Review23 退職届は、二度書かれた
金曜日の夜、高瀬悠介は帰宅してからも、玄関の明かりを消せずにいた。
靴を脱ぎ、鞄を置き、上着をハンガーに掛ける。いつもなら何も考えずに済ませる動作が、今夜はひどく遅かった。
佐伯が会社で叫んだ声が、まだ耳に残っている。
『僕は、辞めたいって言ったんです!』
その言葉を聞いた総務担当者は、困惑していた。受付の女性も、エレベーターで会った社員も、誰も嘘をついているようには見えなかった。
彼らにとって、佐伯は今日も働いていた。
本人だけが、働いていない。
しかも、本人が望んでいない異動まで承認されている。
高瀬は台所で水を飲み、スマートフォンを取り出した。
Reviewの画面には、先ほどと同じ表示が残っていた。
『評価対象:佐伯』
『現在の評価:★★★★★』
『本人の希望により、異動が承認されました』
その下に、二つの選択肢。
『評価を修正しますか?』
『YES』
『NO』
「……誰の希望だよ」
高瀬は呟いた。
佐伯本人は、辞めたいと言った。
森田も聞いた。自分も聞いた。
それなのに、画面は異動を「本人の希望」と断定している。
高瀬はYESにもNOにも触れず、佐伯から聞いた言葉をノートに書いた。
『退職したい』
『異動は希望していない』
『自分の知らないところで決められるのが嫌だ』
最後の一行を書いたところで、ペンが止まった。
これは佐伯の言葉だ。
だが、今ここにいるのは自分一人だった。
本人の意思を残すと言いながら、自分のノートに書くだけでは、また他人が佐伯の人生をまとめていることになる。
高瀬はスマートフォンを開き、佐伯へメッセージを送った。
『今日はお疲れさまでした。さっき話してくれた希望を、あなた自身の言葉でも残しておきませんか。必要なら、文章を整理する手伝いはできます』
返信が来るまで、十分ほどかかった。
『ありがとうございます。自分で書きます』
高瀬は、その一文を見て、ようやく玄関の明かりを消した。
◇
翌朝、佐伯は自宅の食卓に座っていた。
目の前には、白い紙が二枚。
一枚目は、会社から渡された異動通知の写しだった。
所属部署、異動日、業務内容。
どれも、佐伯には覚えのないものばかりだった。
二枚目は、何も書かれていない便箋だった。
母親が台所から声をかける。
「朝ご飯、食べる?」
「……あとで」
「昨日、遅かったね」
「うん」
「会社、どうだった?」
佐伯は答えなかった。
母親はそれ以上聞かず、味噌汁の鍋に蓋をした。
その小さな音を聞きながら、佐伯はペンを握った。
『退職届』
書き出しだけで、手が止まった。
前にも書いた。
確かに書いた。
それなのに、会社の記録では、自分が取り下げたことになっていた。
また同じことになるのではないか。
書いても、消されるのではないか。
そう考えると、次の文字が出てこなかった。
佐伯は便箋を裏返した。
その裏に、小さく書いた。
『僕は、辞めたい』
しばらく眺めた。
それから、もう一行。
『僕が決めた』
たった二行だった。
会社に提出するには足りない。
誰かを説得する文章にもなっていない。
それでも佐伯は、紙を捨てなかった。
◇
同じ頃、高瀬は休日の学校にいた。
来週の授業で使う資料を、職員室の印刷機で刷っていた。地域の産業について調べる課題で、前回の授業改善会議を受けて、最初に目標を示す欄を作ってある。
『今日の目標:資料を比較して、自分の考えを説明する』
高瀬は印刷された文字を確認した。
「……よし」
そこへ、休日の部活動を終えた三上が顔を出した。
「先生!」
「何で休日までお前に会うんだよ」
「こっちの台詞だわ!」
三上は汗で濡れた前髪をかき上げ、職員室の入口から中を覗いた。
「何してんの?」
「授業準備」
「休みの日まで?」
「先生にもいろいろあるんだよ」
「ブラックじゃん」
「お前、言葉の選び方!」
三上は笑ったが、高瀬の机に積まれた資料を見ると、少しだけ表情を変えた。
「先生、最近忙しそうだよね」
「そうか?」
「うん。授業中は普通だけど、たまに急に黙る」
高瀬は手を止めた。
佐伯のことを考えていた時だろうか。
授業には集中しているつもりだったが、生徒には案外見えているものらしい。
「……ちょっと考え事があってな」
「ふーん」
三上はそれ以上聞かなかった。
代わりに、印刷機の横に置かれた紙の束を指差す。
「それ、運ぶ?」
「え?」
「教室まで持ってくんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ半分持つわ」
三上は返事を待たずに、紙の束を半分持ち上げた。
「おい、部活帰りだろ。早く帰れよ」
「先生一人で持つより早いじゃん」
