【第1話】夕凪のエレオノーラ
どこまでも続く水平線。
鏡のようにオレンジ色の夕日を反射する夕凪の水面を、まるで滑るように飛ぶ一羽の鳥。
鳥は翼に風を受けながら、くるくると踊るように海上を舞う……。
そんな心地よい、鳥になった夢から目覚めると、私はゆっくりと重い瞼を開けた。
「……またあの夢。……ふふっ、ひょっとしたら私の前世は鳥だったのかもね」
ベッドの上に起き上がり、小さく伸びをする。この夢を見たあとは、なぜかいつも心がとてもあたたかい気持ちになっている不思議な感覚があった。
ここは王都の高台にある丘の上に建てられた『ストラ教会』。
教会と言っても、見た目は立派なお城そのものだ。その八階にある私室のベッドから降り、ゆっくりと窓際へ向かう。
「あれ? 立ちくらみかしら……違う、地震だわ。……もうおさまった……最近小さな地震が多いわね」
私は気を取り直して窓を開けると、爽やかな朝の風と共に美しい朝日が差し込んできた。
目を細めて遠くを見つめると、街並みの向こうにキラキラと光る海が見える。
「もっと近くで海を見たいな……」
思わず独り言が漏れる。だが、私にはそれは叶わない。
私が視線を少しだけ下に移すと、一階にある大聖堂の門の前には、すでに信者たちが長蛇の列を作っていた。
「いっけない、急がないと!」
私は慌てて窓を閉め、急いで身支度を始めた。
鏡の前で赤髪のロングヘアを整えていると、髪色と同じ自分の赤い瞳と目が合った。
服を着替えた私は、今日も聖女の証である、赤い石がはまった小さな指輪が、左の人差し指に光っていた。
長い廊下を歩いていると、すれ違う使用人や司祭たちが皆、足をとめて深く頭を下げてくる。
「おはようございます。エレオノーラ様」
「おはようございます」
私は笑顔で挨拶を返しつつ、一階の大聖堂へと足を運んだ。大聖堂への重い扉を押し開けると、厳かな空気と静寂が満ちている。
「おはよう、エレオノーラ」
祭壇の近くで初老の男性が、とても優しそうな笑顔で微笑みかけてくれた。
第四十七代教皇、イグナティウス様だ。
白に金糸の刺繍が施された美しい聖衣をまとい、優しげなグレーの瞳が私を見守っている。
「おはようございます、教皇様」
挨拶をかわした私は、大聖堂の奥にそびえ立つ、高さ約十二メートルもある『ストラ神』の巨大な石像の前に進み出た。
ストラ神は両手のひらを上に向け肘を曲げた状態で、軽く上を向いていた。
胸の前で手を組み、目を閉じて深く祈りを捧げると、体の奥底からあたたかな力が溢れ出した。
やがて私の身体から溢れ出した小さな緑の光の粒が、ストラ像へと吸い込まれていくと、像が淡い光を放って輝き始めた。
ストラ像がすべての光の粒を取り込むと、淡い輝きは静かに収まり元に戻る。
「お疲れさま、エレオノーラ。今日もありがとう。さぁ、朝食を食べにお行き」
教皇様がいつものようにやさしく語りかける。
「はい、もうおなかペコペコです!」
私が自分の胃袋あたりを押さえながらそう答えると、教皇様は目尻を下げて温かく微笑んでくれた。
私が大聖堂の奥の扉から退出すると同時に、司祭が外側の門と扉を開け、待ちわびていた信者たちを順番に大聖堂内へと招き入れる気配がした。
私が信者たちと直接顔を合わせることはない。聖女と直接会うことが許されるのは、信者の中でもほんの一部の特別な者だけなのだ。
扉の向こうから、司祭の凛とした声が聞こえてくる。
「さぁ、順番に手を」
「我はストラの子、エレオノーラの民である……」
信者が熱心に信仰の言葉を口にしながら、先ほど私が祈りを込めたストラ神の石像に触れる。
すると像が再び淡く輝き、癒しの光が腕を伝って信者の全身へと流れ込んでいく。
「こ、腰の痛みが消えた……。ありがとうございます!」
