Review24 本人確認
月曜日の朝。
佐伯は、会社の正面玄関の前に立っていた。
右手には封筒。
中には、土曜日に書いた退職届が入っている。
あの場にいた全員が見た。
母親も。
森田も。
高瀬も。
そして何より、自分自身が。
『退職届』
そう書いた。
写真も撮った。
今回は、まだ変わっていない。
「……行ってきます」
佐伯が呟く。
「うん」
隣にいた森田が頷いた。
「ここで待ってる」
「ありがとうございます」
「本当に一人で大丈夫?」
「はい」
佐伯は少しだけ笑った。
「一人で出したいんです」
森田は、それ以上何も言わなかった。
佐伯は会社へ入っていった。
◇
同じ頃。
「三上、教科書」
「あります!」
「資料集」
「あります!」
「ノート」
「あります!」
「宿題」
「…………」
「三上」
「先生」
「何だ」
「人間、完璧じゃないよ」
「お前が言うな」
教室に笑いが起きた。
三上陸は悪びれもせず、隣の生徒からノートを見せてもらっている。
「写すなよ」
「参考です」
「その速度で丸ごと参考にするな」
「著作権には配慮します」
「宿題に著作権持ち出す中学生、初めて見たわ」
また笑いが起きる。
高瀬は黒板へ向き直った。
いつもの授業。
いつもの教室。
スマートフォンは、鞄の中に入れてある。
今頃、佐伯は会社に着いているはずだった。
気にならないと言えば、嘘になる。
けれど。
今、高瀬の前には三十人以上の生徒がいる。
佐伯が自分で会社へ行くと決めたように。
高瀬にも、自分がやるべきことがある。
「じゃあ今日の目標、確認するぞ」
黒板の左上を指差す。
『資料から、二つの地域の違いを説明する』
「先生」
三上が手を挙げた。
「はい」
「今日ちゃんと書いてあるじゃん」
「最近ずっと書いてるわ!」
「成長したね」
「誰目線だよ!」
教室が笑う。
高瀬も笑った。
その時だった。
教室の時計が、午前九時四十二分を示した。
◇
「佐伯さんですね」
総務担当の男性は、佐伯を見ると立ち上がった。
「はい」
「先日はありがとうございました。今日は……」
「これを提出しに来ました」
佐伯は封筒を差し出した。
男性が受け取る。
封を開け、中の紙を取り出した。
佐伯は、その手元から目を離さなかった。
紙が開かれる。
男性が読む。
一秒。
二秒。
三秒。
「……退職届、ですね」
佐伯の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「はい」
変わっていない。
「以前もお伝えしましたが、僕は異動を希望していません」
「はい」
「この退職届も、僕自身の意思で書きました」
「承知しました」
「受け取った記録を、残してもらえますか」
男性が顔を上げた。
佐伯は続ける。
「今日、僕が退職届を提出したことを、日付が分かる形で残してください」
声は震えていた。
それでも、最後まで言った。
「……分かりました」
男性は紙を机に置いた。
「受領した旨を記載した控えをお渡しします」
「お願いします」
男性がパソコンを操作する。
佐伯は椅子に座ったまま、自分の手を見た。
汗をかいている。
指先も震えている。
でも。
逃げなかった。
数分後、男性が一枚の紙を差し出した。
『退職届受領』
今日の日付。
時刻。
担当者名。
佐伯は、その紙を両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
男性は少し困ったような表情をした。
「ただ、佐伯さん」
「はい」
「一点だけ、確認させてください」
佐伯の指が止まった。
「何でしょうか」
「今回の退職について、昨日もご連絡をいただいています」
「……昨日?」
「はい」
「僕は連絡していません」
男性は黙った。
その沈黙だけで。
佐伯には、次に何を言われるのか分かった。
「……僕が、何て?」
男性は画面を確認した。
「『退職の意思に変更はない』と」
佐伯は瞬きをした。
「……え?」
予想していた言葉と違った。
「退職……?」
「はい」
男性は続ける。
「異動は希望しない。退職の手続きを進めてほしい、と」
佐伯は何も言えなかった。
これまで。
自分の知らない佐伯は、自分と反対の選択をしていた。
学校へ行かなかった自分の代わりに、学校へ行った。
会社へ行かなかった自分の代わりに、会社へ行った。
退職を望んだ自分の代わりに、異動を希望した。
なのに。
「……いつですか」
「昨日の午後六時十三分です」
昨日。
午後六時十三分。
佐伯は覚えていた。
