【第22話】魔導師とドラゴン
あの特級認定試験から、ちょうど一ヶ月が過ぎた。
アウロラは試験に落ちたにもかかわらず、晴れやかな表情で日々の修行に打ち込んでいた。
そんなある日の午後、俺とフィネルがリンドフェルト伯爵家を訪れ、アウロラと共に中庭で魔法の理論について語り合っていた時のことだ。
屋敷の執事に案内されて、一人の見知らぬ中年の男性が中庭へとやってきた。
彼は使い込まれた丈夫な革鎧を身に纏っており、その瞳には深い優しさと温もりが宿っていた。
「突然の訪問をお許しください。私はソラリス騎竜兵団で、竜舎の管理をしているセルジと申します。本日は、黒曜のことでアウロラ様に来ていただきたいと思い、参りました」
セルジと名乗ったその男性は、アウロラの前で深く、そしてとても丁寧にお辞儀をした。
黒曜とは、一ヶ月前の特級認定試験でアウロラが治療にあたった、あの黒い鱗を持つ雌のドラゴンのことだ。
「わかりました。……あの、友人たちも一緒でもかまいませんか? 竜舎なんて、めったに見られるものではないと思うので」
アウロラが俺とフィネルをちらりと見てからそう尋ねると、セルジはとても気さくな笑顔を浮かべた。
「もちろん、かまいませんよ」
そう答えたセルジの案内で、俺たち三人は王都の郊外に広がるソラリス騎竜兵団の広大な敷地へと足を運ぶことになった。
厳重な警備が敷かれた兵団の正門を抜けると、そこには想像を絶する規模の施設が広がっていた。
「すごい……これが竜舎なんだ」
フィネルが目を輝かせて周囲を見渡す。
竜舎と呼ばれる巨大な石造りの建物は、数えるだけでも三十棟を超えて立ち並んでいる。
セルジの解説によれば、一つの竜舎には大体十頭ほどのドラゴンが、それぞれゆったりとした専用のスペースを与えられて管理されているとのことだった。
時折、空気を震わせるようなドラゴンの低い鳴き声や、空を訓練で飛翔する巨大な影が見え、俺たちはその迫力にただただ圧倒されていた。
「こちらです。きっと驚きますよ」
セルジが最も奥にある、ひときわ静かな竜舎の一角へと俺たちを案内した。
鉄格子のない、広々とした専用のケージ。そこに敷き詰められた柔らかい干し草の上に、あの黒曜の姿があった。
「黒曜……。よかった、無事生まれたのね」
アウロラは目を細め、ホッと安堵の息を吐き出した。
巨大な黒曜の腹部のあたりに、彼女にぴったりと寄り添うようにして、一頭の小さな白いドラゴンが丸くなって眠っていたのだ。
「試験の数日後に卵を生み、その後すぐに孵りました。元気な女の子です」
セルジが誇らしげに、目を細めてその小さな命を見つめながら教えてくれた。
「この子を見せてくださるために、屋敷に来てくださったのですね。ありがとうございます」
アウロラが心からの笑顔を向けると、セルジは少しだけ表情を引き締め、姿勢を正した。
「はい。それもあるのですが、実は本日伺ったのは、アウロラ様にご相談がございます。黒曜の翼を見てください」
セルジに促され、俺たちは黒曜の右の翼へと視線を移した。
「え!? どうしてまだ傷ついたままなのですか!? あれからもう一ヶ月も経っているのに」
アウロラが驚愕の声を上げた。
確かに黒曜の右の翼は、一ヶ月前の試験の時のまま、不自然な方向に折れ曲がり、痛々しい傷跡を残したままになっていたのだ。
国は優秀な回復系魔導師を、何人も抱えている。
あの日アウロラが治療を中断したとしても、その後すぐに別の魔導師たちが治療を引き継いでいるとばかり思っていた。
「実は黒曜は隷属魔導具を外されて以降、手を触れさせたのはアウロラ様だけなのです。他の魔導師や、私たち竜舎の管理人が近づこうとしても、激しく威嚇して寄せ付けようとしません。どうやら我々は、完全に彼女の信頼を失ってしまったようです。不甲斐ないことです」
セルジは深く頭を下げ、強く拳を握った。
「隷属魔導具を付けた方はどうなったのですか?」
俺が尋ねると、セルジは顔を上げ、厳しい口調で答えた。
「すでにドラゴンライダーの資格を剥奪され、一般騎士へ降格となりました。騎竜は国にとって、ただの魔獣や乗り物ではなく、それほど敬うべき尊い存在なのです。彼が犯した罪は、決して許されるものではありません」
その言葉を聞いても、俺はやはり納得がいかなかった。
「つまり、誰の手も受け付けない黒曜のために、アウロラに治療を頼みたいということですか? いくらなんでも、それは都合がよすぎませんか?」