「……ありがとな」
「唐揚げでいいよ」
「お前の親切、全部有料なの!?」
三上が笑った。
高瀬も笑い、残りの紙を抱えた。
教室へ向かう廊下は静かだった。窓の外では、運動部の掛け声が遠くから聞こえる。
三上は階段を上りながら、ふと思い出したように言った。
「先生」
「何だ」
「俺、前に言ったじゃん」
「何を?」
「先生を覚えてるの、今日が初めてじゃないって」
高瀬の足が止まりかけた。
「……ああ」
「先生が俺のこと忘れてた時さ、俺、めっちゃ腹立ったんだよね」
三上は前を向いたまま続けた。
「でも、先生が忘れてても、俺が覚えてることは消えないじゃん」
「……うん」
「だから、何回でも言えばいいかなって」
高瀬は三上の横顔を見た。
あの七回目の自己紹介。
自分が忘れていた時間を、三上は一人で抱えていた。
「……お前、強いな」
高瀬が言うと、三上は振り返った。
「は?」
「いや、何でもない」
「急に褒めるなよ。怖いわ」
「褒めても怒られるのかよ!」
三上は笑いながら教室の扉を開けた。
高瀬はその後ろを歩いた。
忘れられても、覚えていることは消えない。
その言葉が、胸の奥に残った。
◇
午後三時。
森田から連絡が入った。
『佐伯さん、退職届を書いたそうです』
高瀬はすぐに返信した。
『本人が?』
『はい。自分で』
少しして、佐伯本人からもメッセージが届いた。
『書きました。今度は、取り下げません』
高瀬は画面を見つめた。
その言葉を信じたいと思った。
だが、前回も佐伯は取り下げていない。
取り下げたことにされたのだ。
『分かりました。提出方法も、佐伯さん自身が決めましょう。会社から返事が来たら、内容を確認させてもらってもいいですか』
『はい』
高瀬はスマートフォンを置いた。
その時、Reviewが震えた。
画面に、新しい通知が表示される。
『評価対象:佐伯』
『現在の評価:★★★★★』
続いて、文章が変わった。
『本人の希望を確認しました』
高瀬は息を止めた。
佐伯が退職届を書いたからか。
それとも、別の何かが起きたのか。
画面の下に、一文が追加された。
『希望内容:異動先での勤務継続』
「……違う!」
高瀬は声を上げた。
佐伯は、辞めたいと言っている。
本人の希望は、明確だった。
それなのに、Reviewは正反対の内容を表示している。
高瀬は画面を睨んだ。
星は五つ。
評価は変わらない。
本人の言葉だけが、別の意味に置き換えられている。
その時、佐伯から電話がかかってきた。
「……先生」
「佐伯さん、どうしました?」
電話の向こうで、佐伯が息を切らしていた。
「退職届……」
「はい」
「なくなりました」
高瀬は立ち上がった。
「……え?」
「さっきまで、机の上に置いてたんです。母にも見せました。写真も撮りました」
「写真は?」
「残ってます」
「じゃあ、紙だけ?」
「はい。でも……」
佐伯の声が震えた。
「写真の文字が、変わってるんです」
高瀬は何も言えなかった。
「『退職届』って書いたはずなのに」
佐伯が続けた。
「今、写真には……」
そこで声が途切れた。
高瀬はスマートフォンを握り直した。
「佐伯さん?」
数秒の沈黙。
そして。
「『異動承諾書』って、書いてあります」
高瀬の背筋が冷たくなった。
◇
高瀬は森田に連絡を入れた。
『佐伯さんの退職届が異動承諾書に変わったらしい』
森田から、すぐに電話がかかってきた。
「先生、今どこ?」
「学校を出たところ」
「佐伯さんからも聞いた」
「……どうする?」
森田は少し黙った。
「まず、佐伯さんのところへ行こう」
「分かった」
「ただ、先生」
「何だ?」
「今度は、私たちが代わりに決めないで」
高瀬は目を閉じた。
「……ああ」
「佐伯さんがどうしたいか、もう一回聞こう」
「分かった」
電話を切る。
高瀬は車へ向かった。
その時、スマートフォンが震えた。
Reviewだった。
『評価を修正しますか?』
YES。
NO。
高瀬は画面を見つめた。
押せば、何かが変わるのかもしれない。
押さなければ、佐伯の意思は消され続けるのかもしれない。
だが、今の高瀬には分かっていた。
自分が星を一つ選ぶだけでは、佐伯の人生を取り戻したことにはならない。
高瀬は画面を閉じた。
佐伯の家へ向かう。
本人が、何を望んでいるのか。
もう一度、その声を聞くために。
◇
夕方、佐伯の家に着いた。
玄関を開けたのは、佐伯の母親だった。
高瀬と森田を見て、深く頭を下げる。
「……わざわざ、すみません」
「いえ。佐伯さんは?」
「奥にいます」
案内された居間で、佐伯は机に向かっていた。
目の前には、二枚の紙。
一枚は、白紙。
もう一枚は、異動承諾書。
