5-9
──森山の音をどうにかしないと、演奏が破綻する。
地獄のようなスタジオ練習から解放され、俺は自室のベッドに倒れ込んだまま、暗い天井を睨みつけていた。
森山のあの、異常なまでに膨れ上がった中低音の濁流。それを「俺の機材とエフェクターだけ」で相殺し、アンサンブルを保つことは物理的に不可能だ。
ギターの音が一番美味しく響く中音域、そこはボーカルの声が抜ける生命線でもあり、ベースの輪郭が際立つ場所でもある。だからこそ、バンド全体でパズルのように隙間を分け合い、緻密に棲み分けを行わなければならない。
それを、あの男は自分のクワドロアンプのツマミをフルテンにすることで、無神経に全てを塗り潰したのだ。
奴は自分の音が大きければ大きいほど正解だと思い込んでいる。俺が奴のアンプのツマミを勝手に絞れば、その場で殴られるだけだ。
何か方法はないか。
俺が積み上げてきた音響の知識の中に、あのエゴの塊を封じ込める手立ては……。
いくら頭を回転させても、重苦しい「手詰まり感」だけが募っていく。
このまま本番を迎えれば、森山は去年の高専祭のように、ただの不快な騒音を体育館中に撒き散らし、観客を絶対零度に冷え込ませることになる。
しかし、どれだけ考えを巡らせたところで、せっかく来てくれた人たちに、とても聴かせられない音をお見舞いする最悪の未来しか想像できない。
いよいよ手詰まりだ。
その時、机の上に放り投げていたPHSがブルッと震えた。
画面を見ると、『武田』の文字。
『アンタ最近バイトにも出てないじゃん。生きてんの?』
素っ気ない、でも少しだけ心配しているような短い文面。
森山のスタジオ代を稼ぐために最近はシフトを増やていたが、ここしばらくスタジオ練で精神がゴリゴリと削られてしまい、バイトを休んでしまっていた。
俺は思わず小さく息を吐き出し、ベッドに寝転がったままキーを打った。
『生きてるけど、バンドがヤバい。今回はマジで手詰まりかも』
送信して数秒後。すぐに返信が来た。
『アタシ今からPeaceful行くから来たら? 今回もごちそうさまです!』
……奢らせる気満々じゃないか。
だが、今の俺には、誰かにこの息苦しさを吐き出したかった。音楽のことなんて全く知らない武田だからこそ、かえって気が楽になるかもしれない。
俺は重い体を起こし、パーカーを羽織って夜の街へと自転車を走らせた。
ファミレス『Peaceful』に到着すると、窓際のボックス席で、すでにチョコレートパフェをつついている武田の姿があった。
今日は私服のようだ。相変わらず明るい金髪に、今日はポニーテールか。
「おっそ。はいこれ、ごちそうさまー」
「呼び出しておいてそれかよ。……まぁ、今日は愚痴聞いてもらうから払うけどさ」
俺が向かいの席にドカッと座ると、武田はパフェの長いスプーンをくわえたまま、こちらを見つめて言う。
「で、生きてるか死んでるか分かんないくらいヤバい手詰まりってどうしたの? いつか話してた嫌な先輩にまた絡まれてるとか?」
「すげーな武田、正解……絡まれてるっていうか脅されて、奴のバンドでギター弾かされてるんだよ。金谷たちを盾にされて」
俺はポツポツと、この数週間の地獄のようなスタジオ練について語った。
森山の圧倒的なエゴ、音のバランスを完全に無視した爆音、そして俺が「お前は俺の背景になれ」と、ギターのボリュームをゼロに等しく絞られたこと。
自分がいくら「周波数の棲み分け」を研究してきても、数十万の機材から放たれる圧倒的な音量という暴力の前では、俺の理論なんてただの机上の空論でしかなかったこと。
「俺……結局、何もできないんだ。機材の暴力と権力の前じゃ、引く勇気も、完璧な音作りも、クソの役にも立たなかった。明後日の本番はただ、あいつのノイズの横で、誰にも聞こえないギターを弾いてるフリをするだけだよ……」
情けなくて、声が震えた。
武田は黙って俺の愚痴を聞いていた。
パフェのグラスについた水滴を指でなぞりながら、ふっと短く息を吐き出す。
「背景ねぇ……アンタ、それでいいわけ?」
「よくないけど……どうしようもないだろ。ステージの上じゃ、声がデカくて機材が高い奴が一番強いんだ。俺の安ギターじゃ太刀打ちできない」
俺が自嘲気味に笑うと、武田は呆れたように肩をすくめた。
「あのさ、山谷。アンタ、いつもより闇深いよ」
「は?」
「文句だけは一丁前の金持ちが強いって、それ本気? アンタのギターはそんなゴミみたいな世界で鳴ってるわけ?」
「そんなことは……いや、うーん……えっと……」
