【第17話】帰国
ザザァーーーー……ザッザッザッ……。
足元で激しく渦巻いていた水流が静かに溶け、俺の足がソラリス大陸の柔らかな砂浜をしっかりと踏みしめた。
オルディナ王国の岸壁から海面を滑り続けること約二十分。
大きく息を吐き出しながら振り返ると、赤紫色からオレンジ色へと変わりゆく朝焼けの水平線の向こうに、オルディナ王国がグレーのシルエットとなって静かに佇んでいる。
対岸からおよそ三十キロメートル。
一切の休息を挟まずに海の上を滑り続ける程度は、水属性の魔導師である俺にとっては取るに足らないものだった。
俺は左耳につけている、青い石のはまった菱形のピアスを指先で軽く弾いた。
リン……。
澄んだ音と共に目の前の空間が水面のように揺らぎ、俺の杖はピアスの特殊な空間の中へと音もなく吸い込まれて消えた。
俺は砂浜を力強く蹴り、ある場所を目指して再び走り始めた。
目指すのは自分の家ではない。
誰よりも先に報告しなければならない人がいる場所だ。
「はぁ、はぁ……」
息を切らしながら走り続け、見慣れた壮麗な鉄門の前にたどり着いた。
「ん? 何か御用でしょう……あ、あなたは、エリアス様!」
門番は不審者を見るような目を向けてきたが、俺の顔を認識した瞬間に目を大きく見開いた。
「すぐに旦那様へおつなぎいたします。さぁ、こちらへ」
門番は慌てた様子で重い鉄門を開け、他の使用人に指示を飛ばしながら屋敷の奥へと走っていった。
案内された応接室のソファに腰を下ろし、俺は深く息を吐き出した。
ソラリス神聖帝国は魔法文明が発達しており、部屋の明かりも空調もすべて魔石を動力源としている。
オルディナ王国の蒸気機関とは違う、微かな魔力の気配が満ちるこの空間が、自分が故郷に帰ってきたのだという実感を少しだけ湧かせてくれた。
しばらく待っていると、ワゴンを押したメイドがティーセットを持って部屋へ訪れた。彼女もまた、俺とアウロラが幼い頃からこの屋敷でよく世話になっていた顔なじみだ。
「おはようございます、エリアス様……よくぞご無事で……」
ティーカップをテーブルに置く彼女の手は、微かに震えていた。
「みんなに心配をかけたようですまない」
俺が短く謝罪すると、メイドは首を横に振った。
「いいえ。エリアス様はきっと戻られると、みな信じておりました」
メイドが目を潤ませながら呟く。
彼女がどれほどアウロラと俺のことを心配してくれていたかが伝わり、胸が締め付けられた。
コンコンコン……ガチャ。
その時、ノックの音と共にドアが開かれ、一人の男性が足早に部屋へ現れた。
アウロラの父親である、リンドフェルト伯爵だ。
「エリアス様、起きたばかりでしたので、この様な格好で申し訳ありません」
伯爵は普段の隙のない貴族の装いではなく、シャツに上着を羽織っただけの簡素な格好で、髪も少し乱れていた。
門番からの報告を聞いて、大急ぎで駆けつけてくれたのだろう。
「おはようございます、リンドフェルト伯爵。俺の方こそ、こんな朝早くに突然訪問して申し訳ありません。ただ、一刻も早くお伝えしなければいけないことがあったもので」
俺はソファから立ち上がり、深く一礼した。
お茶を出し終えたメイドが気を遣って一礼し、部屋から退出しようとするのを見て、俺は思わずその背中を引き止めた。
「待ってください、アンさん。この話は屋敷の方たちにも聞く権利があります」
俺のその言葉に、メイドのアンは驚いたように立ち止まり、伯爵はハッとして目を見開いた。
「ひょっとして……」
伯爵の震える声に、俺は真っ直ぐに彼の目を見て頷いた。
「はい。アウロラを、見つけました」
ガタンッ!
