勇者ではない事実
魔王が討たれたという知らせから、三日が経った。
本来なら今日、俺たちは魔王城の外縁にたどり着いているはずだった。
黒霧の谷を越え、魔王軍の残党を斬り伏せ、城門の前で剣を抜いていたはずだった。
俺は仲間たちを背に、魔王と対峙していたはずだった。
だが現実の俺たちは、中継都市ラグナの宿にいた。
街は三日前からずっと浮かれている。
通りには魔王討伐を祝う旗が吊るされ、酒場では昼間から祝い酒が出され、商人たちは「勇者記念」と札をつけて何でも売っていた。
世界は前へ進み始めている。
俺だけが、その流れに乗り損ねたような気分だった。
「レオン」
宿の一室で、セリアが俺の名を呼んだ。
部屋には俺たち四人が集まっていた。
丸い木机の上には、街道の地図と、ギルドから写してきた通達文が置かれている。
魔王討伐。
魔王軍主力壊滅。
各地の討伐依頼縮小。
復興支援への方針転換。
何度見ても、書かれていることは変わらない。
魔王は死んだ。
真の勇者が倒した。
俺たちの旅は、目的を失った。
「これからのことを、話しましょう」
セリアの声は静かだった。
いつものように柔らかい。
けれど、こちらを必要以上に刺激しないように気を遣っているのが分かった。
「これから、か」
俺は椅子にもたれたまま、天井を見上げた。
「魔王を倒した後のことなんて、考えてなかったな」
「お前らしいな」
ダリオが苦笑する。
「魔王を倒した後は、王都で盛大に祝われて、勇者様として飯でも酒でも食い放題だと思ってたんじゃねえのか」
「少しは思ってた」
「思ってたのかよ」
「嘘をついても仕方ないだろ」
ダリオが鼻で笑った。
ほんの少しだけ、部屋の空気が緩む。
俺も笑えればよかったが、そこまでは無理だった。
それでも、三日前よりは呼吸がしやすかった。
「僕は王都に戻る」
最初に今後を口にしたのはロイドだった。
ロイドは眼鏡の位置を直し、机の上の通達文を指で押さえる。
「魔王軍が壊滅した以上、各地で魔術師の需要は変わる。戦闘よりも、結界の修復、街道整備、瘴気の調査、復興支援。魔術学院や役所も人手を集めるはずだ」
「お前らしいな」
ダリオが言った。
「こういう時に、先の食い扶持の話かよ」
「食い扶持は大事だよ。特に戦争が終わった直後はね」
ロイドは軽く肩をすくめた。
「魔物を倒せば金がもらえた時代は、少しずつ終わる。冒険者の看板だけで食べていくのは難しくなる」
その言葉は現実的だった。
魔王が討たれた。
魔物の脅威は減る。
討伐依頼は減る。
冒険者は必要とされなくなる。
正しい。
全部、正しい。
だからこそ、俺は苦笑した。
「魔王が死んだ後の方が、案外大変そうだな」
「その通りだね」
ロイドは頷く。
「世界が救われたからといって、明日から全員が幸せになるわけじゃない。仕事を失う者もいる。役目を失う者もいる。たとえば、僕たちみたいに」
俺たちみたいに。
その言葉が、少しだけ胸に残った。
「俺は街道警備にでも入るかな」
ダリオが乱暴に頭をかいた。
「魔王軍の残党が完全に消えたわけじゃねえ。盗賊も増えるだろうし、荷馬車の護衛ならまだ仕事はある。槍しか取り柄がねえ俺には、それくらいがちょうどいい」
「槍しか取り柄がない割には、飯を食う速度も一流だろ」
「うるせえ。そこは才能だ」
ダリオはそう言ってから、俺を見た。
「で、お前はどうする、レオン」
「俺か」
「ああ」
「……正直、決めてない」
今度は、知らないとは言わなかった。
分からないのは同じだ。
でも、三日前みたいに全部が終わったと叫びたい気分ではなかった。
ただ、行き先を見失っている。
それが一番近い。
「魔王を倒す。勇者になる。ずっとそれだけ考えてた。だから、それがなくなった後の自分の扱いに困ってる」
