【第7話】芽生えた疑念
ある日の午後、私たちは複数のグループに分かれ、別々の校舎で受ける実習に参加していた。
残念ながらリオスとは、違うグループに振り分けられてしまった。
その日の私の実習は、予定されていたカリキュラムがスムーズに進行したおかげで、予想よりも少し早い時間で終了した。
「思ったより早く終わったわね。そうだ、今日は私がリオスを迎えに行こっと!」
帰り支度を整え、私は教室を飛び出した。
最近の私はとてもごきげんだった。
リオスが私に内緒で、一緒に海に行くって約束のために、あの難しい文献をずっと必死に調べてくれていたのだと思うと、胸の奥が温かくなり、足取りも少し軽くなっていくのがわかる。
彼を驚かせようと、私はリオスのグループが実習を受けている西棟の校舎へと向かった。
すでに授業が終わったのか、廊下にはクラスの生徒たちの姿がまばらに見える。
私はリオスを探して歩き進み、途中に階段がある廊下の切れ目にさしかかったその時だった。
「それで、本当に記録は何も残っていないのか?」
聞こえてきた低い声に、私は思わず足をとめた。
リオスの声だ。
けれど、普段私に語りかける時の穏やかで優しい響きではなく、どこか鋭く、張り詰めたような真剣な声だった。
私は声をかけるタイミングを失い、とっさに廊下の角に身を隠した。
そっと柱から覗き込むと、一階の階段裏の死角になるスペースに、リオスとルキアが二人きりで立っているのが見えた。
二人の間には、普段の明るい友人同士の雑談とは明らかに異なる、重い空気が流れている。
「だめよリオス。いくらあなたでも、教会派の誰かの耳に入ったらまずいわよ……」
ルキアが周囲を警戒するように視線を巡らせながら、声を潜めて答えている。
一体、何の話し合いをしているのだろう。
私の胸を、暗い予感がよぎる。
「頼む、ルキア。学園の図書館にある歴史書や教会の文献には、当たり障りのない史実や、おとぎ話しか載っていなかった。だからこそ、王国派であるお前にしか聞けないんだ」
リオスは一歩、ルキアへと詰め寄った。リオスからはいつもとは違う緊張感が漂っている。
「ルキアの家や、鎖国を解こうとしている王国派の上層部から見て……『聖女』っていうのは、本当はどういう存在なんだ? 教会側のきれいな記録じゃない、事実に基づく話や情報は残っていないのか?」
その質問を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ね上がった。
どうして、リオスがそんなことを聞くの?
「……まあ、リオスにここまで頼まれたら仕方ないわね。ただこれはあくまで、ウチのお父様たちが、隠れて話している噂話だと思って聞いてね」
ルキアはため息を一つ吐き、覚悟を決めたように声を潜めて語り始めた。
「王国派の上の方じゃ、『聖女なんてものは、教会が国を鎖国させ続け、自分たちの権力と財を保つために利用している政治の道具にすぎない』って言われてるのよ。聖女様の奇跡を理由にすれば、国民を教会の思い通りに支配できるってことね」
「政治の道具……」
「そう。それに、聖女が『海に近づくと力が弱まる』っていう教会の戒律だって怪しいものよ。あれは、聖女が外の世界を知ったり、港に来る外国人や観光客と接触したりするのを防ぐための、ただの方便だって噂されてるわ。現に、唯一輸出入のために開かれている港町でも、観光客はあそこから出ることは許されていないの。私たち王国派から見れば、都合のいい建前に見えるってことね」
「都合のいい建前……。他に、過去の聖女に関する記録は?」
リオスの追求は止まらない。ルキアは少し言いにくそうに眼鏡の位置を直したあと、さらに少し声を落とした。
「……理由は分からないけど、昔から『歴代の聖女はなぜか全員が短命で、若くして亡くなっている』という事実があるの。二十代でほとんどが死んでいて、三十歳を超えた聖女は一人もいないって話よ。うちの派閥では、教会が聖女の力を無理やり使い潰しているんじゃないかって睨んでるわ」
「に、二十代でほとんどが死ぬ……だと……」
その言葉は、冷たい氷の刃のように私の胸に突き刺さった。
私が孤児院から引き取られた日、教皇様に告げられた過酷な運命。先代の聖女も若くして亡くなったという事実。
それが、王国派の中ではそんな風に語られているなんて。
だが、私の心にそれ以上の衝撃を与えたのは、目の前にいるリオスの存在だった。
聖女のことは私のために、二人で海へ行く約束のために調べてくれているのだと、あんなに喜んでいた私が馬鹿みたいだ。
彼は、私のために調べていたわけじゃなかった。
教会の秘密を、そして聖女である私の裏側を暴くために、ずっと情報を集めていただけだったのだ。
なぜ、私の専属護衛騎士である彼が、わざわざ教会と敵対する王国派の人間から、教会の嘘を暴くための情報や、聖女の批判的な噂を聞き出そうとしているのだろうか。
「……ありがとう、ルキア。参考になった」
「いい、リオス。この話は絶対に他言無用よ。特にあなたは、聖女様の護衛なんだからね」
二人の会話が終わり、足音が動き出す気配がして、私は慌てて音を立てないようにその場から離れ、無我夢中で来た廊下を引き返した。
ショートブーツの足音が、静かな廊下に虚しく響く。
頭の中がぐちゃぐちゃに混乱し、息が苦しい。
『命に代えても、エレオノーラ様をお守りいたします』
今まで彼が私に向けてくれた温かい言葉や、あのくしゃっと崩れる優しい笑顔が、次々と脳裏に蘇る。
そのすべてが、突然色を失ったようにモノクロに見えてきた。
ひょっとしてリオスは、田舎から出てきた平民なんていうのは嘘で、本当は教会を失脚させたい王国派が送り込んだスパイなのではないか?
聖女である私の弱みを握り、教会の嘘を探り出すために、護衛騎士という立場を利用して私に近づいてきたのではないか?
出会ったあの日から彼に対して抱いていた絶対的な信頼と、心の底から安心できるあたたかい感情が今、ガラガラと音を立てて崩れ去ろうとしていた。
誰もいない教室に戻り、私は一人、震える右手で左手の聖女の指輪を強く握りしめる。
リオス、あなたは一体、何者なの……?
私の心に落ちた疑惑の黒い影は、夕暮れの迫る教室の冷たい空気と共に、静かに、けれど確実に私を包み込んでいった。