自分たちではお手上げだからと、アウロラを都合のよい道具のように呼びつける騎士団のやり方が、俺はどうしても気に食わなかったのだ。
「エリアス、そんな言い方……」
アウロラが俺をたしなめようとしたが、セルジは深く頷いて俺の言葉を受け止めた。
「はい。エリアス様の仰る通り、そう言われても仕方がありません。ですが、我々の願いは単に治療をお願いすることだけではないのです。黒曜を治療していただいた後、彼女をアウロラ様に引き取って貰えないかという相談なのです」
「騎竜を国が手放すということですか!?」
それまで静かに話を聞いていたフィネルが、信じられないものを見たかのように驚愕の声を上げた。
「そんなにすごいことなの?」
アウロラが不思議そうにフィネルに問う。
「すごいなんてものじゃないよ! 人と心を通わせ、騎竜となったドラゴンはただの魔獣じゃない。国家の最高軍事機密であり、最高の財産だ。それを個人の貴族に譲渡するなんて、例えば皇帝陛下が養子に来るぐらいのレベルさ。歴史上、前例がないんじゃないかな」
「そ、それはすごいな……」
俺はフィネルのわかりやすすぎる例えに、ドラゴンの持つ計り知れない価値に改めて驚かされた。
「皇帝陛下は、これまで国に多大な貢献をしてくれた黒曜の幸せを心から願っておられます。無理な使役で傷つけ、心まで裏切ってしまった我々に、彼女を縛り付ける資格はないと。これは国の総意と思ってください。後、当然ですが黒曜の子も一緒にお連れいただきたいです」
「に、二頭も……」
国宝級の存在を二頭も譲り受けるという事実の重さに、なぜかフィネルが目眩を起こしたようにくらくらとよろめいている。
「それはもちろんです。親子が離れなくて、私も嬉しいです。あの子の名前はもう決まっているのですか?」
アウロラはフィネルの心配など意に介さず、ただ親子が一緒にいられることを純粋に喜んでいた。
「まだございません。できれば新しい主となるアウロラ様に、名付け親にもなっていただきたいと考えておりました」
「私があの子の名前を……そうね、黒曜と対をなすような真珠色の美しい鱗。あの子の名前は『白珠』にします」
「白珠……素晴らしい名前ですね。ありがとうございます」
セルジは深く、祈るように頭を下げた。
話がまとまると、アウロラはゆっくりとケージの中の黒曜へと近づいていった。
黒曜は警戒するどころか、アウロラの足音に気づくと、自ら首を持ち上げて彼女の方へと頭をすり寄せてきた。
「久しぶりね黒曜。治療の続きをさせてもらえるかしら」
アウロラが優しく語りかけると、黒曜は安心したように目を細め、アウロラの足元にゆっくりと伏せた。白珠も目を覚まし、母親の真似をするように小さな体をアウロラへと向けている。
アウロラは黒曜の折れた右の翼に静かに手をかざした。
『生命の源たる青き雫よ。傷つきし魂の揺らぎに応え、かの者のもとへ集いて包み込め。《聖光命脈》!』
彼女の手から、あの神々しい緑の光が溢れ出し、黒曜の翼を優しく包み込んだ。
折れた骨は正しい位置へ戻り、引き裂かれた筋肉や鱗がみるみるうちに再生していく。
今度はたった十分足らずで、あの痛々しかった翼の治療を完全に終わらせてしまったのだ。
「すごい……これほどの治療をたった一人で」
セルジが息を呑んでその光景を見つめていた。そして、不思議そうにアウロラに問いかけた。
「アウロラ様。試験では制限時間を大幅にオーバーしても、翼の治療を終わらせられなかったと聞きました。何か理由があったのですか?」
その問いに、アウロラは黒曜の翼を優しく撫でながら、静かに微笑んで答えた。
「実は治療中に、白珠がお腹にいることがわかったのです。でも、白珠の命の灯火はとても弱っていました。なので私は翼の治療よりも、お腹の中の白珠の治療を優先したのです」
アウロラのその告白に、セルジは雷に打たれたように硬直した。
「そうだったんですか……。おそらくそれは隷属魔導具による精神的な負荷の副作用でしょう。我々は本当に、取り返しのつかないことをしてしまっていたのですね」
セルジのその目からは、後悔の涙が溢れ出していた。
あの時、アウロラが自身の特級認定という夢を捨ててまで、名もなき小さな命を救うことを選んでいなければ、ここに白珠の姿はなかったかもしれないのだ。
「そういえば白珠の父親はどこにいるんだ?」
俺が純粋な疑問を口にすると、すかさずフィネルが早口でフォローを入れた。
