野菜泥棒の少女
野菜泥棒の少女
「……泥棒か」
俺がそう言うと、少女はびくりと肩を震わせた。
畑の端。
雲の切れ間から差した月明かりの下で、少女は俺に手首を掴まれたまま固まっている。
年は、十五くらいだろうか。
背は低めで、髪は肩のあたりで乱れていた。
服は古く、ところどころ縫い直した跡がある。膝には泥がつき、指先は赤く荒れていた。
そして、その手には俺の畑から抜きかけた葉物が握られている。
まだ食えるほど育ってもいない、小さな葉だ。
「ち、違……」
少女は震える声を出した。
だが、すぐに自分の手元を見て、言葉を失う。
違う、と言うには状況が悪すぎる。
「いや、違わないだろ」
俺は葉物を指さした。
「畑に入って、野菜を抜こうとしていた。これを泥棒と言わないなら、何て言うんだ」
「ご、ごめんなさい……!」
少女は弾かれたように頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 盗むつもりじゃ、でも、家に食べるものがなくて……!」
「盗むつもりじゃなくて、野菜を抜くのか」
「う……」
少女はますます小さくなる。
俺はため息をついた。
怒っていないわけではない。
畑は俺が耕した。
石を拾い、土を起こし、毎朝水をやった。まだ小さな芽とはいえ、勝手に抜かれていいものではない。
ただ、目の前の少女は、どう見ても悪党ではなかった。
手首を掴んだ時に分かった。
細い。
細すぎる。
旅の途中で見た盗賊や食い詰めた傭兵とは違う。
これは、まともに飯を食えていない人間の腕だ。
俺は掴んでいた手を離した。
「逃げるなよ」
「は、はい……」
「名前は」
「ミナ……です。ミナ・バルカ……」
「この村の子か」
ミナは小さく頷いた。
「家は?」
「村の、東側です……」
「親は」
そう尋ねると、ミナは目を伏せた。
「父がいます」
「母親は?」
「……いません。私が小さい頃に」
「そうか」
聞くべきではなかったかもしれない。
だが、事情を知らないまま村長へ突き出すのも気が進まなかった。
ミナは両手を胸の前で握りしめている。
月明かりの下で見る顔は青白く、唇も乾いていた。
その時、くう、と小さな音がした。
ミナが真っ赤になる。
腹の音だった。
「……飯、食ってないのか」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫な腹の音じゃなかったぞ」
「本当に、大丈夫です。だから、その……村長さんには言わないでください。お願いします。父さんには、絶対に言わないでください……!」
ミナは泣きそうな顔で頭を下げた。
「父さん、怒るからか」
「違います!」
初めて、ミナが強く声を出した。
自分でも驚いたのか、すぐに口を押さえる。
それから、小さな声で続けた。
「父さんは、怒りません。たぶん、自分を責めます。私にこんなことをさせたって……」
その言葉で、少し事情が見えた。
貧しい。
父親はいる。
父親は娘を大事にしている。
だが、食べるものがない。
そして娘は、父に知られたくないほど追い詰められている。
面倒な話だ。
だが、こういう時に面倒だからと見なかったことにできるほど、俺は器用ではなかった。
「来い」
「え?」
「小屋に来い。話はそれからだ」
「で、でも……」
「逃げたら村長に言う」
「行きます!」
即答だった。
俺は思わず少しだけ笑いそうになった。
小屋に戻ると、炉の火を起こした。
ミナは入口の近くで縮こまり、落ち着かなさそうに視線を泳がせている。
「そこに座れ」
「い、いえ、私は……」
「立ったまま話す趣味はない」
古い椅子を指さすと、ミナはおずおずと腰を下ろした。
その姿が、今にも叱られるのを待つ子供のようで、少しだけ胸が痛む。
鍋には、昼に作った芋と豆と兎肉の煮込みが残っていた。
味は薄い。見た目も良くない。
ただ、温め直せば食える。
俺は鍋を火にかけ、硬いパンを小さく割った。
ミナの視線が、鍋に吸い寄せられている。
本人は気づいていないのだろう。
だが、目が完全に飯を追っていた。
「食え」
