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【第8話】崩れた神様

週末は学園がお休みのため、今朝の私は少しだけゆっくりと目覚めるつもりだった。


けれど、窓の外から聞こえてくるざわめきに気付いてカーテンを開けると、一階にある大聖堂の門の前には、平日よりもはるかに長い信者たちの列ができていた。


日々の疲れや病を癒し、神の奇跡にすがりたいと願う人々が、この週末を利用して国中から集まってきているのだ。


私は急いで身支度を整え部屋の扉を開けた。


「おはようございます、エレオノーラ様」


扉のすぐ外では、専属護衛騎士であるリオスが、いつもと変わらない凛とした佇まいであいさつをしてくれた。


「おはよう、リオス」


私はできる限り自然な笑顔を作って応えたつもりだったけれど、自分の声が少し硬くなっているのがわかった。


数日前の放課後、リオスがルキアと交わしていた秘密の会話が、今も私の頭を離れない。


『極力離れないようにいたします』


最近頻発する地震を理由に、彼が言ってくれたその言葉通り、今朝もリオスは私のすぐそばに寄り添い、歩幅を合わせて歩いてくれる。


だけど私は、彼が優しく接してくれるほど、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みを覚え、無意識のうちに彼と少しだけ距離をとってしまっていた。


並んで歩きながらも、以前のように気安く冗談を言い合うこともできず、ただ黙って大聖堂へと向かった。


大聖堂の重い扉を開けると、そこにはひんやりとした静寂が満ちていた。祭壇の奥には、高さ約十二メートルにも及ぶ巨大なストラ神の石像が今日も何も言わずにそびえ立っている。


私は祭壇の前に進み出ると、石像の前で目を閉じ、胸の前で両手を組み合わせた。


深く呼吸を整え、祈りを捧げる。


体内に満ちている温かい癒しの魔力が、私の身体から淡い光の粒となって溢れ出した。無数の緑の光が広い大聖堂に漂いながら、ゆっくりと巨大なストラ像へと吸い込まれていく。


今日も無事にご祈祷が終わる。


そう思ったまさにその瞬間だった。


ゴゴゴゴゴゴ……!


足元の底から突き上げるような、不気味で重い地鳴りの音が大聖堂全体に響き渡った。


次の瞬間、今までの小さな揺れとは比べものにならないほどの激しい衝撃が、床を激しく揺さぶった。


立っていることすらできず、私は思わずその場にしゃがみ込む。


「じ、地震だわ! ……今までで一番大きな揺れよ!」


「エレオノーラ様っ!」


揺れの中でリオスの切迫した声が聞こえた。大聖堂の太い柱や床の石畳が悲鳴を上げるように軋み、天井からはパラパラと白い砂ぼこりが落ちてくる。


ビシィ!!


そして、激しい揺れによって頭上から鈍い亀裂音が響いた。


私が驚いて見上げると、ストラ神の巨大な石像に大きなヒビが走り、その太い右腕が根元からボッキリと折れてしまったのだ。


重さ数トンはあろうかという巨大な石の腕が、猛烈な勢いで私の上へと落下してくる。


(だめ! 逃げられない!)


