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文化祭から数時間後。
「おう、お帰り」
家に帰った俺を待っていたのは、思わぬ来客だった。
「コーちゃん……」
たぶん母さんだ。俺が文化祭のライブに出るって連絡でもしたんだろう。
帰ってきてくれたのはすごく嬉しい。
嬉しい、はずなのに。
今日だけは、会いたくなかった。
コーちゃんの顔を見ることもできず、俯いたまま階段を駆け上がり自分の部屋に逃げ込む。
情けない。恥ずかしい。妬ましい。
ギターって、こんな思いをしてまでやるものなのか?
ただ、音を出すことが楽しかったから弾いてた。
やがて、自分だけで音を鳴らしていることが、だんだん物足りなくなっていった。
誰かと一緒に演奏がしたい。
そんな時に中島が「バンドやろうぜ!」って誘ってくれた。本当に、嬉しかったんだ。世界の誰とも積極的に関わってこなかった俺を、中島の世界に招いてくれたことが。
久光だって、アイツだって練習して、でも天才だから俺よりギターが上手くて、俺のためを思って再度ギターを勧めてくれたんだ。
悪いやつなんて一人もいない。
みんな良いやつなんだ。
でも、どうして、俺の音は、誰にも届かなかったんだ。
どうして誰も、俺の音を聞いてくれなかったんだ。
どうしようもないことばかりを、真っ暗な部屋でうずくまりながら頭の中でぐるぐると回していた。
その時、部屋に響く、ドアのノック音が3回。
「入るぞ、真太郎」
俺の返事も待たずに、コーちゃんは部屋に入ってきた。
真っ暗だった部屋の照明を点ける。
「……悔しかったのか」
そうだよ。
悔しいよ。
俺はさ、この日のために全てをかけて準備したんだ。
練習? 1日も休まず、できる限りしたよ。
音だって、時間をかけて煮詰めて、妥協なんて一切しなかった。
今の俺が作り出せる、最高の音を作って、ステージに立ったんだ。
なのにさぁ……
「……くそ」
届いて、なかったんだよ。
誰にも届かなかった。
俺の音は。
弾いてないなんて、そんなわけないんだよ!
自分の全てを出し切った最高のプレイだったんだ!!
「慰めねえぞ」
だから、この言葉は本当に救われた。慰められたり、優しい言葉をかけられる方がよほど痛い。
やっとの思いで絞り出した掠れる声で、腹の底から思いを、悔しさを吐き出す。
「俺の音……完璧だったんだ。久光の音に埋もれないように、曲を際立たせるように、丁寧に繊細に作り込んだ。俺の目の前のアンプからは、確かに最高の音を叩き出してたんだよ! 」
喉が熱い。
目頭がツンと痛い。
押し寄せる感情の波を止められない。
「なのに、なんで誰にも届かなかったんだよ!」
息が苦しい。
まただ、水に溺れたような息苦しさ。
はじめて見つけた、自分のやりたいこと。
楽しいはずだった。
幸せだと信じきっていた。
そんな好きなものにさえ、こんな気持ちにさせられる。
涙が、止まらなかった。
泣き叫ぶ俺を、何も語らない目で見るコーちゃん。
タバコの煙をゆったりと吐き出し、床を眺める。
「真太郎……このデータシート、お前が作ったのか」
床に散らばる、数えきれないほどページをめくり、パラメーターひとつひとつを覚えていった、エフェクターの説明書。その横に無造作に置かれた紙の束は、音を作りながらメモを取っていった努力の結果だ。
「なるほど、ギターのサウンド特性と、アンプのパラメーターまできっちり作り込んでるな」
「寝る時間ももったいなくて、必死に調整して、これって思える音を作っていったんだ……俺、頑張ったんだよ」
コーちゃんが、床に投げ出したギターケースから俺のギターを取り出す。
何も言わずシールドを繋ぎ、アンプの電源を入れ、コードを鳴らす。
「俺な、真太郎の初ライブ、見に行ったんだよ」
「……え?」
思わぬ言葉に、頭が真っ白になる。
「だから、真太郎の音がどうして誰にも届かなかったか、その原因も説明できる」
「教えて、何で俺の音は──」
「だけどな、その前にこれだけは言わせてくれ」
タバコの火を消しながら、コーちゃんは優しい目で言った。
「いい音だった」
誰にも届かなかった、と思っていた俺の音。
それを、いい音だった、って……?
