2-5
オーディオ部の先輩たちは、みんな底抜けに優しかった。
先輩たちはバイトやら掛け持ちの部活やらで毎日来てる人はおらず、ある意味日替わりでいる人が違う。
そんな中、俺はかなり出席率は高い方だったので、日替わりでセッションの相手が変わるようなものだ。
「おっ、山谷! 今日もいい音出してんじゃん!」
「お前のギターってさ、ベースの帯域を上手く避けてくれてるじゃん。おかげで気持ちよく合わせられるよ」
放課後の部室で、ドラムの先輩とベースの先輩に合わせてコードをカッティングしていると、かなりの確率で嬉しそうな声が飛んできた。
吹奏楽部のオーケストレーションやMTRでの実験で得た「周波数の棲み分け」を意識した俺のギターは、先輩たちと気持ちよく噛み合っていた。
ECLIPSEに載っているEMG-SAのパーツをくれたのも、こうやって気さくにセッションに誘ってくれるのも先輩たちだ。知識も豊富で、音響や機材の話になれば何時間でも付き合ってくれる。
(……人と音を合わせるの、楽しいな)
入学当初、人間なんかいらないなんて、悲劇のヒロインよろしく鬱々としていた俺の心も、この居心地のいいオーディオ部の空間で、音楽が好きな仲間たちの優しさに救われ、少しずつ解け始めていた。
「山谷、コーラ飲む?」
ドラムのセッティングを、大汗をかきながら終わらせたタヌ吉先輩……もとい、三谷先輩が1.5Lのペットボトルから紙コップにコーラを注ぐ。
「すみません、俺コーラ飲めないんです」
「マジ!?コーラ飲めないとかもったいないなー!」
「あーでも、コーラ味のお菓子は好きですよ!ラムネとかグミとか」
コーラとかビタミン系のジャンクな味は好きなんだ。
ただ、5歳の頃に妹が飲んでたコーラを少し拝借したところ、泣きながら悶え苦しむ事態になって以来一度も口にしていない。
そんなコーラを一息で飲み切った三谷先輩が言う。
「にしても山谷、どんどんギター上手くなってくね」
「中山先輩とか、ここにいるの上手い人ばっかりですからね。必死に練習しないと、どんどん置いてかれちゃいますから」
と、名前が出たとこでふと気づく。
「そういや、最近中山先輩見ないんですけど……忙しいんですかね」
中山先輩の名前を聞いた三谷先輩の表情に、少し影が落ちた気がした。
「あー……中山はこの時期外のスタジオによく行ってるよ」
「あ、高専祭《文化祭》のライブですか?」
「それもあるけど……」
何だろう、三谷先輩もだけど、なんか部室の空気が重い気がする。
どうしたんだろ、中山先輩。また音合わせたいのになあ。
この妙な違和感の正体は、数日後顔を覗かせることになる──
数日後の放課後。
セッションが一段落し、先輩がアンプの電源を落としながらふと息を吐く。
「山谷ほんとに上手くなったな。……あーあ、このままみんなで楽しくやれたら最高なんだけどな」
「おいやめろ、声デカいって」
先輩たちが急に声を潜め、部室のいちばん奥、壁際に鎮座する「それ」をチラリと見た。
他のアンプよりも一回り以上巨大で、分厚い黒い布がすっぽりと被せられている。
「……先輩、あれ何ですか?」
「あれは森山先輩の機材だ。絶対に触るなよ。もし傷でもつけたら、何されるか分かんねえからな」
「森山、先輩……?」
「留年しまくってて、ハタチ過ぎてんのに未だに3年に居座ってる人だよ。今年になって全然顔出してんかったけど……高専祭も近いし、そろそろ来そうだな。うるさいエンジン音が聞こえたら、すぐ機材片付けて場所空けろよ」
森山先輩。
まだ会ったことないな。でも。
先輩たちの顔に浮かんだ明らかな「怯え」と「諦め」に、俺は得体の知れない薄気味悪さを感じた。
そして数十分後、窓の外から重たいエンジンの排気音が響き、俺はその「布の中身」と対面することになる。
「おら、1年。どけ」
部室のドアを乱暴に開けて入ってきたのが、森山先輩。
この男は、部内のヒエラルキーの頂点に君臨していた。親に買ってもらった左ハンドルの外車を乗り回し、そのデカいトランクに機材と女を載せて学校にやってくる、絵に描いたようなボンボンだ。聞けば親が全国的に有名な会社の重役らしい。
森山は周囲の部員に挨拶を返すこともなく、一直線に奥のアンプへと向かい、黒い布を乱暴に引き剥がした。
現れたのは、黒いトーレックスに包まれた巨大なキャビネットと、分厚いアクリルパネルのヘッドアンプ。電源が入った瞬間、アクリルパネルの奥で真空管が熱を持ち、青いネオン管がギラギラと発光し始めた。
それは超高級真空管アンプ、『Hughes& Kettner・TriAmp』。
親の金で買ったという数十万のその機材は、周囲の安いトランジスタアンプをひれ伏させるように威圧感を放っていた。
森山が手元のギターを繋ぎ、コードをかき鳴らす。
瞬間、狭い部室の空気が物理的に震え、鼓膜を突き破るような爆音が叩きつけられた。
「あー、クソ。やっぱこの部屋狭ぇな。音が抜けねえ」
悪びれる様子もなく森山が舌打ちをする。
アンプのツマミを見て、俺は眩暈がした。完全独立4チャンネルを持つ極上のクアドロのポテンシャルを完全に無視し、最も深く歪む『チャンネル3』のみを選択。さらに高音と低音が全開に振り切られ、中音がゼロに絞り込まれた、極端な『ドンシャリ』セッティング。
吹奏楽部のオーケストレーションとMTRを使った実験で「周波数の棲み分けと重なり」を耳に叩き込んでいる俺には、それがどれだけ罪深い音なのかが痛いほど分かった。
耳に突き刺さる痛いだけの高音はボーカルの帯域を真っ向から殺し、無駄にブーストされた低音はベースの居場所を完全に奪う。狭い部室でその音は、ただの「不快なノイズの塊」でしかなかった。
「いいかお前ら。バンドってのはな、俺のような『天才』のギターを引き立たせるための背景なんだよ。調和? アホか。俺が一番目立って、一番気持ちよく弾けるのが最高のライブなんだよ」
自らの出している音が空間をぶち壊していることに微塵も気づかず、森山は青く光る要塞の前でふんぞり返って笑った。
『天才』。
その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、中学の文化祭の記憶がフラッシュバックした。
あの時、俺の作った音は決して間違っていなかった。
ただ、当時の俺は足元のエフェクターとアンプで完璧な音を作った気になっていただけで、それが客席にどう響くかなど計算すらしていなかった。自分が誰にも届かない微かな音しか出せていないことにすら気づけなかった、俺自身の圧倒的な知識不足。俺の音を殺したのは、他でもない俺自身だったのだ。
久光は、純粋に自分の音に陶酔しつつも、確かな技術を持つ「無自覚な天才」だった。
じゃあ、目の前で偉そうに笑っているこの人はなんだ?人を不快にさせる天才か?