「その言葉は私ではなく、ストラ神とエレオノーラ様へ。さぁ、次の方」
司祭が次の信者に声をかけ、奇跡への感謝と歓喜の声が続いていく。
その声を背中に聞きながら、私は朝食をとるために食堂へと向かった。
――
大食堂の扉の前まで来ると、そこには直立不動で立っている長身の男性の姿があった。ネイビーのミディアムヘアに黒い瞳。クールな佇まいの彼を見上げ、私は声をかける。
「おはよう、リオス」
「おはようございます。エレオノーラ様」
彼は私の専属護衛騎士であるリオスだ。
リオスが礼儀正しく一礼すると、左耳にだけ付けている、シルバーのピアスがキラリと揺れた。
それはチェーンの先に菱形のプレートが下がり、その真ん中に青い石がはまった、見慣れないデザインだった。
彼は食堂の重いドアをさっと開け、私が座るテーブルの椅子を自然な動作で引いてエスコートしてくれる。
大食堂の中では、多くの司祭や使用人たちが朝食を食べながらガヤガヤと楽しそうに話をしている。
私が孤児院からこの教会に来たばかりの頃は、食事といえば静寂の中で寡黙に済ませなければいけないものだと思っていた。
だから最初にこの賑やかな光景を見た時は、いい意味で拍子抜けしたのを覚えている。
「お待たせいたしました」
席についた私の向かいに、リオスが二人分の温かい料理が乗ったトレーを持ってきて座った。
今日のメニューは焼きたてのパンと、具だくさんのあたたかいスープ、そして彩り豊かな野菜のソテーと香ばしく焼かれた少量のお肉だ。
「「いただきます」」
二人で手を合わせ、食事を始める。
「あ、このスープ。エビが入ってるわ」
「エビ、お好きですもんね」
シーフードのスープを一口飲み、パンに手を伸ばしたところで、私はあることに気がついた。
向かいに座る彼の皿の上に、鮮やかなオレンジ色をしたにんじんのソテーが四つも乗っている。そして、私の皿の上のソテーには、にんじんがひとつも見当たらない。
周りのテーブルで食事をしている人たちの皿を見回すと、みんなの皿には平等に二つずつにんじんのソテーが乗っていた。
「リオス、それ……」
私は彼のお皿のにんじんを指さした。するとリオスは、少しだけ目を丸くしたあと、くしゃっと目を細めて笑った。
「ああ。にんじんは、お嫌いでしたよね」
切れ長の目で一見するとクールで冷たそうに見える彼だが、笑う時には、こうして顔がくしゃっと崩れる。
私は彼のこのギャップのある笑顔がとても好きだ。
「ええ……。だけど私、エビが好きだとか、にんじんが苦手だって言ったかしら?」
私が首を傾げると、リオスは穏やかな声で答えた。
「はい。以前お聞きしましたよ」
そんな記憶は本当になかったけれど、彼がはっきりとそういうなら、きっと雑談の合間にでも私が話したのだろう。
彼が私のために自分の皿へ移してくれたのだと思うと、なんだか胸の奥があたたかくなる。
「きっとそのにんじんは、特別に美味しいはずよ。よかったわねリオス」
「え、そうなんですか? じゃあ、お返しした方がよさそうですね」
「え!? い、いらないわ!」
賑やかな食堂の中で、そんな風にじゃれ合う私たちは、美味しい朝食の時間を共に過ごした。
やがて食後の紅茶を飲み終え、二人で食堂を後にする。
長い廊下を歩きながら、リオスが私を気遣うように声をかけてきた。
「今日は午後からお買い物に行かれるのでしたよね。出かける時は必ず声をかけてください」
「ええ、分かっているわ」
一緒に私の部屋の前まで来ると、一度リオスと別れた。彼は私の専属護衛騎士であるため、万が一に備えて、部屋もすぐ隣に割り当てられている。
部屋に戻って読書を始めた私は本に夢中になってしまい、そのままソファーで軽い昼食を取った。
――
「あ、いけない! もうこんな時間」
