5-10
「──うん、わかった」
電話を切り、ため息をひとつついた。
「選ばれない月は、太陽を閉じ込める──そういうこと、だったんだ……」
高専祭前日。
体育館ではステージ設営が完了し、リハーサルが始まろうとしていた。各バンドに割り当てられた限られた時間の中で、プロの耳と技術を使って音響空間を構築する、最も重要な日だ。
「16時から、森山バンドのセッティング開始。16時20分から音出しです」
体育館の中央に陣取ったオーディオの先輩が進行状況を確認する中、俺はLunarとエフェクターケースを抱え、体育館のステージ下で待機していた。
だが、自称主役である森山が、いつまで経っても姿を現さない。
痺れを切らしたベーシストの先輩が、何度も森山の携帯に電話をかける。しかし、何度呼び出しても応答はない。数時間が経過し、オーディオ部の部員が
「森山バンドの時間は過ぎてます。これ以上待つようなら次のバンドが入ります」
と告げに来た時、やっと電話が繋がった。
先輩がスピーカー通話で「もしもし森山先輩! 今どこに──」と言いかけるのを遮り、受話器の向こうから、女の笑い声と共に苛立った森山の声が響いた。
「あ?うるせえな、誰かと思えば。おいヘボベース、俺の貴重なプライベートを何だと思ってんだよ。邪魔」
「あの先輩! リハーサルの時間迫ってるんですよ!! 早く来てくれないとセッティングが……」
「森山くーん、誰からー?」と女の声が聞こえ、森山が「あぁ、下僕から電話」と答えるのが聞こえる。
「俺はな、天才だからリハなんて必要ねえんだよ。童貞のお前らと違って女と出かける約束があるから、セッティングとか雑用なんてもんはお前らでしっかりやっとけ。じゃあな」
一方的に電話が切られた。
そんなふざけた会話の一部始終が、スピーカーから余すところなく体育館の全員に共有された。
「……マジで、いい加減にしてくんないかな」
「しょうがねえって。下手に言い返したら何されるか……」
ドラムとベースの先輩が吐き捨てるように愚痴をこぼすが、誰も森山に直接文句を言う度胸はない。
それは俺もだ。面と向かって文句を言えない時点で、先輩たちと同罪。
重苦しい空気が漂う中、俺は黙々と機材をアンプに繋ぎ、足元のセッティングを進めていた。誰に文句を言ったってリハーサルの時間は来てしまった。だったら、与えられたことをこなすしかないんだから。
そう、怒りなんて、とっくに通り越している。
本番に森山が来なければいいのにとさえ思っている。
その方がむしろ好都合だ。
それに。
森山がいない今なら、誰の邪魔も入らずに秘策の準備も根回しもできる。
機材の配線が終わり、GTS-3の隣に置いたルーパーを踏み込み、クリーントーンでドライなカッティングを1フレーズ弾いた。
スイッチから足を離すと、俺がギターから手を離しても、アンプからは寸分の狂いもない正確なカッティングが鳴り続ける。体育館の空間に反響する自分の音を確かめながら、俺はギターをスタンドに置き、客席の最後方に組まれた巨大なPA卓へと向かった。
ボサボサの髪に無精髭を生やし、口に火のついていないタバコを咥えた気怠げな男──東田さんが、ミキサーの前に座っていた。
「お久しぶりです東田さん。今年もよろしくお願いします」
「おう、山谷。 ……お前、今年は森山のバンドで出るのか。あんなのとバンドやってもいいことないぞ」
「それはまぁ……俺も不本意というか、いろいろあって」
東田さんはタバコの煙を吐き出しながら、こちらに向き直る。
「それでどうした、今年もセッティングのオーダーか?」
「はい、明日のセッティングについて、相談したいことがあって──」
話は、昨日の夜に遡る。
「──コーちゃん、久しぶり」
「おう真太郎、1年ぶりか。変わりはないか?」
「うん、みんな元気。ちょっと聞いてほしいことがあって」
俺は、森山バンドの惨状を愚痴混じりに吐き出す。
「──そうか。で、お前はどうしたい?」
「アイツの音を──俺の制御下に置きたい。いや」
そんなお利口さんな答えじゃない。
「頭から押さえつけて、屈服させて、支配したい──」
俺の本音を聞いた叔父は、ふーっと大きく息を吐く。
「真太郎。お前、夏に俺の家から帰る時、俺がギターケースに突っ込んだメモ……覚えてるか?」
「それって……あれ?」
俺は跳ね起き、ギターケースのポケットを漁った。
あった。四つ折りにされたルーズリーフ。
そこには、あの時中二病だと笑い飛ばした、謎のポエムが書かれている。
『選ばれない月は、太陽を閉じ込める』
「……うん、覚えてる。これ、一体どういう意味なの?」
俺が尋ねると、叔父は低く笑った。
「これは運命としか言いようがないんだが……Lunarって名前の意味、真太郎は考えたことあるか?」
「え? SIONのギターがその名前だから……」
「真太郎、月ってのはな、自らが光っているわけじゃない。太陽の光を反射することで、月は輝くんだ」
「それ、理科で習った」