いや、違う。そんな立派なもんじゃない。才能の欠如を機材のパワーと音量だけで誤魔化し、他人の音を意図的に踏み躙ることでしか自己を保てない、ただの醜悪で肥大化した拗らせエゴイストだ。
(この音は、ただのノイズだ)
胃の奥が冷たく重くなるのを感じた。だが、反発心なんて一切湧いてこない。
相手はハタチを過ぎた大人で、親の威光を笠に威張りくさった態度で外車を乗り回すボンボンだ。中学を出たばかりの1年の俺なんて、睨まれただけで足がすくむ。森山の横暴を止める力も発言権も度胸も、俺には何一つなかった。
俺は怯えを悟られないよう、無表情のまま愛機ECLIPSEの弦をクロスで拭き続けることしかできなかった。
「あ? なんだお前、そのギター」
ふと、爆音の余韻が残る部室で、森山の視線が俺の手元に止まった。
大股で歩み寄ってきた森山は、俺の膝に乗ったECLIPSEを見下ろし、鼻で笑った。
「ECLIPSE……ってGrassRoots!? それ初心者セットの激安ギターじゃねえか。うわ、しかもよく見たらボディの裏、素人が適当に穴開けてんぞ。なんだこれ、電池ボックスか? 汚ねえ改造だなあ!」
「……あ、アクティブピックアップを載せるために、自分でザグリを……」
「ハッ! ゴミにいくら細工したって、出てくる音はゴミなんだよ。いいか?」
そう言って森山は、自分の肩から下げているギターを自慢げに叩いた。
まるで虎の模様のようにウネる極上のキルテッドメイプルに、トランス・ブルーの塗装。ボディの縁にはアバロン貝の装飾がギラギラと埋め込まれている。
「俺の腕にはな、この『SCHECTER USA』のカスタムモデルみたいな、最低でも数十万するハイエンドじゃねえと釣り合わねえんだよ。お前のゴミギターなんか、置いてるだけで俺の部室が貧乏くさくなる。さっさと捨てろや」
森山は俺のECLIPSEを靴のつま先でコンと軽く小突くと、
「ま、仕方ねぇか。金もなさそうな顔してるガキだし。せいぜいゴミカスみたいなギターでペロペロ鳴らしてな」と嘲笑い、再び自分の要塞へと戻っていった。
「……はい」
俺は引きつった愛想笑いを浮かべ、小さく頭を下げた。言い返すことなんてできるわけがない。
靴の跡がうっすらと付いたECLIPSEのボディを、俺はクロスで静かに拭き取った。
森山の言う通りだ。これは初心者用の安物ギターで、あの数十万もする『SCHECTER USA』の横に置けば、ただのゴミにしか見えないだろう。
俺だって、MTRで散々研究したとはいえ、自分の作った音が本当に「正解」のかなんてまだ分からない。ライブで証明した実績なんて一つもない、ただの1年のクソガキだ。
だけど、この無骨なザグリの奥の配線は、俺が徹夜で必死にハンダを繋いだものだ。優しい先輩たちが「余ってるから」とタダ同然で譲ってくれた『EMG-SA』が撃ち出す、あのノイズレスな波だけは絶対に嘘をつかない。……そう信じたかった。
(……別にいい。分かってもらえなくても)
オーディオ部の他の先輩たちは、みんな良い人たちだ。機材のことも丁寧に教えてくれるし、音合わせも楽しい。この部室は、俺がようやく見つけた大切な居場所のはずだった。
だけど……森山のような暴力的なエゴがトップに君臨し、誰もそれに逆らえない以上、奴がいる間だけはこの部室は息の詰まる地獄に変わる。俺のような下っ端は、他人の理不尽な爆音に怯え、愛想笑いで自分の音を殺すしかない。
俺はひたすら嵐が過ぎ去るのを待つように、黙々と弦を拭き続けた。
早く、家に帰りたい。
俺には、6畳間で待っている『銀色の箱』がある。あいつは俺のギターが安物だなんて鼻で笑わないし、理不尽な爆音で俺の音を塗り潰したりもしない。文句一つ言わず、俺の弾いた拙いバッキングをただ正確に鳴らし続けてくれる。
優しい先輩たちさえも口をつぐむしかないこの空間と違って、結局この箱と向き合う6畳間だけが、誰の足蹴にもされない俺だけの絶対的な聖域だった。




