4-10
森山の悪影響を排除するため、何の憂いもなく自分たちの音を追求するための「外部有料スタジオ」での練習。
それは俺たちの精神衛生上、これ以上ない生存戦略だった。
だが、外部スタジオは当然ながらお金がかかる。学生のお財布には、数時間のスタジオ代と交通費も大きく響く。割り勘とはいえ、痛い出費であることに変わりはない。
「いらっしゃっせー……何名様っす、ですかぁ……」
「お冷や、お持ちしましたぁ……」
俺が1年の頃から働いているファミレス『Peaceful』。
今そのフロアには、死んだ魚のような、いや、深海魚のような虚ろな目をして接客をする金谷と鈴森の姿があった。
スタジオ代を稼ぐため、俺の紹介で短期バイトとして無理やりねじ込んだのだ。
ほら1年ズ、もっと元気出して。そんな顔してお客様の前に出るんじゃないよ。
別に彼らが接客に向いていないとか、人間が嫌いとか、そんな理由で酷い顔になっているわけではない。
とある常連の存在が、彼らの精神を容赦なく削っているのだ。
「金谷! アタシのお冷グラス空いてんだけど! はやくおかわり!」
「ヒィッ! ただいまお持ちするっす先輩!!」
「っす、じゃなくて、です! 言葉遣いがなってないぞ!!」
「もう……いっそころして……」
言ってることは何一つ間違っていないから、俺もフォローできない。
がんばれ金谷。
「あ、ついでにポテト追加ね! ドリンクバーも新しいの汲んできて! メロンソーダとカルピス混ぜたやつ!」
「先輩……ドリンクバーはセルフサービスで……」
鈴森、お前が100%正しい。そんな無理難題に屈する必要はないぞ。
「そうなの? じゃあ山谷、メロンソーダおねがーい」
……鈴森、もっとキツく言えよ全く。
そう、客席にはあの『地獄の合コン』を取り仕切った武田が、常連として君臨しているのだ。あいつ、俺たちのシフトが入ってる日を狙って来てないか? なんで知ってんの? 誰かリークしてる?
「山谷ー、メロンソーダまだー?」
うっさい、ここはお前の家じゃないぞ!
こんな調子でトラウマを刺激されながらも、時給という名のスタジオ代のために涙ぐましい努力を続ける後輩たち。
「あの子たち、今日もこき使われてるねえ……山谷君、助けに行ってあげたら?」
「……店長、俺は厨房ですから。今日は一歩もここから動きません。絶対に」
俺は厨房の奥でハンバーグをひっくり返しながら、そっと手を合わせて見守っていた。お前らの犠牲は、絶対に極上の音で報いてやるからな。
あと武田、メロンソーダは自分で取りに行って。厨房の前で待たれても俺、チキンステーキ焼いてるから相手できないって。
そんな調子でバイトに精を出し、資金問題はクリア。ついに初めての外部スタジオでの練習日となった。
重い防音扉を開けると、ひんやりと冷房の効いた快適な空間が広がっていた。無骨な機材が整然と並ぶ、バンドマンにとっての聖域。
何より、隣から鼓膜を破るような森山の理不尽な爆音が飛んでこないというだけで、ここは天国だった。ここなら腰を据えて音作りができそうだな。
「すげえ……! アンプが全部まともですよ先輩! ツマミがひとつも取れてない!」
「エアコンが冷たいっす! 部室の生ぬるい風とは大違いだ!」
はしゃぐ後輩たちを横目に、俺は早速全員のアンプのセッティングに取り掛かった。
東京の叔父から授かった『引く勇気』の実践。
だが、俺が最初に指示した音作りに、後輩たちは露骨に不満顔を浮かべた。
「えっ……山谷先輩、俺のベース、低音の『芯』の部分削るんすか?」
「俺のギターも、こんなに中音域を下げたら……なんか音がペラペラで、ロックっぽくないというか、ダサくないっすか……?」
自分のアンプのセッティングを変えられた金谷と鈴森が、不満を垂れながら音を鳴らす。確かに彼らの言う通り、楽器単体で聴けば、迫力不足のスカスカな音だ。ロックバンドをやるなら、誰だって腹に響くような重低音と、分厚いギターの壁を作りたい。それが初心者ならなおさらだ。
「騙されたと思って、いいからこれで一回合わせてみて」
「えぇー……」
「ほらほら、騙されたと思ってさ。……じゃあ吉田先輩、準備いいですか」
マイクスタンドの前に立つ吉田先輩が、小さく頷く。
三谷先輩も準備はできた、とばかりにハイハットで4カウント刻んだ。
全員の音がスタジオ内に放たれた。
最初は、金谷が「ペラペラだ」と言った通りの頼りない音だった。
しかし、そこに吉田先輩の声が乗った、その瞬間──。
「……ッ!!?」
弾きながら、金谷と鈴森がビクッと肩を震わせたのが見えた。
部室ではギターやベースの音圧に埋もれがちだったボーカルが、今日は全く違う。
俺が少し大げさに空きスペースを作った、ハイミッドの空間。そこはまさに、女性特有のハイトーンである吉田先輩の歌声が一番美しく響き、抜けるための帯域だった。
