Review25 会ってはいけない二人
翌日。
佐伯は、約束どおり会社へ向かった。
昨日と同じ自動ドアを抜け、受付で名前を告げる。
「佐伯です。昨日、総務の方にお願いしていた件で」
受付の女性は、すぐに頷いた。
「伺っております。少々お待ちください」
「ありがとうございます」
佐伯は受付前の椅子に座った。
昨日は、退職届を握り締めてここにいた。
今日は何も持っていない。
聞きに来ただけだ。
自分が知らない自分が、この会社で何をしていたのか。
誰と話し、何をして、どんなふうに見られていたのか。
怖くないわけではない。
むしろ、帰りたい。
今すぐ立ち上がって、この建物から出ていきたい。
けれど。
知らないまま「偽物」と呼ぶのも、違う気がしていた。
「佐伯さん」
声を掛けられ、顔を上げる。
昨日の総務担当者だった。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
「はい」
案内されたのは、小さな会議室だった。
男性は向かいに座ると、少し困ったように言った。
「昨日お話しいただいた件ですが、業務上お伝えできない内容もあります」
「分かっています」
「そのうえで、佐伯さんご自身の勤務について確認できる範囲でしたら」
「お願いします」
佐伯は頭を下げた。
男性は手元の資料に視線を落とした。
「どこから確認しましょうか」
佐伯は少し考えた。
聞きたいことは、たくさんあった。
勤務時間。
仕事内容。
同僚との関係。
評価。
異動。
けれど。
最初に口から出たのは、もっと単純な質問だった。
「……僕、ここでどんな人でしたか」
男性が顔を上げた。
「どんな人、ですか」
「はい」
「それは……私から見た印象でよろしいですか?」
「お願いします」
男性はしばらく考えた。
「真面目な方だと思います」
佐伯は小さく笑った。
「……そうですか」
「仕事も丁寧でした。期限も守りますし、頼まれたことを途中で投げるようなこともありませんでした」
「人と話してましたか」
「もちろんです」
「普通に?」
「普通に、というのが難しいですが……少なくとも、必要なコミュニケーションは取られていましたよ」
佐伯は机の下で手を握った。
自分にはできない。
そう思った。
知らない人と話す。
毎朝会社へ来る。
頼まれた仕事を終える。
期限を守る。
それを二年間。
「……休んだことは?」
「体調不良で数日程度は。ただ、長期のお休みはありません」
「遅刻は?」
「私の記憶では、ほとんどありません」
「仕事で怒られたことは?」
男性が少し笑った。
「それはありますよ」
佐伯は顔を上げた。
「あるんですか」
「あります。誰でも失敗はしますから」
なぜか。
その言葉に、少しだけ救われた。
「……何をしたんですか」
「昨年、発注数を一桁間違えたことがありました」
「一桁?」
「はい。先方に連絡して、かなり慌てていました」
「怒られました?」
「上司には」
「……そうですか」
佐伯は、少し笑った。
完璧ではなかった。
自分の代わりに生きている、何でもできる自分。
ずっとそう思っていた。
でも。
間違えることもあった。
「その時、僕はどうしました?」
「謝って、訂正していましたよ」
「逃げなかったんですね」
男性が不思議そうな顔をした。
「ええ」
「……そうですか」
佐伯は俯いた。
胸の奥に、妙な感情があった。
羨ましい。
悔しい。
腹が立つ。
でも。
ほんの少しだけ。
知りたい。
「もう一つ、いいですか」
「はい」
「僕、会社で笑ってました?」
男性は一瞬、目を丸くした。
それから。
「笑っていましたよ」
佐伯は黙った。
「よく?」
「よく、かどうかは分かりません。ただ、昼休みに同僚と話している時などは」
「……そうですか」
佐伯は、それ以上聞けなかった。
◇
「高瀬先生」
「はい」
「聞いてました?」
「聞いてます」
「じゃあ、今の質問もう一回答えてください」
「……何でしたっけ」
「聞いてないじゃないですか」
教室に笑いが起きた。
高瀬は額を押さえた。
「悪い。もう一回頼む」
生徒が笑いながら質問を繰り返す。
高瀬は今度こそ最後まで聞いた。
佐伯のことが気になっていた。
今日、会社へ行くと聞いている。
けれど、だからといって目の前の生徒の時間を雑に扱っていい理由にはならない。
「なるほどな。そこは――」
高瀬は黒板に簡単な図を書いた。
説明を終えると、生徒が「分かった」と頷いた。
