第1章 第18話「助け船は流される」
ニゲルは焦燥感に駆られていた。
「あれぇ? ヴォイ兄相手に何も出来ないのかなぁ?」
「うるさ……ねぇ。オジサンだっ…………好きでこうなってる……じゃないんだよ」
「言葉も途切れ途切れで、息も荒い。もう諦めて、ヴォイ兄に殺されれば良いのに」
──眼前の事態に、絶望していたからである。
時は遡る事 数十分前。ニゲルはプレジデントに教えて貰った場所──聖教会に到着したのだ。
苔の繁茂した煉瓦造りの壁はどこか美しく、曇り空の隙間から差し込む陽光は、まるで神の恩恵かのように常に教会を照らしている。
しかし、そんな美しい景色とは裏腹に、その建物から放たれる異様な雰囲気は隠しきれてはいなかった。
「まるで、天の使いでもいるような雰囲気だねぇ……」
そんな独り言を零しつつ、ニゲルは抜刀した。先程までの茶番の空気は既にその姿を消している。今ここにいるのは、剽軽な初老の男ではなく、煌めく剣を片手に立つ剣士、
──“剣魔”ニゲル・アロガンティアであった。
扉を開け放つなり、内側から突風が吹き出してきた。まるで、ニゲルの進行を阻むように。
しかし、ニゲルは風程度で臆する馬鹿ではない。突風など微風に過ぎないとばかりに突き進むばかりである。
女神像が陽光に照らされ、禍々しい程に煌めいている。その前に立っているのは、紛う事なきヴォイド・オレグである。
佇まいは普段と変わらず、強いて言うのであれば少し俯いている程度。しかし、彼が放つ異様なまでの覇気は、彼のものではないように感じた。
──まるで、人ならざる者のようだ。
「ヴォイド。無事だったんだね──」
その刹那、自分の思考に何者かが関与したような違和感を感じ、ニゲルは周囲に目を凝らす。こんな芸当をやってのける者に、ニゲルは心当たりがあったからである。
「……あれ? 効いてないなぁ……? おかしいなぁ……?」
ケタケタと悪魔的な笑みを浮かべ、こちらへ歩み寄ってくる少女──ルチア・ルミーネである。彼女の“能力”は、既に対策済みである。
「まぁ、“潜陰”が効かなくても、“未来改変”があるんだけど──」
刹那であった。ルチアが一気に間を詰め、懐の短刀でニゲルの喉を掻き切るべく迫った──のだが、その程度でやられるニゲルではなかった。即座に持っていた剣で短刀を弾き飛ばしてみせたのだった。
ルチアは短い舌打ちをし、即座に新たに短刀を取り出すが、それも虚しく弾き飛ばされるだけだった。
「……降参しろ。そして、大人しくヴォイドを解放しろ」
ニゲルの圧勝であった。攻撃手段を無くしたルチアはその場にへたれ込み、力無い声を漏らすだけであった。
「……分かったよ。貴方に勝てないのは分かった──」
しかし、ルチアの策は尽きてはいなかった。
ニゲルは、自分の体から切り離された左腕を見て戦慄を覚えた。当然、ニゲルの視界には彼の左腕を切り落としてみせた男の姿も映っていた。
「ヴォイド……っ!!」
そこに映っていたのは、先程まで動きの無かったヴォイド・オレグであった。音も気配も無く、ただ一太刀でニゲルの左腕を切り落としてみせたのだった。
「…………」
ヴォイドは沈黙を保つばかりで、間合いを詰めるでも広げるでもない。ただ刀を構え、次にニゲルが取る行動を伺っている。隙は無い。そんなものを作る程、ヴォイドは戦いの素人ではない。
しかし、その佇まいが普段のヴォイドのものよりも洗練されているところを見ると、やはり眼前に立っているのはヴォイド本人の意思でない事は明らかである。
「ヴォイド、今解放してやるさ」
残った右腕で、渾身の峰打ちをヴォイドに喰らわせる──
「隙ありっ!」
ルチアが横から蹴りを入れてきたので、ニゲルは咄嗟に回避行動を取る。ルチアに足で強烈なカウンターを与え吹き飛ばす。「うぐっ」という短い断末魔と、ルチアが壁に激突して骨が砕ける音がした。そして、それと同時に自分の腹部から伸びている刃を見て絶望した。
腹の奥底から、血という血が湧き上がってくる。それを口の中で留める事など不可能で、口から血が溢れた。
足が、立つ事を拒絶している。口が、悲鳴を上げる事を拒絶している。脳が、考える事を拒絶している。そして──
──体が、生きる事を拒絶している。
ニゲルは膝からその場に崩れ落ちた。無様な失態を晒した事と成す術を無くした絶望で、ニゲルは歯軋りをした。ギリギリ、と歯軋りの音が聖堂に虚しく響いた。
ルチアがニゲルの元へと歩み寄ってくる。そして、事は冒頭へと戻る。
「あれぇ? ヴォイ兄相手に何も出来ないのかなぁ?」
「うるさ……ねぇ。オジサンだっ…………好きでこうなってる……じゃないんだよ」
「言葉も途切れ途切れで、息も荒い。もう諦めて、ヴォイ兄に殺されれば良いのに」
骨が数本折れ満身創痍だった筈のルチアも、何故かピンピンしている。高みの見物といった感じで、地に伏すニゲルの体を足で踏みつけている。
裸足の筈なのに、その硬さは足のものではなかった。まるで、厚底の靴で踏みつけられているような、そんな感覚をニゲルは感じた。
腹部からの出血で、抵抗する力すら起きない。眼前に立つ剣士がこちらへ歩み寄ってくるのが見える。こんな不甲斐ないニゲルに、トドメを刺す為だろう。
その靴が、ニゲルの目の前で止まる。手に握られている剣からは、まだ鮮血が滴り落ちている。
「…………」
眼前の剣士は何も言わなかった。その剣を振り被るのに、理由などは要らなかったからである。
「──ッ!?」
──全く抵抗する素振りを見せないルチアに、峰打ちを喰らわせるだけなのだから。
ニゲルを踏みつけていた足の力が弱まったのを感じ、ニゲルは予想と現実の乖離に戸惑う。
眼前に立つ剣士は、ニゲルではなくルチアを攻撃した。つい先刻ニゲルの左腕を切り落とした筈のこの男が、何故今になって反旗を翻したのか──いや、出血量が多すぎてそんな事を考えている余裕など無い。
ニゲルは虫の羽音のような掠れ声で眼前に立つ剣士の名を呼んだ。果たしてそれが音となって届いたのかは分からないが、剣士はニゲルの傍らまで歩み寄ってきた。
そして、ニゲルの背中に何か小さな物を置き、何やら呪文のような単語の羅列を唱え始めた。その呪文が何かは定かではない。出血量のせいか、体はその言葉を聞き取ろうとする事よりも、意識を腹部に集中させる事を優先したようだ。
腹部から血が流れ出す感覚が収まり、もはや感じなくなっていた痛みが消え失せた感覚もした。血の循環が再び始まり、全身に血と酸素が行き渡る。
しかし、それによって意識が明瞭になるかと思いきや、実際はその逆であった。アドレナリンの補正によって感じなくなっていた疲労が、濁流のように全身に押し寄せ、ニゲルの意識は濁流に呑まれるように沈んでいったのだった。