恐怖で身動きがとれず、私がギュッと目を閉じたその時だった。


「危ない!」


鋭い声と共に、強い力で身体を横に突き飛ばされた。


大理石の床を滑り転がった私のすぐ背後で、轟音と共に石像の腕が床に激突し、粉々に砕け散る音が響く。


爆風と石の破片が飛び散る中、リオスがその場に倒れ伏しているのが見えた。


「ぐっ……!」


リオスの痛みに満ちた短い叫びが漏れた。彼をかすめるように降ってきた巨大な石の破片が、その左肩に直撃したのだった。


「リオス!」


揺れがようやく収まり、私は慌てて彼を起き上がらせようとした。


しかし彼の顔は苦痛にゆがみ、額からは冷や汗がにじんでいる。彼の左肩のあたりはシャツがひどく破れ、そこから真っ赤な血が勢いよく溢れ出ていた。


「だ、大丈夫ですか、エレオノーラ様……お怪我は……」


自分自身がそんな大怪我を負っているというのに、彼はまず私の心配を口にした。


「私は無事よ! それよりあなたの方が!」


ちょうどその時、司祭や使用人たちが大聖堂に駆け込んできた。


私は彼らに指示を出し、急いでリオスを教会の奥にある医務室へと運ばせた。


「じっとしていて、今すぐ治療するわ!」


私は震える手で、痛みに耐えるリオスの破れたシャツに手をかけた。血に染まり、肩から背中にかけて大きく裂けてしまったシャツを慎重に脱がせる。


現れた彼の左肩は、落ちてきた瓦礫の衝撃でひどく腫れ上がり、深く切れた傷口からは痛々しく血が流れ出していた。


私はただちに両手を彼の肩へかざし、治癒の魔力を集中させた。


手のひらから温かくまばゆい緑の光が溢れ、彼の肩の傷を優しく包み込む。聖女としての強い癒しの力が、彼の肉体を細胞から蘇らせていく。


出血がピタリと止まり、深くえぐれていた傷口がみるみるうちに塞がり、痛々しい腫れも嘘のように引いていった。


「……すごい。痛みが完全に消えました」


リオスがほっとしたような息を吐き、感嘆の声を漏らす。


「よかった。でも流した血は回復しないから、無理はだめよ」


私が安堵の息を漏らし、血で汚れてしまった彼の背中をぬぐおうと視線を移した、その時だった。


彼の広い背中に、とてつもなく大きくて異様な傷跡があったのだ。


右の肩甲骨のあたりから腰へと斜めに走る、まるで巨大な獣の鋭い爪によって引き裂かれたかのような、深い三本の傷跡。


「この傷は……」


私が思わずその傷跡に指を伸ばしかけて尋ねると、リオスはハッとしたように背中を少しだけ遠ざけた。


彼は医務室の棚に用意されていた新しい替えのシャツをすぐに手に取り、素早い動作で袖を通した。


「幼い頃の古傷です、気にしないでください。……ありがとうございます、もう大丈夫です」


彼がシャツのボタンを留めていく後ろ姿を見つめながら、私はまだ少しだけ心がざわつくのを感じていた。


魔獣が古来より一匹も存在しないこの島国で、生きていく中でこんな怪我を負うことなどあり得るのだろうか。


それはいかなる剣術の訓練や、機械の事故とも違う、そんな恐ろしい傷跡に見えた。


その時、医務室の扉が静かに開いた。


「大丈夫ですか? リオス」


部屋に入ってきたのは、教皇イグナティウス様だった。


「はい、エレオノーラ様に治療をしていただきましたので、もうすっかり大丈夫です」


リオスはベッドから立ち上がり、教皇様に対して礼儀正しく深く頭を下げた。


「そうですか、安心しました。さすがは聖女の奇跡の力ですね。リオス、今後もエレオノーラをしっかり守ってくださいね」


教皇様は優しく微笑みながらリオスにねぎらいの言葉をかけると、今度は私の方へと視線を向けた。


「それとエレオノーラ。先ほどの地震によって、大聖堂のストラ神の像が壊れてしまいました。そのため、像が直るまでの期間は朝のご祈祷は不要です」


「ご祈祷が、不要になるのですか?」


私が驚いて聞き返すと、教皇様は静かに頷き、少しだけ声を落として説明を続けた。


「ええ。あの石像はただの彫像ではなく、あなたの魔力を蓄え、信者たちに奇跡を分け与えるための特別な魔導具なのです。腕が折れ、本体に亀裂が入ってしまっては正常に動作いたしません。複雑な作りをしているため、修理にはかなりの時間がかかると思います」


その言葉を聞いた瞬間、私は外で待っているはずの大勢の信者たちのことを思い出した。


「それなら信者の方たちはどうなるのですか? せっかく遠くから救いを求めて教会にいらしているのに、奇跡を受けられないなんてあまりに可哀想です。でしたら、像が直るまでの間、毎朝私が直接治療をいたします」