気がつけば時計はすでに十四時を指している。
私はお気に入りの小説、『魔法使いと竜の親子』を慌ててテーブルの上に置いた。
私はなぜか、ドラゴンが出てくるお話に強く惹かれてしまうのだ。
そそくさと外出の身支度を済ませた私は、隣のリオスの部屋の扉を軽くノックした。
すぐに扉が開き、リオスが現れた。騎士の制服を脱いで少し簡素な装いに着替えている。
それでも腰には、いつものように剣を携えていた。
「行きましょうか」
リオスは目を合わせて穏やかに微笑んだ。私は小さく頷き、並んで街へと歩き出した。
私たち二人は夏休みが明ける明日から、王国で一番大きなオルディナ学園へ、編入することになっている。
孤児だった私はこれまで街の小さな教会の中で勉学を教えてもらっていたが、聖女としてより高度な教育を受ける必要が出てきたのだ。
そして今日の目的は、明日からの学園生活に向けて、私の新しい靴を買いに行くことだった。
「教皇様ったら、新しい制服に合わせて靴も新調しなさいだなんて。私は今の靴が歩きやすくて気に入っているのに。新品だと靴擦れしちゃうかも」
「しかしその靴では、学園の規定に合いませんよ」
私はリオスの言葉を聞き流しながら、石畳の坂道をくだる自分の足元を見下ろした。
今までずっと履き慣れてきた、少しばかりくたびれたローファー。こんな贅沢な悩みを口にすると罰が当たるかもしれないと思いつつ、つい愚痴がこぼれてしまう。
すると、隣を歩くリオスが優しく微笑んだ。
「靴擦れした時には、俺がおんぶしますよ」
「な、何言ってるのよ! そ、そんなカッコ悪いことできるわけないでしょ!」
「そうですか。それは残念です」
リオスは時折、恋人や年の離れた妹に向けるような優しさで甘やかしてくる。
いや、彼のいたずらっぽい微笑みを見ていると、ただ単に私をからかっているだけなのかもしれないけれど。
街の中心部にある洗練された雰囲気の靴屋に到着すると、店員が笑顔で迎え入れ、いろいろな靴を勧めてくれた。
学園の制服には規定があり、靴は紐が付いていることと定められていた。毎回紐を結んだりほどいたりするのが、今から面倒に思えてくる。
私が悩んでいると、棚を見ていたリオスが一足の靴を持ってやってきた。
「こちらはどうですか?」
彼が差し出したのは、上品な焦げ茶色のレースアップのショートブーツだった。確かに素敵だけれど、こんな風に足首まで編み上げられていると履くのが大変そうだ。
「もう、どれでもいいかな……」
学園のちょっとした規定が、極度のめんどくさがりの私を苦しめる。
私がため息をつきそうになったその時、リオスがいたずらっぽく微笑み、手に持ったブーツをくるりと横に向けた。
「こ、これは!」
私は思わず声を上げ、歓喜した。
なんと、そのブーツの内側には目立たないようにジッパーが付いていたのだ。
「これにします!」
私が靴屋の椅子に座って試着している間に、リオスはさっとレジへ向かい、支払いを済ませてくれる。
その頼もしい広い背中を見つめながら、心の中で小さく呟いた。
どうしてこの人は何も言わなくても、私のことをこんなに理解してくれるのだろう。
出会ってまだそれほど経っていないはずなのに、まるでずっと昔から私の好みや性格を知り尽くしているかのような振る舞いに、彼に対する不思議な温かい気持ちと信頼感が、日に日に大きくなっていくのを感じていた。
「せっかく街にきたんだから、もう少しぶらぶらしてから帰りましょうよ」
店を出て明るい日差しの中に出た私が提案すると、リオスは一礼して答えた。
「はい、お供いたします」
「はぁ、その言葉づかいは教会の中だけにしてって言ってるでしょ。同じ歳なのに、なんかムズムズするの」
「そうはいきません。俺とあなたでは身分が違いすぎる」