その時間、自分は母親と夕食を食べていた。
スマートフォンにも触れていない。
「方法は?」
「メールです」
「見せてもらえますか」
男性は少し迷ったあと、画面を佐伯へ向けた。
差出人は、佐伯自身の会社用アドレス。
本文は短かった。
『先日お伝えした異動希望について、撤回をお願いいたします。』
『私は退職を希望します。』
『明日、本人より改めて退職届を提出します。』
佐伯の呼吸が止まった。
最後の一文。
『明日、本人より』
まるで。
今日、自分がここへ来ることを知っていたようだった。
◇
昼休み。
高瀬がスマートフォンを確認すると、佐伯から一件のメッセージが届いていた。
『退職届、受け取ってもらえました』
高瀬は、思わず息を吐いた。
「……よかった」
その直後。
もう一件。
『でも、昨日、僕から会社にメールが届いていました』
高瀬の指が止まる。
続けて。
『内容は、退職したいというものでした』
「……え?」
高瀬は眉を寄せた。
これまでとは違う。
もう一人の佐伯は。
本人の希望を、消していない。
むしろ。
同じ方向へ動いている。
高瀬は返信した。
『そのメールは残っていますか』
『会社にあります。見せてもらいました』
『佐伯さん自身には送信履歴は?』
少しして返事が来た。
『ありません』
高瀬は画面を見つめた。
その時。
背後から声がした。
「先生」
「うわっ!」
三上だった。
「何だよ!」
「いや、こっちの台詞。めっちゃ怖い顔してたから」
「……悪い」
三上は高瀬のスマートフォンを覗こうとする。
「見るな」
「見てないって」
「今、首伸ばしただろ」
「キリンの気持ちを理解しようとしてただけ」
「昼休みに生物進化すんな」
三上は笑った。
高瀬はスマートフォンをポケットへ入れた。
「で、何だ?」
「瀬川が呼んでる」
「瀬川?」
「なんか、昨日の宿題のことで聞きたいって」
「分かった。行く」
高瀬は立ち上がった。
今は学校だ。
佐伯には、佐伯の時間がある。
自分には、自分の時間がある。
その線を、もう間違えたくなかった。
◇
放課後。
高瀬は学校を出てから、佐伯に電話をかけた。
「お疲れさまでした」
『ありがとうございます』
「退職届、受け取ってもらえたんですね」
『はい。受領したっていう紙ももらいました』
「それ、大事に保管してください」
『もう写真も撮りました』
「完璧ですね」
佐伯が少し笑った。
以前より、声が軽い。
高瀬は少し迷ってから聞いた。
「昨日のメールについては?」
沈黙。
『……分かりません』
「ですよね」
『でも、先生』
「はい」
『僕、ちょっとだけ嬉しかったんです』
高瀬は黙った。
『今まで、あっちの僕は、ずっと僕と逆だったから』
「……はい」
『学校へ行けない僕の代わりに、学校へ行って。働けない僕の代わりに、会社へ行って』
佐伯は、ゆっくり言った。
『僕ができないことを全部やる、ちゃんとした僕だった』
高瀬の胸が痛んだ。
『だから、嫌いだったんです』
「……」
『僕より、あっちのほうが正しいみたいで』
高瀬は車の中で、静かに聞いていた。
『でも昨日は』
佐伯の声が少し震えた。
『初めて、僕と同じことを言った』
高瀬は答えなかった。
簡単に「よかったですね」とは言えなかった。
何が起きているのかは、まだ分からない。
それでも。
佐伯にとって、その事実がどんな意味を持ったのかは分かった。
「佐伯さん」
『はい』
「前に、言ってましたよね」
『何をですか』
「『僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいる』って」
電話の向こうが静かになった。
「でも、昨日のメールが本当にもう一人のあなたからなら」
高瀬は言った。
「少なくとも、あなたの選択を否定してはいない」
佐伯はしばらく黙っていた。
『……はい』
「それ以上のことは、まだ分かりません」
『先生』
「はい」
『今の、先生っぽくないですね』
「え?」
『前だったら、もっといい感じにまとめてたと思います』
「……」
『「きっと、もう一人のあなたも本当のあなたを認めたんですよ」とか』
高瀬は額を押さえた。
「……言いそう」
『言いそうです』
「成長したと思ってください」
『自分で言うんですね』
「誰も褒めてくれないんで」
佐伯が笑った。
高瀬も笑った。
それから佐伯は、小さな声で言った。
『先生』
「はい」
『僕、明日も会社に行きます』
「……手続きですか?」
『それもあります。でも』
佐伯は少し間を置いた。
『聞いてみたいことがあります』