「力の強いドラゴンの雌は、自分より弱い雄の血を取り込むのを嫌い、単一生殖するんだよ。だから白珠は黒曜の完全な分身であり、父親は存在しないんだ」
どうやらフィネルは魔導具だけでなく、ドラゴンに関してもかなりのオタク知識を持ち合わせているらしい。
「では、黒曜と白珠のことをよろしくお願いいたします」
セルジは涙を拭い、改めて深く頭を下げた。
彼の瞳からは、今まで自分の子どものように大切に世話をしてきたドラゴンたちとの別れを惜しむ、深い愛情と寂しさが伝わってきた。
「はい。この子たちを、必ず幸せにしてみせます」
アウロラが力強く約束すると、セルジはケージの重い鉄のドアをゆっくりと開けた。
すると黒曜と白珠の二頭は、アウロラにぴったりと寄り添うようにして歩み出た。
アウロラが竜舎から外の広場へと出ると、二頭はまるで彼女の護衛のように、行儀よくその後ろを付いて歩いていく。
「アウロラ様。黒曜に乗ってみませんか?」
外の広場に出たところで、セルジがふと思いついたように提案してきた。
そう言って彼は一度竜舎へ戻ると、黒曜の背のサイズに合わせた、大きな革製の鞍を抱えて帰ってきた。
「でも私、ドラゴンに乗ったことなんてないんですが……」
アウロラは困惑したように答える。
「大半の人がそうだろ」
俺は思わず当然のツッコミを入れてしまった。
ドラゴンライダーなど、この国でもほんの一握りの選ばれた騎士しかなれないのだから。
「ふん。そんなこと言う人には、もう黒曜に乗せてあげないからね」
アウロラは俺に向かって少しだけ唇を尖らせた後、セルジに手伝ってもらいながら、恐る恐る黒曜の背に取り付けられた鞍の上にまたがった。
黒曜はアウロラが乗りやすいように姿勢を低くし、彼女が座るとゆっくりと立ち上がった。
「不思議……。全然怖くない」
アウロラは最初は強張っていた表情を緩め、驚いたように声を上げた。
「すでに人竜一体となっているのですね。心が通じ合ったペアは、人がどんな体制を取ろうとも、ドラゴンがバランスを取るため、絶対に落下しません」
アウロラはセルジから手渡された手綱をしっかりと手に取ると、黒曜の首筋を優しく撫で、声をかけた。
「帰りましょう、黒曜」
その言葉を受けた黒曜が、大きな黒い翼を一度だけ力強く羽ばたかせた。
ファサッ!
すると、何トンもあるはずのその巨体は、音もなくふわりと宙高く舞い上がったのだ。
「すごい……なんて静かな……」
重力を完全に無視するかのようなその見事な飛翔に、フィネルは目を丸くしてとても感動していた。
「この国始まって以来ですよ。魔導師がドラゴンの背に乗るなんて」
セルジが空を見上げながら、少し震える声で呟いた。
ソラリスにおいて、ドラゴンは騎士のものであり、魔導師がその背に乗ることは歴史上あり得ないことだった。
俺はそのセルジの言葉を聞き、空を舞うアウロラの姿を見上げながら、彼女はもしかすると、この国の歴史そのものを変えていくほどの力を持つ存在なのかもしれないと、大げさではなく本気で思った。
「いいなー、ドラゴン。ねぇ、エリアス。今からドラゴンライダー目指すってのはどう? そこら辺の剣士なんかよりよっぽど剣の腕が立つんだからさ」
「剣術は魔力がなくなった時のもしもの備えだ。俺はあくまで魔導師なんだ」
「つまんないのー。あ、ほら見て。あの子も飛ぼうとしてるよ」
続いて、母親の後を追うように、小さな白珠も真珠色の翼を羽ばたかせ、ふわりと空へ舞い上がった。
俺たちは黒と白のドラゴンが青空を優雅に舞う、そのあまりにも幻想的で美しい景色に、時間を忘れてしばらく見とれていた。
アウロラの乗った黒曜は、リンドフェルト伯爵家の方角を目指して、高度を上げながら小さくなっていく。
やがて二頭の姿が見えなくなった頃、俺はふと我に返り、隣で口を開けたまま空を見上げているフィネルに声をかけた。
「……なぁ、俺たちは歩いて帰るんだよな」
「……そうだね」
俺たちは二人で顔を見合わせ、呆れたように笑いあった。
あの日、アウロラはなぜ翼の治療を途中でやめたのか。
そして特級認定試験に失格しても、なぜあんなにも清々しく、とても満足した顔をしていたのか。
その本当の理由を知った俺たちは、彼女の優しさという強さを、心の底から誇らしく思った。
たとえ帰りの道のりがどれだけ遠くても、俺たちの足取りは信じられないほど軽く、どこまでも歩いていけそうな気がしていた。




