6-1
「山谷! マイクケーブルの巻き方が甘えぞ! 8の字巻きは基本中の基本!!」
「はい! すぐやり直します!!」
東田さんが経営するライブハウス『Sparkle Polar』。
この薄暗くも熱気に満ちた空間で、俺はPAの修行兼アルバイトとして働き始めていた。
部室の機材とは桁違いのプロ用ミキサー、天井から吊るされた巨大なラインアレイスピーカー、そして何より、ステージに立つプロやセミプロのミュージシャンたちが放つ、圧倒的な熱量。
東田さんの横でその音響空間の構築を間近で見ていると、自分の世界が、いかにちっぽけなものだったかを思い知らされる。
「耳の良さを活かす前に、まずは現場の空気に慣れろ。ミュージシャンの息遣い、客の体温、ハコの反響……その全部を感じ取って、空間を支配するんだよ」
タバコをふかしながらミキサーを操り、ニヤニヤと俺の羞恥心をくすぐる東田さんの背中は、その軽口とは裏腹にとてつもなく大きく見えた。
音楽を支え、空間を支配する裏方の仕事。
ステージに立つミュージシャンの音を操り、会場の空気を熱し、必要があれば冷ます。
頭上で輝く照明も、否応なく観客にミュージシャンたちのビジュアルを映し、隠し、そして輝かせる。
プロの現場、その空間は俺の心に深く刻まれた、あの日の憧れをテレビの向こうなんて遠い場所ではなく、手を伸ばせば届くんじゃないかと思わせるほどに近くに感じさせた。
本日の演目が全て終わり、観客もとっくに退いた閉店前。
さっきまでの熱量はどこかに消え、残るのは暗くなったステージと、そこに鎮座する機材たち。
──今日もお疲れ様、いい音だったよ。
機材を労い、綺麗に拭いてまた明日。
そういえば。
東田さんに聞きたいことがある。
「東田、今もやってるのか。じゃあ心配ない、全部ぶつけて相談したらいいさ」
叔父は、東田さんのことを知っているようだった。
高専祭が終わり、生活に余裕が出てきた頃から気になってはいた。
今日、聞いてみよう。
「東田さん、ちょっといいですか。聞きたいことがあって」
「どうした、恋の悩みか?」
「いえ、それはないです。相手なんてどこにもいないですから」
「なんだお前! バンドマンなのに彼女もいねえのか!?」
バンドマンってそんなにモテるのか? 声すらかけられたことないが。
「まあいい、ちょっとカウンターで待ってろ」
そう言い残し、東田さんは事務所に機材を運ぶ。
十分後、東田さんは酒を持って戻ってきた。
「待たせたな、お前も飲むか?」
「俺、未成年ですって」
「いいじゃねえか、黙ってりゃバレねえって」
「オーナー……山谷くんをろくでなしの道に引きずり込んじゃダメですよ」
東田さんの奥さんがビシッと注意する。
「お前が酒に付き合ってくれりゃ、山谷に酒勧めたりしねーよ」
「まったくこの人は……ごめんね山谷くん、ジュースでいい?」
「あ、ありがとうございます」
なんで東田さんに、こんな常識人の奥さんがいるのか不思議でならない。
奥さんはジュースを俺の前に置き、「ごゆっくりー」と奥へ消えた。
「で、聞きたいことって何だ」
東田さんは俺に向き直り、ウイスキーをストレートで煽る。
「竹永 宏輝って知ってますか?」
叔父の名前を告げ、東田さんの返事を待つ。
東田さんは遠い目をしながら、懐かしい名前に微笑んだ。
「お前、なんでその名前を?」
「俺の叔父なんです」
東田さんが驚きで目を見開く。
「……マジか」
「はい、俺の叔父であり……師匠みたいなもんですね」
「そうだったのか、宏輝の甥っ子だったのかお前……」
しばらく東田さんは目を瞑る。
やがて、手に持ったウイスキーをあおり、俺に向き直った。
「あいつがこっちにいた頃、宏輝と一緒にバンドやってたんだ」
「そう、だったんですね……」
「あいつはすごかったぞ、家に遊びに行ったらずっとギター弾いてたし、洋楽聴き始めてから英語だけは成績良くなってたしな」