「うだうだうっさいなあ。あのね、アタシら素人からしたら、ステージの上のアンプ?か何かがどうとか、そんなことさっぱり分かんない。アンタが足元の機械をカチャカチャ踏んでるのも、かろうじて音が変わったってこと以外、何やってるかさっぱりだし」
「そ、そっか……」
「ウチらに聴こえてんのは、あの体育館の端っこにある、デカいスピーカーから出てくる音だけなんだから。……ステージの上でどんだけデカい音出してようが、結局はお客に届く音がアンタらの『全部』でしょ?」
──ウチらに聴こえてんのは、あのデカいスピーカーから出てくる音だけ。
その言葉を聞いた瞬間。
俺の脳内に、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「デカいスピーカーからの音……客席に届く音……」
「そうだよ。だからさ、ステージの上が無理なら、そっちのデカいスピーカーの方で、その先輩の音をどうにかしちゃえばいいじゃん」
その言葉は、俺の中で凝り固まっていた思考を粉々に打ち砕いた。
客席に届く音。
つまり、PA(音響機材)を通して出力される外音。
中3の文化祭で、俺の音が誰にも届かなかった時、叔父が俺にアンプの横へ移動させ教えてくれた言葉が鮮明に蘇る。
お前はステージの上で、自分専用の特等席で「自分の音」に酔ってただけなんだよ。客席にどう音が飛んでいくか、ミリも想像してなかったわけだ
PA《音響機材》を通した外音のコントロール……空間の帯域を支配しろ
そうだ。
森山は今、かつての俺と全く同じ罠にハマっているんだ。
アイツは自分のアンプの前という特等席で、自分だけが気持ちいい爆音に酔いしれている。
客席にどう音が飛んで、どれだけ濁って澱んでいるかなんて、これっぽっちも考えていない。
俺はずっと、ステージ上で森山の中音とどう棲み分けるか、それしか考えていなかった。
自分の足元のエフェクターと、自分のアンプ。その小さな世界の中で完結しようとしていたから、手詰まりになっていたんだ。
……って、なんで気付かないかなあ! ZERO SOUNDの時はあれだけ外の音まで作り込んでたのに!!
そうか、森山の暴君ぶりに萎縮して、視野が狭くなっていたんだな。
よし、ここから気を取り直して考えよう。
武田の言う通り、観客が聴いているのはPAスピーカーからの外音。
明後日の高専祭のPA卓には、プロのエンジニアである東田さんがいる。
外音は、東田さんと結託すれば完全に支配できる。
だが、問題はそれだけじゃない。
東田さんがPA側で森山の音をいくら絞ろうとも、ステージ上の森山のアンプから直接フロアに放たれる爆音がデカすぎるのだ。
あれを止めなければ、体育館の壁に反射して巨大な濁流となり、結局は空間が崩壊する。
アンプからの音を止めるには、どうすればいい?
森山に気づかれず、本番中にあのアンプから音を出させなくする方法……。
……物理的に、アンプから切り離せば……?
そうだ、あれがある。
本番中、森山の音が暴走した瞬間に──
そうすれば。
「……武田」
「ん? なに、急に真面目な顔して」
「ありがと! 可能性が見えた!!」
立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。
「ちょ、近い近い! 山谷、落ち着けってーー!!」
「あー悪い! パフェもう一個だな!! どれでもいいから!」
「言ってない! パフェのことなんて1ミリも口にしてないって!!」
可能性は見えた。
しかし、本当にそれでいいのか。確認しないとな。
「じゃあお金はここ置いとくから! ほんとありがと武田!!」
「あ、ちょっと山谷! もう帰るのーーー!?」
武田の声を背中に受けながら、俺は財布から千円札を数枚テーブルに叩きつけ、ファミレスを飛び出した。
心臓が早鐘を打っている。
冷たかった絶望には、小さな反撃の種火が灯り始めていた。
自転車を全力で立ち漕ぎし、家に帰り着いた。
部屋に駆け込み、ギターケースのポケットの奥深くからいつかのメモを取り出した。
夏休みに東京へ行った時、叔父がこっそり忍ばせていたメモ。
『選ばれない月は、太陽を閉じ込める』
俺はずっと、この中二病くさいポエムの意味が分からなかった。
だが今、武田の言葉をヒントに導き出した策こそが、このポエムの答えになるのではないかと思い始めていた。
俺はPHSをポケットから取り出し、すぐに電話をかける。
相手は叔父。
この言葉を書いた本人だ。
数回のコールの後、紫煙の匂いが混じったような、気怠げな声が耳に届く。
「真太郎か、どうしたこんな夜更けに」
「夜分遅くにごめんコーちゃん。どうしても確認したいことがあって──」