「これでも長年音楽やってんだ。何よりギターの音だ、どんな時でも聞き漏らすわけがない」
「……そうなの?」
「信じられないか? じゃあ──」
コーちゃんはポケットからメモを取り出し、後ろの方のページからめくっていく。
「これだ。あのME-30の設定は、そうだな……まずコーラス。素人がよくやりがちなのが、透明感を深くするとかいう理由で深くかけること。これは良くない。音の芯が消え失せるからな」
コーちゃんは続ける。
「それと、ディレイの塩梅って結構難しくてな、これもかけすぎると風呂の中で音が鳴ってるように聞こえて、音の芯が消えるよな。それらをかけすぎないギリギリのパラメーターで合わせたのはさすがだ」
聴いて、くれてたのか。
俺の音、届いてたのか。
ああ、良かった……無駄じゃなかった。
「厳しく見ていけば、EQは少し詰めが甘かったのと、コンプレッサーが弱すぎってことぐらいか。ここまでが機材の限界だったんだろう。本当に、あのオモチャみたいな機材でよく組み上げた」
「……ありがと」
「それじゃ、誰にも届かなかった音の原因を教えようか」
どくん、と心臓が跳ねる。
やっと知ることができる。俺の音を、殺した犯人を。
「真太郎、自分のアンプの真正面に立ってたよな。ひとつめの罠はそれだ」
は?
いやいや、そういうもんじゃないのか?
ギタリストって、みんなアンプを背に弾いてるもんだよな?だから俺もそうしたんだ。
俺の疑問をよそに、コーちゃんは続ける。
「ギターアンプの音、特に高音域ってのは直進性が強いんだ。どういうことか分かるか?」
「えっと……音が真っ直ぐ一直線に飛ぶってことは……もしかして……」
次の言葉が、霞の向こうにわずかに見えた。
「今みたいに真正面に立ってりゃ、音は真太郎に全て集まるから、気持ちよく聴こえるだろう。だが、そこから一歩でも横にズレてみろ」
言われるがままにアンプの横へ移動すると、さっきまで耳に刺さっていた高音がわずかにこもり、モコモコとした輪郭のない音に変わった。
「なんだ、これ……」
「これを中音と外音っていうんだ。こんな小さい部屋で違いが分かるってことは、真太郎は耳がいいな」
知らなかった。
家ではいつもアンプの正面でギターを弾いていた。
リハーサルも、アンプの正面でボリュームを調整した。
「そんな……俺は自分の音をもっと上げなきゃいけなかったのか……」
「初めての、しかも中学校の文化祭のステージで、こんなことを言うのは酷かもしれない。もっとしっかりしたステージなら、PA《音響機材》の返しもあるし、プロならエンジニアが全部やってくれる。メンバー同士の音量バランスもそこで取れる」
コーちゃんがタバコに火をつけ、煙を深く吸い込んだ。
「厳しいことを言うけどな、真太郎はステージの上で、自分専用の特等席で『自分だけの音』に酔ってただけなんだよ。客席にどう音が飛んでいくか、1ミリも想像してなかったわけだ」
コーちゃんの言葉が、鋭い刃物のように俺のプライドを切り裂いていく。
「それに、体育館ってのはコンクリートと木の板でできた巨大な反響室のようなものなんだ。低音は壁を這って回り込み、中高音は天井で乱反射する。久光が放った全帯域ブーストされた爆音は、あの巨大なハコの中で暴走する『魔物』になった。真太郎の繊細なアルペジオは、もう一つの罠、『体育館というハコ』に食い殺されたんだ」
何一つ、わかっていなかった。
中音と外音、メンバー同士の音量バランス、会場の音響……どれもいま、初めて知ったことばかりだ。
「真太郎がここで折れずに、数多の天才たちに立ち向かい続けたいなら、テクニックとか音作りだけじゃなく、音響というものを知らなきゃいけない。ギターとアンプの特性、空間の反響、そして|PAを通した外音のコントロール……空間の帯域を支配しろ」
知恵を絞ったつもりでいた。機材の限界を、努力でカバーしたつもりでいた。
だが、俺は音響という戦場のルールすら知らずに、素手で魔王に突っ込んでいたようなものだったのだ。
「心配すんな、お前は耳がいいんだ。すぐに理解できる。……いいか、真太郎」
叔父は、短くなったタバコを灰皿に押し付けながら、ニヤリと笑った。
「これから先、お前は嫌ってほど出会うはずだ。アイツみたいに何も考えず、ただデカいだけの無神経な音を垂れ流す連中にな。そいつらの音を全部、お前の手で檻にぶち込んでやれ。そして、お前の音で空間ごとねじ伏せるんだ」
戦うための理論が足りなかったんだ。だから、誰にも俺の音を届けられなかった。
悔しいけど、知らなかったからで許してくれる時間は、もう終わった。
俺は知りたい、音のことを。
さっきまで抱えていた絶望は、気がつけばどこにもいなかった。