「自分の扱いって何だよ」
「剣の置き場所みたいなものだ」
俺は腰の剣を軽く叩いた。
「戦いがないなら、こいつは邪魔になることもある」
「お前の剣が邪魔になるかよ」
ダリオが即座に言った。
「お前の剣で、俺たちは何度も助かってる」
「それは分かってる」
俺は短く返した。
前の俺なら、そこで「でも魔王は倒していない」と言っていただろう。
言葉は喉まで出かかった。
けれど、飲み込んだ。
今ここでそれを言えば、また同じ場所に戻るだけだ。
「分かってるんだ。お前たちが俺を責めてないことも、旅が全部無駄だったわけじゃないことも」
セリアが少し目を見開いた。
ロイドも、意外そうにこちらを見る。
「ただ、頭で分かってるのと、納得できるのは別だ」
俺は机の上の地図を見た。
何度も指でなぞった道。
越えるはずだった山。
たどり着くはずだった魔王城。
「俺はたぶん、少し時間がいる」
部屋が静かになる。
窓の外からは、祝祭の音が聞こえていた。
笛の音。笑い声。勇者を称える歌。
その音を聞いていると、自分の中に残っているみっともない悔しさが刺激される。
魔王が討たれたことは嬉しい。
世界が救われたことも分かる。
それでも、俺じゃなかったのか、と思ってしまう。
その感情を、今の俺はうまく扱えなかった。
「パーティは……いったん解散でいいと思う」
俺がそう言うと、ダリオが眉を寄せた。
「いったん、か」
「ああ。俺が今のまま一緒にいると、たぶん迷惑をかける」
「今さらだろ」
「おい」
「お前が迷惑かけるのはいつものことだろうが。無茶して怪我して、セリアに怒られて、ロイドに説教されて、俺が担いで帰る。何回やったと思ってんだ」
「数えるのはやめろ」
ダリオが少しだけ笑った。
俺も、今度はかすかに笑えた。
セリアがほっとしたように息を吐く。
「でも、今の迷惑は少し種類が違う」
俺は続けた。
「お前たちが前に進もうとしてるのに、俺だけが魔王城の前で立ち止まってる。そんな状態で一緒にいたら、たぶん俺はお前たちの進む先まで睨むようになる」
それだけは嫌だった。
ロイドが王都へ戻ること。
ダリオが街道警備を選ぶこと。
セリアが自分の道を考えること。
それを、俺の未練で汚したくなかった。
「だから、少し離れたい。逃げると言われれば、それまでだけどな」
「逃げてもいいんじゃないですか」
セリアが言った。
意外な言葉だった。
俺は思わず顔を上げる。
セリアは胸元の聖印を握ったまま、けれど今度は迷わずに俺を見ていた。
「傷を負った人に、すぐ歩けとは言いません。まずは休ませます。あなたの心が怪我をしているなら、休む場所を探してもいいと思います」
「僧侶らしいな」
「僧侶ですから」
セリアは少しだけ微笑んだ。
その微笑みは、いつもより頼りなかった。
それでも、俺の胸を少し軽くした。
「ただし」
セリアは続ける。
「一つだけ約束してください」
「何だ」
「自分の旅を、全部なかったことにしないでください」
返事に詰まった。
「今すぐそう思えなくてもいいです。でも、私たちはあなたと旅をしました。あなたに助けられました。だから、あなたが勇者ではなかったとしても、あなたと旅をした時間まで嘘にはなりません」
胸の奥が痛んだ。
けれど、三日前のような痛みではなかった。
受け取るにはまだ重い。
でも、捨てたくはない言葉だった。
「……努力する」
俺がそう答えると、セリアは小さく頷いた。
「それで十分です」
ロイドが椅子の背にもたれた。
「では、形式上は解散。実質は長期休暇ということにしよう」
「お前は何でも名前をつけたがるな」
「名前があると扱いやすいからね」
ロイドは真面目な顔で言う。