伯爵は勢いよくソファから立ち上がり、その膝が応接テーブルを激しく揺らした。
ティーカップの水面が波打つ。
「無事、だったんですね……。エリアス様は一人でずっと、あの娘を探してくださってたんですね。……ありがとうございます」
伯爵の声は涙で震え、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えているようだった。
ドアのそばに立ち止まっていたメイドも、その目にハンカチをあて、声を押し殺して泣いている。
アウロラが突然失踪したあの日から、この屋敷の時間は止まっていたのだ。
彼女の無事を知った家族たちの反応を見て、俺はどうしようもない不甲斐なさに下唇を噛んだ。
「感謝はまだ早いです、伯爵。俺は彼女を連れ帰ることができませんでした……申し訳ありません」
俺が深く頭を下げると、伯爵は首を強く横に振った。
「いいえ、あの娘の無事がわかっただけでも、大きな一歩です。生きてさえいてくれれば、必ず連れ戻します。……それであの娘は今どこに?」
「それは、オルディナ王国です」
「オルディナ王国! なぜあの島に?」
ソラリスとは海を挟んだ対岸にあるとはいえ、国交も制限されているあの国に、アウロラがいると聞いて伯爵が驚くのも、無理はなかった。
「俺はあの島国に四ヶ月間潜入していました。あそこで見てきたことを、すべて話しましょう……」
俺はオルディナでの出来事を順を追って伯爵に話しはじめた。
アウロラが記憶を封じられ、自分が孤児のベアトリスだと刷り込まれ、聖女エレオノーラとして教会に利用されているという事実を。
「……そんなことが」
すべてを聞き終えた伯爵は、ギリッと歯ぎしりをして拳を握りしめた。
その顔は怒りと悲しみに満ちていた。
「伯爵には、このことを国に報告して、騎士団を動かしてもらえるようにかけあってください。俺は彼女の記憶を取り戻す術を探ります」
「わかりました……。人の命をすり減らして信仰を維持するなど、断じて許されることではない。……エリアス様、お願いですから、あまり無茶をしないように」
「それは聞けない忠告かもしれません。俺の命に代えても、彼女を救い出すと決めていますから」
俺がわずかに口角を上げて答えると、伯爵は困ったように微笑み、深く頭を下げた。
「あなたには何度、娘を助けられるのか……とにかく、お気をつけて」
「はい。……あ、そうだ。竜舎に寄って帰ってもかまいませんか?」
「もちろんです。黒曜と白珠も喜びます」
俺はメイドのアンに見送られながら、玄関を出て敷地内にある竜舎へと向かった。
「久しぶりだな。おまえたち」
そこには黒い鱗を持つ勇ましい母ドラゴンの『黒曜』と、真珠色の鱗を持つ美しい雌の子ドラゴンの『白珠』がいた。
この二頭は騎竜用の小型種のドラゴンである。小型と言っても、当然馬とは比較にならない大きさである。
白珠はまだ小さく、人を乗せて飛ぶことはできないが、黒曜はかつて、最上位の騎竜として活躍していた。
二頭は俺の姿を見ると、嬉しそうに鼻先を擦り寄せてきた。
「お前たちのご主人様を見つけた。すまないが、もう少しだけ待っていてくれ」
黒曜と白珠は俺の言葉を理解しているかのように、まっすぐに俺を見つめ、ゆっくりとまばたきをした。
外へ出ると、すっかり太陽は上っており、爽やかな朝の風が頬をかすめた。
そして俺は一度自宅へと戻るため、リンドフェルト伯爵家を後にした。
――
俺が屋敷に戻ると、家は大騒動になった。
「エリアス様! 今まで一体どこに?!」
「お坊ちゃまがお戻りに!」
使用人たちが慌てふためき、廊下を駆け回る足音が鳴り響く。
俺は風呂に入りたかったが、執事に懇願され、とりあえず応接室で腰をおろした。
ドタドタドタドタ……バンッ!
「エリアス!」
「お兄様!」
応接室のドアがノックもされずに激しく開き、両親と妹が血相を変えて飛び込んできた。
俺は家族をなだめ、この四ヶ月のことを同じように伝えた。
アウロラが置かれている状況と、俺が一人で海を渡り、護衛騎士として潜入していた事実を。
「そうか、わかった。……しかし、なんて無茶なことを。お前がもしあちらで捕まっていれば、国際問題に発展していたかもしれないのだぞ。これからは必ず事前に相談をするんだぞ、いいな」
父上の厳しい言葉が、重く胸に刺さる。
(どうやら俺が捕まったことは、伏せておいた方がよさそうだ……)
「ですが父上、正直に言ったところで、許してはいただけたのでしょうか?」
「そ、それは……」
俺が真っ直ぐに目を見て問い返すと、父上は言葉に詰まった。
確証もないまま鎖国国家に潜入するなど、当主として許可できるはずがない。
俺もそれがわかっていたからこそ、黙って向かうしかなかったのだ。
「もういいじゃありませんか、こうして無事に帰ってきたのですから」
母上が父上をなだめながら、涙ぐんで俺の手を握った。
「お兄様、もう勝手にいなくならないでくださいね」
三歳年下の妹、プリシラが、真っ赤な目で俺の服の袖を強く握りしめて釘をさす。
「わかったよ、プリシラ。心配かけてごめんな。……この後、俺は昼食を取ってからフィネルのところへ行きます」
「そうか。私も色々と、国にかけ合ってみよう。我がアインズワース侯爵家とリンドフェルト伯爵家が連携すれば、上層部も動かざるを得ないはずだ」
頼もしい父上の言葉に感謝し、俺は自室へと戻った。
こうして、俺は数ヶ月ぶりに屋敷の広い風呂に入り、潮風と汚れを洗い流した。
真新しいソラリスの衣服に着替えを済ませ、家族と共に久しぶりの温かい昼食をとった。
「じゃあ行ってくるよ」
玄関の鏡で髪を整える俺に、執事が心配そうに声をかけてきた。
「本当に馬車を出さなくてよろしいのですか?」
「ああ、久しぶりのこの国の空気を吸いながら散歩がしたいんだ」
俺は執事にそう言って屋敷を出て、真上に上った太陽の、眩しい日差しを浴びながら歩きはじめた。
行き交う馬車や獣車、魔石で動く街灯、空を飛ぶ配達用の魔導具。
オルディナの蒸気機関が放つ白煙と機械音に慣れはじめていた俺にとって、この魔法に満ちた日常の風景はとても懐かしく、同時に自分が為すべきことを強く再認識させてくれた。
「待っていてくれ、アウロラ。必ず君を、俺たちの元に取り戻してみせる」
俺は決意を胸に秘め、ルトウィンズ伯爵家へと向かう道を歩みながら、俺たち三人の出会いから今までを思い返していた。