「先生」
三上が手を挙げる。
「何だ」
「今日ちょっと上の空じゃね?」
「……そう見えるか」
「うん」
「悪い」
高瀬は素直に答えた。
三上は少し意外そうな顔をした。
「なんかあった?」
「ちょっとな」
「手伝える?」
その一言に、高瀬は少し驚いた。
「いや。大丈夫だ」
「そっか」
三上は、それ以上聞かなかった。
高瀬は教室を見渡した。
「悪かった。戻ろう」
黒板へ向き直る。
完璧な教師ではない。
考え事もする。
失敗もする。
生徒に指摘される。
それでも。
戻ればいい。
「じゃあ、瀬川。さっきの資料、どう思う?」
「……こっちの地域のほうが、人口が減ってる」
「うん。そこから何が考えられる?」
「えっと……」
瀬川は資料へ目を落とした。
高瀬は待った。
急かさず。
答えを先に言わず。
ただ、待った。
◇
会社の会議室。
佐伯は、最後に一つだけ確認した。
「昨日のメールのことなんですけど」
「はい」
「僕が送ったことになっているメール」
総務担当者の表情が少し固くなる。
「退職についてのメールですね」
「送った人を、直接見た人はいませんか」
「メールですので……」
「そうですよね」
佐伯は頷いた。
「じゃあ、昨日じゃなくてもいいです」
「といいますと?」
「僕が働いていたところを見た人と、話せますか」
男性は少し考えた。
「本人の同意があれば、何人かには」
「お願いします」
十分ほどして。
一人の男性社員が会議室へ入ってきた。
三十代くらい。
金曜日、エレベーターで会った男だった。
「あ……」
男も佐伯を見る。
「佐伯さん」
「先日は、すみませんでした」
「いやいや。大丈夫ですけど……」
男性は戸惑いながら椅子に座った。
佐伯は、まっすぐ彼を見た。
「僕と、一緒に仕事してたんですよね」
「……はい」
「どれくらい?」
「一年半くらいかな」
「僕、どんな感じでした?」
男性は総務担当者を見る。
担当者が小さく頷く。
「普通だったよ」
「普通?」
「うん。真面目だし。ちょっと固いけど」
「……固い」
「飲み会とか全然来ないし」
「それは僕っぽいですね」
思わず口から出た。
男性が笑った。
「そこは覚えてるんだ?」
「あ……いえ」
佐伯も、少し笑った。
笑ってから。
胸が痛くなった。
この人は。
自分の知らない自分と、こうやって笑っていたのだ。
「……仲、良かったですか」
「まあ、普通に」
「友達ではない?」
「そこまで言うと佐伯に怒られそう」
「僕に?」
「『会社の人は会社の人です』って言いそうじゃん」
男性が笑う。
佐伯は笑えなかった。
知らない言葉。
でも。
なぜか。
自分なら言いそうだと思った。
「……一つ、聞いていいですか」
「うん」
「僕、仕事辞めたいって言ってました?」
男性の笑顔が消えた。
「……最近は」
「言ってたんですか」
「直接『辞めたい』とは聞いてない。ただ」
「ただ?」
「異動の話が出る少し前から、変だった」
佐伯は身を乗り出した。
「どう変だったんですか」
「たまに、確認してきたんだよ」
「何を?」
男性は眉を寄せた。
「『俺、今日ここにいましたよね』って」
佐伯の呼吸が止まった。
「……何ですか、それ」
「俺も冗談だと思ってた」
男性は続ける。
「昼休みに急に聞いてきたり。帰る時に、『今日、俺と話しましたよね』とか」
「……いつから?」
「いつだったかな……」
男性は考える。
「二、三か月前くらい?」
佐伯は動けなかった。
それは。
自分が会社について調べ始めるより前だった。
「その時、僕は……どんな顔してました?」
「どんなって」
「ふざけてました?」
男性は首を振った。
「いや」
少し間を置いて。
「怖そうだった」
「……怖そう?」
「自分がここにいたことを、確認してるみたいだった」
佐伯の指先が冷たくなった。
自分だけではなかった。
もう一人の佐伯も。
自分の存在を、確かめようとしていた。
◇
午後六時過ぎ。
高瀬のスマートフォンに、佐伯から電話が入った。
「お疲れさまです」
『先生』
声が違った。
「どうしました?」
『分からなくなりました』
高瀬は立ち止まった。
『あっちの僕も、自分がいるか確認してたみたいです』
「……どういうことですか」
佐伯は、会社で聞いた話をした。
『俺、今日ここにいましたよね』
『今日、俺と話しましたよね』
何度も。
同僚に確認していた。
高瀬は何も言えなかった。
『先生』
「はい」
『僕、ずっと思ってたんです』