普段はあんなに甘やかしてくるくせに、こういうところは変に頑固で融通が利かない。私は少しだけ頬を膨らませた。
「明日いきなり履いたら靴擦れするかもしれないから、今から履くわ」
私は先ほど買ったばかりの新品のショートブーツに履き替えて、リオスと一緒に賑やかな王都の街を楽しんだ。
少し頭が固くて真面目すぎるリオスだが、孤児院を離れてから同世代の友人が一人もいない私にとって、彼は出会って間もないにもかかわらず、すでに一番の友人であり、大切な存在になっていた。
――
街を存分に散策した私たちは、夕暮れ時になり、教会へと続く高台の丘の道を二人でゆっくりと歩いていた。
「痛っ……」
私はサイドジップのショートブーツが嬉しくて、調子にのって街を歩き回った結果、どうやら両足のかかとに靴擦れをおこしてしまったようだった。
「靴擦れですか? でしたら、回復魔法ですぐに治せますね」
「うぅん、ダメなの。聖女はなぜか、自分を癒すことができないの……」
足の痛みに立ち止まり顔をしかめると、リオスがすっと私の前へ進み出て、背中を向けてかがみ込んだ。
「ちょ、ちょっとリオス!」
「大丈夫ですよ。この時間、教会に向かうこの道を歩く人は、ほとんどいませんから」
確かに丘の頂上へと続くこの長い坂道には、私たちの他に人影は見当たらない。
ここで無理をして歩き続ければ、明日の学園生活の初日にひびくかもしれない。
迷った末に、私はおずおずと彼の広い肩に片手を置いた。
ただそれだけのことで、小さく胸が跳ねる。
夕焼けのオレンジの光に照らされ、石畳の上に長く伸びた二つの影が、一つに重なった。
彼の背中に身を預けて腕を回すと、リオスは軽々と私を背負い上げて歩き出す。
彼の広い背中と自分の胸がぴったりと重なると、心臓の激しい鼓動が、音となって彼に聞こえてしまいそうなほど大きく打ち始めた。
普段自分の足で歩いている時の視線とは違う、少し高い視界。リオスはこんな景色をいつも見ているのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
今、私はどんな顔をしているのだろうか。きっと茹でエビのように真っ赤になっているに違いない。
そんな恥ずかしさを隠すように、私は彼の温かい背中に黙って揺られていた。
「ほら、海が見えますよ」
しばらく歩いた後、彼が急に優しい声で口を開いた。気がつくと、私たちはすでに教会の敷地の門の前にまで来ていた。
リオスが私を背負ったまま、ゆっくりと来た道を振り返る。
眼下には王都の街並みが広がり、そのさらに遠くには、夕日が今まさに沈もうとしている、オレンジ色に染まった海が見えた。
鏡のような水面が残光を反射し、息をのむほどに美しく輝いている。
「きれい……私、海を眺めるのが、すごく好きなの……」
自然と、私の口からそんな言葉が漏れていた。
「……ええ……知っています」
そう答えたリオスの声は、なぜかひどく哀しい響きだった。
丘の上を心地よいそよ風が吹き抜け、彼の少し長めのネイビーの髪を揺らす。そこから漂う、清潔でどこか懐かしい香りが、私の高鳴っていた心臓を不思議と優しく落ち着けていった。
聖女の力に目覚めた者は、海に近づくとその強大な癒しの力が弱まると言い伝えられており、私は港町へ行くことすら許されていない。
だから私にとって、海はこうして遠くから眺めるだけの、決して届かない憧れの場所になってしまった。
背中の私を優しく気遣いながら、リオスが前を向いたまま静かに呟いた。
「いつか二人で、海に行きましょう……」
その言葉の温かさに、私はこくりと小さくうなずく。
「……うん」
私たち二人は、眩しい夕日が完全に水平線の向こうへ沈みきるまで、何も言わずにただ静かに、遠くの美しい海を眺め続けていた。