私がそう懇願すると、教皇様の穏やかだった表情が少しだけ引き締まり、首を左右にゆっくりと振った。


「それはいけません。聖女に直接治療をほどこしてもらえるのは、選ばれた信者のみです。大衆の信者にその手を触れることは、ストラ神の教えに逆らいます」


「ですが教皇様! 目の前に怪我や病に苦しむ人がいるのに、それを放っておくなんて……」


「エレオノーラ」


教皇様の穏やかだが有無を言わせない強い威厳を秘めた声に、私は思わず言葉に詰まった。


「これはストラ神が定めた厳格な戒律であり、教会の秩序を守るための大切なルールなのです。あなたは大衆の前に決して姿を現してはならない。いいですね?」


いくら聖女とはいえ、この教会において教皇様の言葉は絶対だ。私がいくら駄駄をこねても、その戒律が覆ることはないのだと悟った。


「……わかりました」


私がうつむきながらそう答えると、教皇様はいつもの温厚な顔に戻って目尻を下げた。


「わかってくれて嬉しいです。それでは二人とも、もうすぐ朝ごはんの時間ですから食堂へ行きなさい」


教皇様は優しい笑顔でそういうと、医務室を後にして静かに扉を閉めた。


教皇様の足音が廊下の遠くへと消えていくと、医務室の中には重苦しい静寂が取り残された。


ベッドのそばに立っていたリオスが、納得がいかないというように眉をひそめて私に尋ねてくる。


「エレオノーラ様、教皇様が言っていた、選ばれた信者とはどういう方ですか?」


その真剣なまなざしから目をそらすことができず、私は少し言い淀んだあとに正直に打ち明けた。


「うん。実はリオスが私の護衛騎士になる前に、一度だけ、私が直接治療をした人がいるの」


「それは、一体どのような人だったのですか? ひどく重い病を患った、貧しい子供や老人ですか?」


「……ううん、ちがうの。教会に多額のお布施をしている、有名な貴族だったわ」


私の言葉を聞いた瞬間、リオスの瞳に激しい怒りの火が灯った。彼は拳を強く握りしめ、少しだけ声を荒らげた。


「つまり、聖女に直接治療をしてもらえるかは、金しだいだと? お布施の違いで信者に優劣をつけるなんて、俺は間違ってると思う!」


彼の強い口調に、私はハッとした。


数日前、学園の階段の陰で彼がルキアと話していた言葉が脳裏に蘇る。


聖女は教会が自分たちの権力と財を保つために利用している政治の道具にすぎない。リオスはそのことに気づき、純粋にこの間違った現状に疑問を抱いていただけなのかもしれない。


私のためにその身を挺して落下する瓦礫から守ってくれ、貧しい信者のためにここまで熱く怒れる彼が、私を陥れるために何かを企んでいる悪人だとは、今の私にはどうしても思えなかった。


私は今まで自分が彼に対して抱いていた疑念が、ひどく恥ずかしくなってきた。


静まり返った医務室の中で、どう言葉を返せばいいのか迷っていた、まさにその時だった。


ぐ……ぐきゅぅ〜……。


私の胃袋が、医務室の静寂を切り裂くように、とても大きく情けない音を立てたのだ。


「あ、やだっ!」


私は一瞬で顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまり自分のお腹を両手で強く押さえた。


あせった私の姿を見て、怒りに肩を震わせているはずだったリオスの目が少しずつ大きくなり、次の瞬間にはその表情が崩れていった。


「ふっ、あははは……!」


彼はこらえきれないというように吹き出し、最後には声をあげて笑い始めた。切れ長でクールに見える彼の目が目尻からくしゃっと崩れ、あの私が大好きな優しい笑顔がそこにあった。


「笑わないでよ! もう、早く食堂にいきましょ」


恥ずかしさに耐えきれなくなった私は、彼の笑い声を背中に受けながら、そそくさと医務室の扉を開けて早足で廊下へと飛び出した。


それと同時に、私の胸の中にあったあの暗く冷たい疑念の影は、彼のあたたかい笑い声と共に綺麗に消え去っていた。


誰が何と言おうと、関係ない。


さっき私の上へと落ちてきた巨大な瓦礫から、彼は自分の命すら顧みずに、助けに飛び込んで来てくれたのだ。彼のあの真っ直ぐな怒りも、私に向けられるくしゃっとした優しげな笑顔も、何もかもが本物だと私の心が強く告げていた。


なにより彼の笑顔を見ていると、本気で私のことを大切にしてくれているのが痛いほど伝わってくるのだ。


『いつか二人で海にいきましょう』


あの日、あの美しい夕暮れの丘の道で、私にそう言ってくれた彼を、これから先たとえ何があろうとも信じていこうと、私は強く心に誓った。


「エレオノーラ様、待ってくださいよ。今日の朝食は、俺のにんじんをお譲りしますから」


廊下の後ろから追いかけてくるリオスの明るい声に、私は立ち止まって振り返り、


「いりません!」


と、とびきりの笑顔で応えたのだった。

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