俺たちが空けた帯域の空間を、吉田先輩の天使の歌声が一直線に突き抜け、耳に鮮烈に突き刺さってくる。
それでいて、ドラムのキックとベースは低音域を譲り合ったことで綺麗に分離し、薄くしたはずのギターもアンサンブルの中では信じられないほどの立体感を持って響いていた。
全員の音がパズルのピースのようにカチリと噛み合い、バンド全体が一つの巨大な生き物のように躍動する。
曲が終わり、最後のシンバルが鳴り止んだ静寂のスタジオで。
後輩二人は、鳥肌の立った両腕をさすりながら、信じられないものを見る目で俺を見た。
「な、なんすか今の……! 姐さんの声が、頭の中に直接響いてくるみたいだったっす!」
「俺たちの音、あんなにペラペラだったのに……全体で合わさると、めちゃくちゃ分厚い……!」
俺は、興奮冷めやらぬ二人に笑いかけた。
「これが『引く勇気』、そして『周波数の棲み分け』だ。お前たちの音はダサくない。最高のアンサンブルを組み上げるための、完璧なパーツだよ。だけど」
「え、俺、なんかミスったっすか?!」
「いやいや、金谷はミスなく弾けてたよ。むしろ俺の音作りがね。もっと詰めて調整していくよ」
俺のその言葉に、一番感銘を受けたのは金谷だった。
数日後の練習日。金谷はMEF-30を曲の間に調整し、自分で音のセッティングを始めたのだ。
「先輩! イコライザーの使い方、教えてください! これで帯域をもっと極めて、姐さんのための道を俺自身でも作るっす!」
まさか高校1年生で、分かりやすい歪み系のセッティングよりも先に、地味なイコライザーを触るとは。さながら弟子が誕生したような気持ちになったが、もしかしたら少しだけ道を間違えさせてしまったかもしれないと、ほんの少しだけ罪悪感を覚えた。すまん金谷、歪み系のセッティングも教えるから……。
こうして、スタジオでの練習はかつてないほどの充実感に満ちていた。
マイクの前に立つ吉田先輩は、もはや引っ込み思案の文学少女ではない。その細い体からは想像もつかないほどの声量と表現力で、悪魔すら平伏すような、絶対的なロックボーカリストとして君臨していた。
歌っている時の彼女は、最高にカッコいい。
金谷も鈴森も、「姐さん、一生ついていくっす!」と完全に心酔しきっている。
しかし。
そんな極上の時間は、曲が終わった瞬間に無惨にも打ち砕かれる。
「……剛くん、喉がチクチクするぅー」
「大丈夫か咲希。ほれ、のど飴いるか?」
「うんっ。剛くん、はい、あーんして……えへへ」
「はい、あーん。……よし、いい子だー」
「えへへ……剛くんの手、おっきくてあったかいねぇ」
マイクを置いた一秒後には、致死量の甘ったるい領域が展開される。
「……さっきの姐さんを、返して……」
ロックの魔法が解け、金谷と鈴森が白目を剥いてスタジオの壁際に崩れ落ちる。
先程までの圧倒的なカリスマボーカルはどこへ行ったのか。ただの彼氏に甘えるだけの、糖度1000%の生き物がそこにいた。
密室空間でのそれは、部室の時の比ではない。逃げ場のない防音スタジオの中では、二人の甘い吐息すらもクリアに響き渡るのだ。
「咲希、今日はこの後ファミレス行くか?」
「剛くんと一緒ならどこでもいいよぉ」
「山谷ー、お前のバイト先で飯食おー」
「いやですよ、そんな最終回後のラブコメみたいな二人見ながらご飯なんて」
「お! 山谷くんラブコメ読むんだぁー。今度おすすめ貸そうか?」
あなた、“普通の”ラブコメ持ってるんですか……?
「男子と女子が恋するやつでお願いします……」
彼女のいない俺に、この光景を至近距離で見せられるのはほぼ拷問だ。
精神の削られ方で言えば、森山先輩の爆音とは別ベクトルで致死量に達している。
「……先輩」
壁際で崩れ落ちていた鈴森が、焦点の合わない目で呟いた。
「俺……もうベース弾くのやめて、出家しようかと思います……山奥で木魚でも叩いて暮らしたいんです……」
「おい鈴森、耐えろ! 高専祭が終わるまでは逃げるな!!」
「うう……至近距離のラブコメ、こわいです……」
鈴森は、床に倒れた。
金谷は……お、エフェクターのセッティングか。いい心がけだな。
だから、なんか顔がヤバいことになってるのは見なかったことにしておくぞ。
極上の音楽と、精神を削り取る致死量の甘さ。
その過酷な落差に揺り動かされながら、俺たちはひたすらに演奏の粗を潰し、音のパズルを組み立てていった。
スタジオ代のためのファミレスバイトも、全力での演奏も、致死量のラブコメカップルも、すべてはこの音を完成させるため。
……最後の一つはいらないけど。
重ねた時間は、積み上げる練習の数だけ確かな実力を俺たちに与えながら過ぎ去っていく。
気がつけば、セミの鳴き声は秋の虫の音へと変わり──。
ついに、高専祭が幕を開ける。