東田さんの視線の向こうに、今よりもっと若い頃の叔父が笑っているような気がした。もう一度目を閉じ、東田さんは語る。
「東京に、一緒に行こうって誘われたんだけど、俺は行くって言えなかった。東京のステージで、宏輝と背中を合わせてギターを弾けるほどの才能は、俺にはなかった」
「その時この人、『俺じゃダメなんだ、宏輝の夢に俺はいちゃいけないんだ』って泣きついてきてね、それから3日間、ずっと私の部屋にいたの。ずっと泣いてた」
いつの間にかカウンターの対面に、東田さんの奥さんがお酒を持って立っていた。
「恥ずかしいからやめてくれ、小夜。仕方ねえじゃねえか、俺のギターはプロじゃ通じねえ、それは自分が一番よく分かってたんだよ」
胸の奥に、痛みが走る。
俺も同じだ。
ギターが大好きで、ずっと弾いていたいと思うほどに音楽に恋焦がれ、だけど自分の小さな世界の中ですら、目の前にはたくさんの天才たち。自分より上手いギタリストばかりだ。
自分に才能がないなんてことは、自分自身が一番よく理解している。きっと俺も、東田さんの立場に立った時、『一緒に行こう』とは言えない。
練習を重ねても、弾けないフレーズが弾けるようになっても、次にまた弾けないフレーズが顔を出す。
いつになったらなんでも弾けるギタリストになるんだろう。先の見えない真っ暗な道を、それでもここまで歩いてきた。
ふと周りを見ると、俺が弾けないフレーズを当然のようにさらっと弾けて、初めて弾く曲をすぐに弾けるようになるギタリストだらけ。
どうして俺は天才になれないんだろう。
悔しい。
妬ましい。
誰よりも上手くなりたい。
天才じゃないから、天才たちよりも長く弾かないと、上手くなれない。
「でもな、俺にも宏輝に勝てるものがあった。それが音響だったんだ」
「だから今、ここで空間を支配してると」
「そういうことだ、確かにプレイヤーとして輝きたいって気持ちはあった。でも俺にはそれが出来ない。だから、プレイヤー達を活かすことも殺すこともできる、そういう裏の支配者みたいなことがしたくなったんだ」
「じゃあ、もうプレイヤーとして、プロへの憧れは無くなったんですか?」
少し失礼かもしれないが、どうしても答えを聞きたくて、東田さんに投げかけた。
「なれるなら今でもなりてえさ。元々俺は目立つことが好きだからな」
「それはまあ、分かります」
「だろ? だけど俺には何もなかったんだ。そんな俺に、音楽は居場所を与えてくれたんだよ」
分かる。
俺もそうだから。
何もない人間だったから。
音楽はそんな何者でもなかった俺に、居場所を、何者かになれる術を与えてくれた。
「まあそれはそれ。今の俺はライブハウスのオーナーとして、居場所を与えてくれた音楽って存在に、恩返しをしてるみたいな感じだな」
照れくさそうに笑いながら、東田さんはウイスキーをあおった。
プロになりたいのか? ともし今問われたとしたら、なりたい、と答えられるか。
答えられる、とは思う。答えるだけなら。
ただ、どうやってプロになるのか、それまでの生活はどうするのか。
将来何になりたいか、なんて、幼稚園の頃描いた絵が最初で最後だ。
あの頃の俺はりんごが好きで、りんご屋さんになりたかった。その絵にはりんごを手に持って楽しそうに手を広げる俺の姿。
でも、成長するにつれてそんな仕事は無理だと気がついた。
高専に入学したのは音響を学ぶためだった。あの頃はただ好きで、学びたいという気持ちだけでここに来た。
だけど、その先の将来で、音響を仕事にできるのか。
正直そんな自信はない。
自分が何者で、何をして人生を過ごしたいのか。
真面目に考えたことなどなく、ただ学生というモラトリアムの中で、自分の憧れを追い続ける今が全てだった。
「そういや山谷は、高専卒業したらどうしたいんだ?」
その問いかけに、俺は何一つ答えられなかった。