「そう。月は太陽の光──ボーカルやリードギターみたいに、自分から光を放って空間を支配できるやつの輝きがあって初めて輝く。つまりだ、裏方でアンサンブルを支えるバッキングは、リードが強ければ強いほど輝きを増す』
俺は、息を呑んで叔父の次の言葉を待った。
「だがな、真太郎。月がただの背景だと思うな。太陽がデカすぎて、周りを焼き尽くすような暴君なら……月であるお前が、その光を覆い隠せ。太陽の光を、月の影に閉じ込めるんだ」
「コーちゃん、それって……」
「そう、日食《Eclipse》」
「エクリプス……俺が、森山の音を……閉じ込める?」
「真太郎にはもう、それができるだけの耳と、知識があるはずだ。ステージの上でボリュームを絞られたくらいで諦めるな。お前が組み上げる月の牢獄に、暴力的な輝きを閉じ込めてやれ」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の脳裏に、体育館の最後方に鎮座する巨大な要塞と、無精髭の男──東田さんの姿がフラッシュバックした。
「……コーちゃん。ありがとう、俺、やってみる」
「それと、PAは誰がやってるんだ? 学生?」
「あー、外部のエンジニアさんで、東田さんって人」
「東田、今もやってるのか。じゃあ心配ない、全部ぶつけて相談したらいいさ」
だから、昨日叔父と話したことを、東田さんに投げかけた。
一通り話し終わってから、持参した手書きの周波数帯域のメモを、PA卓の上に広げる。それは、練習のたび全員の音を聴き、分析し、研究し尽くし、今日まで必死で組み上げた、全楽器の周波数のパズル。
「俺のギターの音はコンプ感が強くてフラットです。なので、卓側でスネアとぶつかる250Hz付近を少し削ってください。あと、ベースとバスドラムの帯域を邪魔しないよう80Hz以下をローカットでバッサリ切ってください。
それから……森山先輩のリードギターとぶつかるプレゼンス付近、5kHzから10kHz以上も、思い切ってシェルビングで削ってください。あの人のドンシャリ設定、ハイは全開に振ってるんで、俺がそこを出してもノイズを増やすだけです。
……その代わりにお願いしたいんですが、ボーカルの抜けと、ギター、ベースのうねりを融和させるための中音域だけは絶対に空けておいてください」
東田さんはミキサーのツマミに乗せていた手を止め、じっと俺の顔と、手元のメモを交互に見つめた。
「……あのバカご自慢の汚ねえ音から抜け落ちた中音域の穴に、自分の音をハメ込むってことか──去年よりオーダーの精度も上がってるし、やっぱお前、ただの高校生じゃねえな」
「高専生です」
「そういうことじゃねえよ」
東田さんは短く笑い、俺のメモを指で弾いた。
「よし、話は分かった」
「それともう一つ、これを森山の側に忍ばせておくことはできますか?」
東田さんは目を細め、俺が取り出したものを見つめる。
「……お前、これ、どうするつもりだ」
「保険です。もし、これを使う事態になったら間違いなく森山はキレます。だから、できることなら使いたくはないんですが……」
東田さんは少し考え、俺の手から保険を受け取る。
「おい、こんな小細工、誰から教わった」
「うちの叔父です。長いこと音楽やってるんですよ」
「そうか、まあ了解だ、あくまで保険として用意だけしておく。……それと山谷、お前この後暇か?」
東田さんは新しいタバコを咥え、ライターで火をつける。
「え? あ、はい。リハのセッティング以外は」
「じゃあ、ちょっと手伝え。スピーカーの回線チェックと、ついでにモニターのチューニングも教えてやる。……プロの現場の音作り、知りたいだろ? お前は耳がいいみたいだし、死ぬほど勉強もしてるしな。お前の努力を買って、特等席で見せてやる」
知識も技能も分からない、ただの高校生にいきなり機材を触らせるほど、プロの世界は甘くない。
だが、俺が提示した理論と思い描く音の形は、東田さんの心を動かすに十分な資格だったらしい。
それからの数時間、俺は東田さんの助手として体育館を駆け回った。
巨大なスピーカーから放たれるピンクノイズを聞きながら、プロがどうやって空間の特性を掴み、イコライザーを補正していくのか。その鮮やかな手際を、俺は一言も聞き漏らさぬよう、見逃さぬよう、すべて記憶に焼き付けた。
(……間違ってなかった)
プロの現場を目の当たりにしたことで、俺の中の積み上げてきた理論と実践が、少しずつ輪郭を現しはじめた。
明日、森山はいつものように自己中心的な音で、鼓膜をつんざくような高音と下品な低音を撒き散らすだろう。あんな良く出来たアンプから、どうやったらあんな下品な音を出せるのか不思議で仕方ない。
でも、そんなことはどうでもいい。
俺には積み上げてきた実力がある。後ろには東田さんがいる。
そして、もう一つの武器も用意した。
森山が俺の音を背景だと言うのなら。俺は、奴の抜けた帯域を完全に支配し、誰の耳にも心地よい完璧な背景になってやる。
だけど、本番で森山が調子に乗って暴走した時は。
森山の音は、俺が──