「レオン。君は自分を整理するために一人になる。僕は王都で情報を集める。ダリオは街道で残党や盗賊の様子を見る。セリアは……」
「私は、少し聖堂に戻ります」
セリアが言った。
「魔王討伐後は、傷ついた人や帰る場所を失った人が増えるはずです。私にも、できることがあると思います」
「ほら」
ロイドが俺を見る。
「誰も止まってはいない。君だけが置いていかれたわけじゃない。僕たちはそれぞれ別の方向に歩くだけだ」
「理屈っぽい励ましだな」
「僕の励ましに情緒を期待しないでほしい」
思わず、少し笑った。
ダリオが俺の肩を叩く。
痛い。
「死ぬなよ」
「その台詞、三日前も聞いた」
「何度でも言う。死ぬな。あと、飯は食え。お前は落ち込むとすぐ飯を抜く」
「母親か」
「お前が手のかかる弟みてえなことをするからだ」
「誰が弟だ」
今度は、セリアも少し笑った。
笑い声は小さかった。
でも、この三日で初めて、部屋の空気が少しだけ温かくなった気がした。
それでも、別れは別れだ。
俺たちが同じ目的地へ向かう旅は、ここで終わる。
ロイドが王都へ。
ダリオが街道へ。
セリアが聖堂へ。
そして俺は、まだ行き先も決まっていない。
夕方、俺は荷物をまとめた。
剣。予備の短剣。野営道具。数日分の保存食。古い外套。
魔王城を目指すには軽すぎる荷物。
新しい人生を始めるには、まだ重すぎる荷物。
宿を出る前、セリアが小さな布袋を差し出した。
「これは?」
「乾燥薬草です。眠れない時にお湯に入れてください。苦いですけど」
「苦いのか」
「よく効きます」
「苦い薬は効くってやつか」
「はい」
セリアは真面目に頷いた。
ロイドは折り畳んだ地図を渡してきた。
「王都周辺の簡易地図だ。小さな村もいくつか載っている。人目を避けたいなら、大街道から外れるといい」
「気が利くな」
「君は放っておくと、地図も見ずに森へ入るからね」
否定できなかった。
ダリオは干し肉の包みを押しつけてきた。
「食え」
「また飯の話か」
「飯は大事だ」
「分かった。ありがたくもらう」
俺は三人を見た。
言うべきことはいくつもあった。
今までありがとう。
迷惑をかけた。
お前たちと旅ができてよかった。
だが、全部をうまく言葉にすると、たぶん別れられなくなる。
だから、短く言った。
「世話になった」
ダリオが鼻を鳴らす。
「またな、だろ。そういう時は」
俺は少し迷ってから、頷いた。
「……またな」
セリアの目が少し潤んだ。
ロイドは満足げに頷いた。
ダリオは笑って拳を突き出した。
俺はその拳に、自分の拳を軽くぶつけた。
宿を出ると、夕方の街は赤く染まっていた。
通りではまだ祭りが続いている。
串焼きの匂い。酒の匂い。花飾りを持った子供たち。
人々は笑っていた。
その明るさは、まだ少し眩しかった。
けれど、三日前ほど憎らしくはなかった。
俺はロイドにもらった地図を開く。
王都へ続く大街道から外れた先に、小さな村の名があった。
地図の端にかすれるように書かれた、ほとんど誰も気に留めない村。
そこなら、誰も俺を知らないだろう。
誰も、俺を勇者候補なんて呼ばないだろう。
そして、誰も俺に失望しない。
少しの間、自分を立て直すにはちょうどいい。
「……ここでいいか」
行き先に大した理由はなかった。
魔王を倒すための旅は終わった。
なら今度は、目的を探すために歩いてみてもいい。
街の外へ出ると、背後から鐘の音が聞こえた。
魔王討伐を祝う鐘。
世界が新しく始まる音。
俺は一度だけ振り返り、それから南へ歩き出した。
勇者になれなかった俺は、誰にも勇者と呼ばれない場所へ行くことにした。
目的もなく。
誇りを少しだけ持て余しながら。
まずは、眠れる場所でも探すために。