佐伯の声が震える。
『あっちが本物になろうとしてるんだって』
「……」
『僕の人生を取ってるんだって』
佐伯は一度、息を吸った。
『でも』
その先の言葉が、なかなか出てこなかった。
『もし、あっちも同じだったら?』
高瀬は目を閉じた。
『あっちも、自分が消えるのが怖かったら?』
「佐伯さん」
『はい』
「今、どこですか」
『会社の近くです』
「一人ですか」
『はい』
「少し座れますか」
『……大丈夫です』
「分かりました」
高瀬は、何を言うべきか考えた。
慰めるのは簡単だった。
あなたが本物です。
あなたの人生です。
もう一人は偽物です。
そう言えば、佐伯は少し安心するかもしれない。
でも。
それを決める材料を、高瀬は持っていない。
「佐伯さん」
『はい』
「俺には、どっちが本物か分かりません」
沈黙。
「すみません」
『……いえ』
「でも、今聞いた話が本当なら」
高瀬はゆっくり言った。
「もう一人のあなたにも、本人にしか分からない何かが起きていた可能性はあります」
『……はい』
「だから、今は決めつけないほうがいいと思います」
佐伯は、長く息を吐いた。
『先生』
「はい」
『昨日の画面、まだ出てますか』
高瀬の背筋が固くなった。
「……出ています」
『僕と、もう一人の僕』
「はい」
『先生』
佐伯は言った。
『まだ、選ばないでください』
高瀬は目を閉じた。
「分かりました」
『僕、あっちのことを知りたいです』
「……はい」
『嫌いなまま消したくない』
その言葉に。
高瀬は、何も返せなかった。
◇
その夜。
高瀬は机の前に座っていた。
Reviewを開く。
『評価対象を選択してください』
『佐伯(本人)』
『佐伯(代替記録)』
変わっていない。
高瀬は、佐伯の言葉を思い出した。
『まだ、選ばないでください』
画面には触れない。
その代わり、昨日のノートを開いた。
『佐伯本人が、自分の意思で退職届を提出した』
『代替記録も退職を希望した』
その下に。
今日聞いたことを書く。
『代替記録は、二、三か月前から自分が会社にいたことを他人に確認していた』
高瀬はペンを止めた。
しばらく考えて。
もう一行。
『代替記録も、自分の存在を疑っていた可能性がある』
可能性。
事実ではない。
だから、そう書いた。
その時。
スマートフォンが震えた。
高瀬はReviewを見る。
二つの選択肢が消えた。
「……何だ?」
代わりに表示されたのは、一文だった。
『評価対象の選択を保留しました』
高瀬は眉を寄せる。
自分は何も押していない。
だが。
次の一文を見た瞬間。
指先が止まった。
『本人からの申請を受理しました』
「……本人?」
どちらだ。
高瀬は画面を見つめる。
さらに文字が現れる。
『接触申請』
『申請者:佐伯』
高瀬の鼓動が速くなった。
佐伯本人が何かしたのか。
すぐに電話をかける。
「佐伯さん」
『はい?』
「今、何かしました?」
『何かって?』
「Reviewに……いや」
佐伯はReviewを知らない。
高瀬は言い直した。
「誰かに連絡しました?」
『してませんけど』
「……そうですか」
『どうしたんですか』
「今、俺のほうに変な表示が出ました」
『何て?』
高瀬は画面を見る。
『接触申請』
『申請者:佐伯』
その下に。
新しい文章が表示された。
『接触場所を確認しました』
「……場所?」
『明日 18:00』
続いて。
高瀬は息を止めた。
表示されたのは。
あの会社の住所だった。
『接触対象:佐伯』
『接触人数:2』
「……二人」
電話の向こうで、佐伯が聞く。
『先生?』
高瀬は、すぐには答えられなかった。
画面の最後に。
もう一行だけ、表示された。
『同一人物同士の接触を開始します』
高瀬の背筋を、冷たいものが走った。
「佐伯さん」
『はい』
高瀬は画面から目を離せないまま言った。
「明日……会社に行く予定はありますか」
『え?』
「十八時です」
沈黙。
数秒後。
佐伯が答えた。
『……あります』
「誰かと会うんですか」
『今日話した人から、帰り際に言われました』
「何て?」
佐伯の声が震えた。
『明日、十八時に来てほしいって』
「……理由は?」
『僕に』
一度、言葉が途切れる。
『会いたい人がいるって』
高瀬はスマートフォンを握り締めた。
佐伯も。
もう一人の佐伯も。
互いの存在を確かめようとしていた。
そして明日。
二人は。
初めて。
同じ場所に立つ。




