【第2話】聖女への決断
「エレオノーラ様、本当に歩いて行かれるのですか?」
教会の玄関前で、見送りに来てくれた司祭が少し困ったような顔をして私を見つめている。
今日から私とリオスが通うオルディナ学園までは、それなりに距離がある。教会は当然のように蒸気自動車での送り迎えを提案してくれたのだが、私はその申し出をきっぱりと断った。
聖女となってからの三ヶ月間、教会の敷地内から出ることが滅多になかった私にとって、せめて毎日の通学の道のりくらいは自分の足で歩き、外の空気を吸って気分転換がしたかったのだ。
「大丈夫よ。それに、こうしてリオスがついてくれているし」
「ええ。エレオノーラ様のことは、俺が命に代えてもお守りいたします」
私の斜め後ろに控えていたリオスが、静かな、けれど一片の迷いもない声でそう言った。
平然とそんな大層な言葉を口にする彼の横顔をちらりと見上げると、胸の奥が少しだけドキドキと高鳴る。
「いってらっしゃいませ」
司祭の丁寧な一礼に見送られ、私たち二人は丘の上に立つ教会から、王都の街へと続く長い坂道をくだりはじめた。
昨日新調したショートブーツの中で、靴擦れを起こしたかかとが少しだけ違和感を持っている。
けれど、彼が選んでくれたお気に入りのブーツと、今日から始まる新しい生活への期待が、その小さな痛みを忘れさせてくれた。
そんな私の生活が、そして人生そのものが劇的に変わったのは、今からちょうど三ヶ月前のことだった。
――
「すみません、こちらに十七歳の少女がおられませんか?」
「……あの、いったいどのようなご要件でしょうか?」
私がまだ孤児院で暮らしていたある日の午後、シスターがおそらく教会の司祭であろう人物と、玄関先で真剣な表情で言葉を交わしていた。
「これは失礼いたしました。私はストラ教会のイグナティウス教皇の使いのものです。実は、こちらの孤児院から次代の聖女様が現れるとお告げがございました」
「せ、聖女様が!? 少しお待ちください!」
いつもは穏やかで落ち着いているシスターが、その時ばかりは血相を変えて子どもたちが集まる庭へと駆け出してきた。
「ベアトリス、ベアトリスはいる?」
「はい、シスター。どうしました?」
庭で小さい子どもたちの面倒を見ていた私が返事をすると、珍しく慌てふためいているシスターに手首を掴まれ、そのまま半ば強引に司祭の元へと連れて行かれたのだ。
この孤児院で育った私はベアトリスという名前を貰い、ずっとそう呼ばれていた。
「この娘はベアトリスです。うちの孤児院で十七歳なのは、この娘だけです」
司祭は私の顔をじっと見つめると深く頷き、そのまま私をストラ教会へと連れて帰った。
初めて訪れた教会は、まるで王都にそびえるお城のように巨大で、圧倒されるほど豪華だった。
私は一階の大聖堂に案内された。
そこで不安に震える私を優しく出迎えてくれたのは、今では実の祖父のように温かく接してくれる、第四十七代教皇イグナティウス様だった。
白に金糸で刺繍が施された美しい聖衣をまとい、穏やかなグレーの瞳をした教皇様は、とても悲しそうな顔をして私に語りかけ始めた。
「先代の聖女が亡くなられてから半年、ついに次の聖女が現れるとお告げがあった。君は、聖女についてどれくらい知っているかな?」
「この島国であるオルディナ王国では、魔法を使えるものは誰一人として生まれてこない。でも、聖女様だけは唯一、癒しの魔法が扱えると聞きました」
「その通りです。聖女に選ばれたものは、神の奇跡として信者の傷や病を癒す使命を得ます。そして……聖女は同時に、長くは生きられないという過酷な運命も背負うのです。先代の聖女も、二十六歳という若さでこの世を去りました」
「……二十六歳」
「あなたはこの過酷な運命を受け入れ、聖女となることを承諾しますか?」
教皇様の言葉に、私は息を呑んだ。
小さな頃から孤児として育った私は、二十歳になったらあの孤児院を独り立ちしなければならないと分かっていた。
特別な才能もなく、後ろ盾もない私。きっとどこかの店で少ない給料で働き、いつか誰かと出会って結婚し、貧しくても平穏で幸せな生活を細く長く送るのだろうと、漠然とそんな未来を想像していた。
けれど、何者でもない一生をただ長く生きるよりも、聖女の使命を受け入れ、自分の力で多くの病める人や傷ついた人を救って死んでいく。
そんな人生の方が、私という存在が生きた意味を残せるのではないか。そんな思いが不思議と心の中に湧き上がってきたのだ。
「……はい、私は聖女の運命を受け入れます」
私の迷いのない決意を聞くと、教皇様はうっすらと目に涙を浮かべながら、懐から一つの小さな指輪を取り出した。
