3-11
少しだけ軽くなった心で、俺は空になったコップを揺らしたその時。
「山谷」
背後から、静かに名前を呼ばれた。
その声には、いつもの無邪気な響きは微塵もなかった。
どこか張り詰めたような、いつもの余裕なんてどこに置いてきたのかと思うほどに硬質な声。
俺が振り返ると、そこには久光が立っていた。
客席で腕を組んでいた時と同じ、一切の感情を読み取れない無表情のまま、俺を真っ直ぐに見据えている。
「久光、来てくれてありがと」
俺が努めて平坦な声で返すと、久光は少しだけ視線を落とし、そして再び俺の目を射抜いた。
「ちょっと話せる?」
初夏の生ぬるい風が、俺たちの間をすり抜けていく。
遠くで響くお祭りの喧騒や、吉田先輩を囲む笑い声が、急に遠くの世界の出来事のように感じられた。
完璧なピッチ、完璧なリズム。人間を排除したシーケンサーの音楽こそが至高だと言い切った、孤独な天才。その彼の目に、ミスも走るテンポも内包した、俺たちの『血の通った音楽』はどう映ったのか。
「いいよ、あっち行こう」
俺はギターケースを肩に掛け直し、久光と公園の外れに向かう。
祭りの熱気がまだ冷めやらない夜の公園の片隅で。 祭りの熱気がまだ冷めやらない夜の公園。
二人しかいない、小さな世界の片隅で、俺と久光は向き合う。遠くで響くお祭りの喧騒や、吉田先輩を囲む笑い声が、急に遠くの世界の出来事のように感じられた。
「俺たちのライブ、どうだった?」
余計な言葉はいらない。初めから本題を切り出す。
久光はしばらく足元の砂利を見つめていたが、やがてポツリと話し始めた。
「2曲目、タム回しのあと完全にテンポ走ってた。ベースは時々ルート弾き間違えてたし、あのボーカルも、声量はバケモノだけどピッチの正確さで言えばまだまだだよ」
「……」
「お世辞にも、完璧な演奏、とは言えなかったかな」
相変わらず、容赦のないトップダウン。
だが。
久光のいうことは全て事実。完璧な演奏じゃなかった。
俺にもミスは数えられるだけで4箇所あった。
何より──久光の声には、いつもの『無邪気な傲慢さ』が見えなかった。
だから今、その言葉を受けても、心は凪いだまま。
久光は顔を上げ、まっすぐに俺の目を見た。
「──完璧じゃなかった。なのに……なんで目が離せなかったのかな」
久光は続ける。
「あの最悪なPAを見た時、あー、今日のライブは終わったなーって思ったんだよ」
「わかる、俺も終わったって思った」
「でも、山谷の目は諦めてなかった」
「ステージ走り回ってアンプのツマミをいじって……あのボーカルが歌い出す直前、山谷が足元のエフェクターを踏んだ瞬間」
久光は、見えないギターのネックを握るように、空中で指を動かした。
「急に、空間の全部があのボーカルのモノになった」
「あれ、偶然じゃないよな。お前が、自分の音の帯域を削って、わざとあの声が抜ける『隙間』を作ったんだろ」
「……うん。それしか、あの最悪な環境をひっくり返す手立てがなかった」
俺の答えを聞いて、久光は小さく笑った。
笑った──そのまま、遠い目をした。
「すげえよ。俺のシーケンサーじゃ、絶対にそんなことはできない」
「……」
「機械はあらかじめ設定された完璧な音しか出せない。それに俺は、お前みたいに、その場の空気とか、他人の感情の爆発に合わせて、自分の音を瞬時に引いて『誰かのための空間』を作るなんて絶対に無理だ」
中学の頃、俺の意思を黙殺してトップダウンで全てを決めていた久光が、俺をはっきりと肯定した。
それは、久光という圧倒的な天才が、完璧じゃない俺たちが奏でる『血の通った音楽』を認めた──ように感じた。
「じゃあさ」
俺は、思わず一歩踏み出していた。
「久光もまたバンド組めはいいじゃん。あんなすげえギター弾けるんだからさ、久光の音に食らいついてこれる奴らを探して、もう一度──」
「俺は誰とも組まないよ」
久光の答えは、静かだが、絶対に覆らない鋼の意志を感じさせた。
「今日のライブを見て、はっきり分かった。……俺は、やっぱり他人のノイズを許容できないよ」
「ノイズ?」
「走るテンポも、間違えるピッチも、俺からすればただのノイズだから。いくらそこに熱狂があっても、俺の頭の中で鳴ってる『完璧な音楽』が他人のノイズで濁っていくのが、どうしても我慢できない」
久光の目は、どこまでも澄み切っていた。
そこに強がりや、逃げの感情はない。彼はただ純粋に、一切の濁りを持たない『完璧な結晶』としての音楽だけを愛しているのだ。
「他人に合わせるくらいなら、他人に自分の音楽をかき乱されるくらいなら、俺は一生、機械と一緒に完璧な音を鳴らし続ける方がいい」
俺は、それ以上何も言えなかった。
でもそれを、寂しい生き方だとは、不思議と思わなかった。
誰かと音を合わせる喜びに気づいた俺とは、ただ『音楽の正解』が違うだけ。
「お前は、お前の正解を追い求めてな」
久光はそう言って、いつもの無邪気な笑顔に戻り、ひらひらと手を振った。
「じゃあ。すげえ良いライブだったよ」
背中を向けて歩き出す久光。
その広い背中を見送りながら、俺はふと、そんな予感を抱いた。
こいつはきっと、この先もずっとこうやって生きていくのだろう。
高校を卒業しても、大人になっても、プロのステージではなく、どこかの街の片隅で。
たった一人でシーケンサーを回し、誰にも邪魔されない自分だけの完璧な音楽を、孤独に鳴らし続ける。
それは決して悲しいことじゃない。彼が選び取った、彼だけの純粋な音楽の形なのだ。
それに、時代が変われば。
そのスタイルが、異端ではなくなることも、あるかもしれない。
俺は、久光に背を向け歩き出す。
──うるさくて、不器用で、ちっとも完璧じゃない。
ノイズまみれで、愛しい仲間たちが待つ場所へ。
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第3章、最後までお読みいただきありがとうございます!
因縁に一区切りをつけ、別々の方向に歩き出す二人のギタリスト。
これからの真太郎がどんな音楽を奏でるのか、どんな音を仲間と作り出すのか。
第4章のタイトルは、『頂点を目指す者たち』。
引き続き、12時の更新をお待ちいただけると幸いです。
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