、休日に趣味として音楽を楽しむ道。
それなら生活に困ることはないし、親を安心させることもできる。
……だけど、その未来を想像しても、俺の心は1ミリもときめかなかった。
じゃあ、東田さんやコーちゃんみたいに、音楽の世界へ飛び込むのか?
そう考えた途端、先の見えない不安定な生活への恐怖が、鉛のように足元に絡みついてくる。
麻耶も、そして目の前で笑っている武田も、俺の背中を押してくれたというのに。
俺はまだ、未来の扉の前で足がすくんだままだった。