「これは代々受け継がれている聖女の指輪です。これを聖女が身につけると、その証として、死ぬまで指から外れることはありません」
私は緊張で震える指でその小さな指輪を受け取り、ゆっくりと左手の人差し指にはめた。
その瞬間だった。
まるで激しい雷が直接頭に落ちたかのような、強烈な衝撃が全身を貫いた。
視界が真っ白な光に包まれ、脳内に処理しきれないほどの膨大な情報が流れ込んでくる。それと同時に、自分の中の何かとても大切なものが、記憶の深い海の底へと静かに沈んでいくような、不思議で哀しい感覚に襲われた。
「お嬢さん、大丈夫ですか……?」
気がついた時、私は教皇様の優しい腕に抱きとめられていた。
ゆっくりと目を開ける。
「……はい」
「あなたが本当に聖女の力に目覚めていれば、今この瞬間から癒しの力が使えるはずです」
言われて、私は自分の両手を見つめた。
理由は分からない。けれど、自分の体の中に温かい魔力が満ちていて、回復魔法を使えるという確かな確信がそこにはあった。
両胸の前で手を重ね、治癒の祈りを込めると、私の身体から眩い緑の光の粒が溢れ出し、まるで夏の夜空を舞うホタルのように、広い大聖堂内へふわりふわりと美しく舞い散った。
「おお……やはりお告げは間違いなかった。あなたこそが第二十八代、聖女エレオノーラだ」
こうして孤児ベアトリスは、新たな聖女、エレオノーラとしての名前と、その過酷な運命を受け継いだのだった。
――
「いい天気で良かったですね」
隣を並んで歩くリオスの穏やかな声に、私は三ヶ月前の記憶の海から引き戻された。
「……そうね。少し暑いくらいね」
坂道を下りきった王都のメインストリートは、朝の活気に満ちていた。
街のあちこちに設置された太いパイプからはシューッと白い蒸気が吹き出している。この高度に発達した蒸気機関から発せられる熱のおかげで、オルディナ王都は冬でもそこそこ暖かく過ごすことができるのだ。
直径二百キロメートルほどの大きさを持つ、この島国オルディナ王国は、島全体に特殊な磁場が発生している。
その磁場のおかげで太古より魔獣が島に寄り付かず、今では一匹も魔獣が存在しない奇跡の国となっていた。そのため、魔獣の脅威に晒されている諸外国の一部からは、この島自体が神聖視されているほどだ。
しかし、その特殊な磁場は島民にも大きな影響を与えていた。
人間の体内に血管のように張り巡らされ、魔力を体外に放つために必要な器官である『魔力網』が、磁場の影響で全く成長しないのだ。
つまり、国民は体内に魔力を持ちながらも、誰一人としてそれを魔法として扱うことができない体質を持っていた。
魔法文明が発展しない代わりに、オルディナ王国では他国には見られない独自の機械化が進み、このような高度な蒸気機関が街を支える珍しい国となったのだ。
パパパーーンッ!
突然、耳を突くけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
「危ないっ!」
朝の出勤に遅れそうになって焦っていたのか、一台の蒸気自動車が、猛スピードでメインストリートの人混みを縫うようにこちらへ突っ込んできた。
避ける間もないと思って身を縮めた瞬間、強い力で腕を引っ張られた。気がつくと私は、男らしい力強い腕の中にすっぽりと閉じ込められていた。
猛スピードの蒸気自動車が、激しい風を巻き起こしながら駆け抜けていく。
「ふぅ……一体どこを見て運転しているんだ」
頭上から、少しだけ呆れたようなリオスの声が降ってくる。
私は、彼の広い両腕にしっかりと抱きしめられていた。彼の胸の鼓動と、少し甘いような髪の香りが鼻をかすめる。
なんだかとても落ち着くような気がして、私は無意識に自分から彼の胸に顔を埋めていた。
しかしその瞬間、昨日の夕暮れに、丘の道で背負ってもらった時の記憶が蘇り、心臓が跳ね上がった。
「リ、リオス……。わ、私はもう大丈夫だから……!」
私が慌てて彼の胸をぐっと手で押し返すと、リオスはすぐに腕を解いて一歩後ろへ下がった。
「ああ、失礼しました。お怪我はありませんか?」
私はこんなに心臓を早鐘のように打たせ、落ち着かない気持ちで胸がいっぱいになっているというのに、当のリオスは涼しい顔で平然と微笑んでいる。私は彼のそんなところが、少しずるいと思った。
「さ、早く行きましょう。初日から遅刻するわよ!」
動揺を悟られたくなくて、私はあえて強い口調でそう言った。
ブーツの中の、かかとの絆創膏に少し不安を感じているが、私はリオスを置いて、少しだけ早足で学園への道を歩き始めた。




