第1章 第19話「闇を照らす光」
何が起こったのかは分からなかった。しかし、これだけは確かであった。
──目の前で自分の上司がルチアに踏みつけにされている事だけは。
判断に時間は必要無かった。俺は即座に、隙だらけのルチアに峰打ちを喰らわせ、ニゲルの上から退けた。見たところ、ニゲルの出血量が尋常ではないので、すぐさま治療に取り掛かろうとした。
だが、ここまでの生死に関わるような致命傷となると、医者ではない俺に手当てなど出来る筈もなく、止血も無駄なように見えた。しかし、ここで諦めるのはニゲルを見殺しにする行為であり、それだけは避けたい思いだ。
思考が研ぎ澄まされ、1秒すら万年に感じる。そんな中、俺は何か打開策はないかを考えた。
止血はまず無駄で、軟膏も何も持っていない。教会に何か備え付けの医療品が置いてあるかは分からないが、探す時間も無いし、それで致命傷の怪我人が助かった話を聞いた事はない。神父が神の呪文で──と言っても、神父自身が俺を殺そうとするような人間だ。可能性はゼロだろう。
じゃあ、自分が致命傷を受けた時はどうしてた。クレオ・デウスの医療棟に運び込まれて長期治療を受けていた。今のニゲルをクレオ・デウスまで連れ帰る事は不可能だ。場所も分からなければ、医療棟の医者ですらこの致命傷を治せるかは怪しい。やはり、人智を超えた神がかった力が必要だ。もっとこう、ルチアの持つ“未来改変”のような……力?
──ルチアのペンダント!
俺の脳が最適解を導き出すのと同時に、俺は即座に行動に移した。確か、このルチア──のような別人──はペンダントを首にかけていた筈……
俺の目論みは当たり、気絶しているルチアの首には見覚えのあるペンダントがかかっていた。すぐさまそれを外すと、俺はニゲルに駆け寄って傷口の上にペンダントを置いた。湧き上がってくる希望を胸に、両手を深く組み合わせ祈りを捧げた。
──そして、祈るのと同時に絶望した。
口は既に、祈りの言葉を必死に紡いでいる。しかし、俺にも“未来改変”が使えるという確証が全く無かったのだ。とんだ誤算だと絶望しつつも、俺の口は祈りの言葉をやめなかった。
しかし、俺は、自分の口を信じた。そして、自分の心に、かつてニゲルが贈ってくれた言葉を言い聞かせる。
──『可能性はゼロでも、努力はそんなゼロを変える事がある。人生の先輩からの、ちょっとしたアドバイスだよ』
「──神よ、我が祈りに応えたまえ!!」
祈りに呼応して、“眼”が眩い光を放つ。周囲が真紅に照らされ、光が全てを覆い尽くす。
視界から真紅が徐々に消え、その場には血溜まりも消え、傷口の無くなったニゲルが横たわっているだけだった。
ニゲルの首元に軽く指を当てると、確かな脈を感じられた。それに安堵し、思わず腰が抜けた。
安堵の余りか、ため息に混じって少し咳が出た。それ程、俺は疲れていたのだろうか。
戦いは終わった。早くクレオ・デウスに帰ってニゲルと風呂にでも入ろうか。そう思った刹那であった。眼前を、真紅の物体が物凄い速さで通過した。その行く先を見ると、そこには確かに峰打ちを命中させた筈のルチアが目を覚ましていた。
剣を構えなくては。そう思ったが、体はそれに反応してはくれない。まるで人形のように、手足が地面に力無く垂れているだけだ。
「なぜ……私は確かに、“潜陰”をヴォイ兄に付与した筈…………」
ルチアが何やらぶつぶつ言っているが、それを聞き取る体力も無い。
「ニゲルの能力? いいえ違う。彼にそんな余裕は無かった筈……」
ルチアが、おぼつかない足取りで立ち上がる。
「こんな芸当をやってのけるなんて…………まさか、“未来改変”──ルチア・ルミーネの仕業──ッ!!」
ルチアは激昂し、その邪悪な覇気を全開にした。覇気は風となって、俺に吹きつけてくる。
先程まではステンドグラスから差し込んだ陽光で明るかった筈のこの部屋に、闇が、影が満ちていく。明らかな異常現象に反応したのか、俺の体はやっとここで動き始めた。ルチアに負けないくらいのおぼつかない足取りで立ち上がり、抜刀した。
──そして、ルチア──いや、眼前の少女の言葉に呆気に取られた。