木椀によそって差し出すと、ミナは目を見開いた。
「えっ」
「腹が減ってるんだろ」
「でも、私、盗もうとして……」
「だから、あとで説教する。説教されるにも体力がいる」
「説教されるんですか……?」
「当然だ」
ミナはしゅんとした。
だが、椀を受け取る手は震えていた。
「いただきます……」
小さくそう言って、ミナは恐る恐るスープを口に運ぶ。
次の瞬間、目を丸くした。
そして、二口目からは早かった。
熱いのに、息を吹きかけながら必死で食べる。
パンをスープに浸し、芋を潰し、豆をすくう。
兎肉を口に入れた時、ミナの目に涙が浮かんだ。
「泣くほどまずいか」
俺が言うと、ミナは慌てて首を振った。
「違います……おいしいです」
「味は薄いぞ」
「おいしいです……温かいです」
温かい。
その言葉に、俺は黙った。
うまいでも、豪華でもなく、温かい。
それだけで泣くほど、こいつは追い詰められていたのか。
「おかわりは」
「え、でも」
「ある」
「……いただきます」
二杯目は、一杯目より少しゆっくり食べた。
それでも椀はすぐ空になった。
ミナは両手で椀を抱えたまま、深く頭を下げる。
「ごちそうさまでした。本当に、すみませんでした」
「謝るなら、まず畑に謝れ」
「畑にですか?」
「俺より先に被害を受けたのは畑だ」
ミナは困惑した顔をしたが、やがて小屋の外へ向き直り、小さく頭を下げた。
「畑さん、ごめんなさい……」
真面目にやるとは思わなかった。
俺は少しだけ吹き出しそうになり、咳払いでごまかした。
「で、事情を聞かせろ。食べるものがないと言ったな」
ミナは椀を膝の上に置き、指を握りしめた。
「うちは、武器屋なんです」
「武器屋?」
「はい。父さんが、武器を作っています。昔からずっと、この村で」
村に武器屋があるのか。
意外だった。
この規模の村なら、鍬や包丁を直す鍛冶屋はいても、武器屋は珍しい。
「村で武器が売れるのか」
「昔は、売れていました」
ミナの声が少しだけ沈む。
「この村は森に近くて、魔物が出ていたんです。村の人だけじゃなくて、近くを通る冒険者さんや、狩人さんや、護衛の人たちが父さんの店に来てくれました」
「なるほど」
「父さんは、普通の剣より、大きな武器や、魔物用の道具を作るのが得意で……」
ミナは少しだけ顔を上げた。
そこには、誇らしさがあった。
「大斧とか、分厚い盾とか、魔獣用の罠とか。大きな爪や牙を受け止めるための武器を作っていました。父さんの武器は丈夫で、壊れにくいんです」
「腕はいいんだな」
「はい!」
ミナは即答した。
その声だけは、さっきまでの怯えた声ではなかった。
父親を誇りに思っている。
それは、よく分かった。
だがすぐに、ミナの表情は曇る。
「でも、魔王が討伐されてから、魔物がほとんど出なくなりました」
「……」
「魔物がいないのは、いいことです。村の人も喜んでいます。私も、怖い思いをしなくて済むなら、その方がいいです」
ミナはそう言ってから、膝の上の椀を見つめた。
「でも、父さんの武器を買う人が、いなくなりました」
炉の火が、小さく爆ぜる。
「冒険者さんも来なくなって、護衛の人たちも武器を直すだけになって、新しい武器は売れません。村の人たちには、大きな斧も盾も必要ありません。畑を耕すには重すぎるし、家に置くには邪魔だからって」
「魔物用の武器か」
「はい」
魔物がいる世界では必要だったもの。
魔王が倒され、魔物が減れば不要になるもの。
ロイドの言葉を思い出した。
世界が救われたからといって、明日から全員が幸せになるわけじゃない。
仕事を失う者もいる。役目を失う者もいる。
たとえば、俺たちみたいに。
そして、ミナの父親みたいに。
「店は、どれくらいまずいんだ」
ミナは答えに迷った。
だが、嘘をつくのは下手らしい。
すぐに視線が泳ぐ。
「……お金は、ほとんどありません。材料の代金も残っています。父さんは、店の物を売れば何とかなるって言ってます。でも、売る相手がいなくて」
「食料もないのか」
「少しはあります。でも、父さんが私に食べさせようとするから……」
「自分は食わないのか」
ミナは黙った。