「誰に?」
『僕を知ってる人たちに』
高瀬は黙った。
『僕が、どんな人だったのか』
その言葉に、高瀬は息を止めた。
『あっちの僕が何をして、誰と話して、何を考えてたのか。全部は無理でも、知れるところまで知りたい』
「……怖くないですか」
『怖いです』
即答だった。
『でも、知らないまま嫌うのも、違う気がするから』
高瀬は、静かに頷いた。
「分かりました」
『先生は来なくて大丈夫です』
「……はい」
『今、「行こうか」って言いそうになりました?』
「……なってません」
『間がありましたけど』
「通信障害です」
『先生、家ですよね?』
「電波が弱い家なんです」
『そういうことにしときます』
電話が切れた。
高瀬は、しばらくスマートフォンを見つめた。
佐伯は変わった。
いや。
違う。
変わったと採点するのは、自分の役目ではない。
佐伯が、自分で動き始めた。
それだけだった。
◇
その夜。
高瀬は机に座り、Reviewを開いた。
昨日までの表示が残っている。
『評価対象:佐伯』
『評価:☆☆☆☆☆』
『本人の希望:退職』
そして。
『代替記録を優先します』
高瀬は、その文字を見つめた。
「……優先、か」
昨日は、その意味が怖かった。
本人よりも、記録の中の佐伯を残す。
そういう意味だと思った。
だが。
もし、代替記録まで退職を希望しているのなら。
「何を優先するんだ……?」
高瀬が呟いた瞬間。
表示が消えた。
「……え?」
画面が白くなる。
数秒後。
新しい文章が浮かんだ。
『代替記録との不一致を確認できません』
高瀬は眉を寄せた。
さらに一文。
『評価対象を再設定します』
嫌な予感がした。
高瀬はスマートフォンを握り直した。
『評価対象:佐伯』
そこまでは同じだった。
次の一行。
『対象が複数存在します』
「……は?」
高瀬の背筋が冷たくなった。
画面に、二つの項目が並んだ。
『佐伯(本人)』
『佐伯(代替記録)』
高瀬は動けなかった。
これまでReviewは、二人を一人として扱っていた。
本人が家にいても。
会社で誰かが働いていても。
学校に行っていなくても。
出席記録が残っていても。
全部。
佐伯という一人の人間の記録として。
なのに。
今。
初めて。
二つに分かれた。
高瀬の指が震えた。
その下に、新しい文章が表示される。
『評価対象を選択してください』
「……選べって?」
高瀬は呟いた。
佐伯本人。
代替記録。
二つの名前を、交互に見る。
そして。
高瀬は、ふと気づいた。
「……待てよ」
今日、佐伯が会社に提出した退職届。
昨日、会社へ届いたメール。
どちらも。
同じことを望んでいる。
だったら。
なぜ今になって、二つに分ける必要がある?
高瀬は画面を見つめた。
選択肢の下には、説明がない。
選んだ先に何が起きるのかも。
選ばなかったほうがどうなるのかも。
何も書かれていない。
高瀬は、スマートフォンを机に置いた。
押さない。
怖いからではない。
分からないからでもない。
今、この二つを。
自分が勝手に「どちらが本物か」と決める理由がない。
その時。
スマートフォンが震えた。
佐伯からだった。
『先生』
続けて、写真が一枚送られてくる。
高瀬は開いた。
今日、会社でもらった退職届の受領書。
日付。
時刻。
担当者名。
確かに残っている。
その下に、佐伯からメッセージが届いた。
『これだけは、まだ変わってません』
高瀬は返信した。
『はい。残っています』
少し考えて。
もう一文。
『佐伯さんが今日、自分で提出したことも、俺は覚えています』
既読がついた。
返事はすぐには来なかった。
一分ほどして。
『ありがとうございます』
それだけだった。
高瀬はReviewへ戻った。
二つの佐伯。
本人。
代替記録。
どちらかを選べと、画面は迫っている。
高瀬は触れなかった。
代わりに、ノートを開く。
今日の日付を書く。
そして。
『佐伯本人が、自分の意思で退職届を提出した』
そこまで書いて、ペンを止めた。
少し考える。
その下に。
『昨日、代替記録も退職を希望した』
そう書いた。
二つの事実を。
二つのまま。
残した。
高瀬はペンを置く。
スマートフォンの画面には、まだ同じ問いがある。
『評価対象を選択してください』
佐伯(本人)。
佐伯(代替記録)。
高瀬は、その二つを見つめた。
そして初めて思った。
これは。
どちらが本物かを選ぶための画面ではないのかもしれない。
もっと嫌な可能性がある。
どちらを。
残すのか。
その選択なのかもしれなかった。