「私はただ、ヴォイ兄と一緒に居たいだけだったの……っ!!」
その嘆きの訴えだけは、俺の耳に確かに届いた。風が吹き荒れ、ステンドグラスが音を立てて振動する中、その言葉は欠けることなく耳に届いたのだ。
その言葉は、先刻までの嘘という闇に呑まれたものではなかった。そんな闇を、自らの力で打ち砕いてみせた「真実の言葉」であった。
そして、俺の事を「ヴォイ兄」と呼ぶ人間に心当たりがあった。
「コピア……?」
行方不明になった筈の、最愛の妹の名前を口走った。いつも、ルチアの姿に重ねて見ていたその存在が、いつも俺の事を「ヴォイ兄」と呼んでいた。
胸中を、困惑と歓喜の嵐が吹き荒らす。何が起こっていて、何を考えていて、何が真実で、何が嘘で、何が現実で、何が──何が何が何が何が何が、
「何なんだよ……っ」
何を考え良いのか分からない。風が吹き荒れ、もはや攻撃的とまで言えるそれを前に、俺は手に持っていた刀を落とした。そして、俺は疾走した。
疾走と言っても、ほぼ牛歩に近いそれは疾走とは到底形容し難い。しかし、俺にとってのこの走りは疾走以外の何物でもなかったのだ。
目に映る少女との距離は、まだ遠い。だが、俺は足を止めはしない。
「う……おぁっ……!」
叫び声と嗚咽が混じったような声が出た。体は限界を迎えているが、心の原動力はまだ尽きてはいない。
残り、腕1本分である。
「ルチアっ……!! コピアぁっ……!!」
俺の名前を呼ぶ声が、少女に正しく聞こえたかは分からない。ただ、そんな事はどうでも良かった。
──俺は、目の前に立っている少女を抱き留めていたいだけなのだから。
少女を抱き寄せようと、必死に手を突き出す。指先は、ほぼ直前にあるそれを掴もうとする寸前のところでその場に留まる。少女から吹き出てくる風の勢いが増したからである。
俺は咆哮した。いや、正しくは絶叫かもしれない。その何とも形容し難い声は、吹き荒れる風に掻き消されるばかりである。
徐々に、指に力が入らなくなってくる。ほんの僅少である少女との距離が、離れていく気がした。
風と共に吹き出てくる闇のせいもあり、もう少女の姿はまるで見えなくなっている。風に拮抗する力も底を尽きる──そう思った刹那であった。
先刻も見た現象を、再び目にする事となったのだった。闇の渦中から真紅の1筋の光が、1つの光の帯が、無数の煌めきが闇を消し去ったのだ。
「……ヴォイドさん」
ふと、そんな声を聞いた気がした。
「……ヴォイ兄」
それに続けて、そんな声が聞こえた気がした。
「──ありがとう」
重なった2つの声が、何故か自分に感謝を述べている。
「私たちを、救ってくれて」
違う。俺は救った立場なんかじゃない。
「やっぱり、私の頼れるお兄ちゃんね!」
ニゲルに助けられ、ルチアの“未来改変”に救われ、コピアの存在に希望を貰った。
「ありがとう、ヴォイドさん!」
──俺は、救う立場なんかじゃない!!
だが、俺は何故か、そうやって否定をする自分を、否定していた。気がつけば、俺は少女を抱きしめていた。
「ごめん、ごめんコピア……お前を、あいつから守ってやれなくて……!」
俺は、謝罪の言葉を述べていた。勿論、コピアに対するものではあるが、この言葉は幼かった頃の俺への贖罪の意味でもある。無様で、みっともなくて、無力で、何も出来なかった自分。そんな妹を守りきれなかった自分に対する、せめてもの償いの言葉でもあるのだ。
少女は何かを言うでもなく、そんな俺を優しく抱き返した。その抱擁は、ルチアの抱擁のように慈愛に満ち溢れており、コピアの抱擁のように督励の意が込められていた。そこに言葉などはない。──いや、言葉などは必要無い。これは、言葉などで形容出来る程単純なものではないのだから。
俺は、少女の容貌を眺めた。1部分だけ白っぽくくすみかがった金髪に、真紅の双眸。俺の肩程までしかない背丈から伸びる腕は、今もまだ俺を抱きしめている。
眼前の少女からは、邪悪な覇気などは消え去っている。今は、ごく普通の少女としてここに立っている。
「……私は、こうやってヴォイ兄と抱き合うなんて久しぶりだよ?」
少女は、俺に聞こえないような小さな声で、そう呟いたのだった。