答えはそれで十分だった。
厄介だな。
腕のいい職人。
時代に合わなくなった商品。
小さい村。
売れない在庫。
減っていく食料。
魔王が倒されたことは、間違いなく世界にとって良いことだ。
だが、その良いことの影で、こうして食えなくなる者がいる。
そんな当たり前のことを、俺は考えていなかった。
自分が勇者ではなかったことばかり見ていた。
魔王後の世界で何が起きているかなんて、見ようともしていなかった。
「何で俺の畑だったんだ」
俺が尋ねると、ミナは肩をすくめた。
「村の人の畑からは、盗めませんでした」
「俺の畑ならいいと?」
「よくないです!」
ミナは慌てて首を振る。
「よくないです。本当に、よくないんです。でも、レオンさんは村の外れに住んでいて、畑も小さくて、まだあまり育ってなかったから……少しだけなら、気づかれないかもしれないって……」
「育ってないものを盗んでも腹は膨れないぞ」
「……はい。今考えると、そうです」
ミナは耳まで赤くなった。
空腹でそこまで頭が回らなかったのだろう。
「父親には言うなと言っていたな」
「はい……」
「言わないでほしい理由は分かった。だが、放っておくわけにもいかない」
ミナが顔を上げる。
「村長さんに……言うんですか?」
「今夜は言わない」
「今夜は」
「明日、お前の家に行く」
ミナが固まった。
「え」
「武器屋なんだろ。見せてもらう」
「な、なんでですか」
「話だけじゃ分からない。どんな武器を作ってるのか、何が残ってるのか、見てみないと何とも言えない」
「で、でも、レオンさんには関係ないです」
「関係ないな」
俺はあっさり頷いた。
ミナは少し傷ついたような顔をした。
だが、俺は続ける。
「関係ないが、飯を食わせた。畑にも謝らせた。ここまで聞いたら、明日から何も知らない顔をする方が難しい」
「……どうして」
「俺も暇なんだ」
「暇……」
「勇者じゃないからな」
そう言うと、ミナは困ったように眉を寄せた。
「それ、関係ありますか?」
「あるような、ないような」
「変な人ですね」
「野菜泥棒に言われたくない」
「う……すみません」
ミナはまた小さくなる。
俺は鍋の残りをもう一度温め、別の椀によそった。
「持って帰れ」
「え?」
「父親が食ってないんだろ」
「でも、そんな……」
「畑の慰謝料代わりに、明日こき使う」
「慰謝料なのに、私がもらうんですか?」
「細かいことは気にするな」
ミナは椀を受け取って、しばらくそれを見つめていた。
そして、今度は深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は震えていた。
礼を言われるようなことはしていない。
俺はただ、腹を空かせた子供に余り物を食わせただけだ。
勇者なら、もっと大きなことをするのだろう。
魔王を倒し、国を救い、皆に称えられるのだろう。
だが、今の俺にできることはこれくらいだった。
それでも。
ミナが椀を大事そうに抱えている姿を見ると、これくらいでも何かにはなるのかもしれないと思えた。
小屋の外まで送ると、夜風が少し冷たかった。
ミナは何度も頭を下げながら、村の方へ歩き出す。
「ミナ」
呼ぶと、彼女は振り返った。
「明日の朝、迎えに来い」
「え?」
「店に案内するんだろ」
「本当に、来てくれるんですか」
「飯代の代わりだ。お前の家の店、見せてもらうぞ」
ミナは目を丸くした。
それから、泣きそうな顔で、でも少しだけ笑った。
「……はい。ありがとうございます、レオンさん」
そう言って、ミナは椀を抱えたまま夜道を駆けていった。
俺はその背中が見えなくなるまで立っていた。
森の方から、夜鳥の声が聞こえる。
畑には、抜かれかけた葉が一本だけ、少し傾いて残っていた。
俺はしゃがみ込み、土を寄せて根元を押さえる。
「お前も災難だったな」
誰に言うでもなく呟く。
魔王は倒された。
世界は救われた。
けれど、その後の世界で腹を空かせている奴がいる。
俺は勇者じゃない。
それでも、明日ひとつ店を見に行くくらいならできる。
そう思いながら、俺は小屋へ戻った。