佐伯は顔を上げた。
「……先生」
「来ました」
「森田さんも」
「うん」
二人が座ると、佐伯は紙を指差した。
「これ、僕が書いたんです」
異動承諾書。
署名欄には、佐伯の名前があった。
「でも、僕は退職届を書いた」
高瀬は頷いた。
「聞いてます」
「母も見ました」
母親が頷く。
「確かに、退職届でした」
佐伯は白紙を手に取った。
「だから、もう一回書こうと思ったんです」
「……はい」
「でも」
佐伯はペンを握った。
「怖くて、書けないんです」
高瀬は黙った。
佐伯の手は震えていた。
「また、変わるかもしれない」
「……」
「何回書いても、僕の言葉じゃなくなるかもしれない」
森田が静かに聞いた。
「佐伯さん、今はどうしたい?」
佐伯は、しばらく答えなかった。
やがて、顔を上げた。
「……辞めたいです」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「会社を辞めたい。もう、僕の知らないところで働いてる僕に、人生を決められたくない」
高瀬は頷いた。
「分かりました」
「でも、怖いです」
「……はい」
「僕が何を言っても、全部変えられるなら」
佐伯は、白紙を見つめた。
「僕は、どうしたらいいんですか」
高瀬は、すぐには答えなかった。
森田も黙っていた。
部屋の時計が、秒針を刻む。
佐伯の母親が、湯呑みを三つ運んできた。
湯気が立ち上る。
佐伯は、その湯気を見つめた。
そして、ぽつりと言った。
「……先生」
「はい」
「僕、もう一回書きます」
高瀬は顔を上げた。
「……いいんですか」
「はい」
佐伯は白紙を机に置いた。
「今度は、誰かに見ててほしいです」
森田が頷いた。
「見てるよ」
母親も、椅子を引いた。
「私も」
高瀬は佐伯を見た。
「俺も、ここにいます」
佐伯はペンを握り直した。
ゆっくりと。
一文字ずつ。
『退職届』
書いた。
続けて、本文。
退職を希望すること。
異動を希望していないこと。
自分の意思で書いていること。
佐伯は、途中で何度も手を止めた。
それでも、最後まで書いた。
署名を終えると、ペンを置いた。
「……できました」
高瀬は頷いた。
「はい」
森田も頷いた。
母親が、そっと息を吐いた。
四人で、その紙を見つめた。
誰も拍手しなかった。
誰も、点数をつけなかった。
ただ、佐伯が書いたという事実を、確かめていた。
その時。
高瀬のスマートフォンが震えた。
Review。
画面に、一文が表示された。
『本人の意思を確認しました』
高瀬は息を止めた。
続けて。
『評価対象:佐伯』
『現在の評価:★★★★★』
そして。
『希望内容を更新します』
佐伯が、高瀬の顔を見た。
「……先生?」
高瀬は画面を見つめた。
文字が、ゆっくりと変わっていく。
『退職希望』
高瀬は息を吐いた。
初めて。
Reviewが、佐伯の本当の意思を表示した。
だが。
次の瞬間。
画面が暗転した。
新しい文章が浮かぶ。
『希望内容の変更に伴い、現在の評価を再計算します』
星が一つずつ消えていく。
★★★★★
★★★★☆
★★★☆☆
★★☆☆☆
★☆☆☆☆
そして。
最後の一つも、消えた。
『評価:☆☆☆☆☆』
高瀬は動けなかった。
その下に、短い一文が表示された。
『現在の評価を維持できない場合、代替記録を優先します』
佐伯が、静かに聞いた。
「……先生」
「……はい」
「何か、変わりましたか」
高瀬は、答えられなかった。
机の上には、退職届がある。
佐伯本人が書いたものだ。
母親も、森田も、高瀬も見ていた。
けれど。
スマートフォンの画面には、別の言葉が表示されていた。
『代替記録を優先します』
高瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
佐伯が、こちらを見ている。
その目には、期待と恐怖が混ざっていた。
高瀬は、スマートフォンを伏せた。
「……変わりました」
佐伯の表情が揺れた。
「……何が?」
高瀬は、机の上の退職届を見た。
そして、佐伯を見た。
「あなたの希望が、ちゃんと表示されました」
佐伯は息を止めた。
「……本当に?」
「はい」
高瀬は頷いた。
「ただ、そのあとに、別の表示が出ました」
「……」
「まだ、何が起きるか分かりません」
佐伯は、しばらく黙っていた。
やがて、退職届へ視線を落とした。
「……そっか」
その声は、震えていた。
けれど、佐伯は紙を手放さなかった。
「じゃあ」
佐伯は言った。
「今度は、消される前に出しましょう」
高瀬は顔を上げた。
森田も、佐伯を見た。
佐伯は、もう一度言った。
「僕が、出します」
その言葉だけは、誰のものにも変わっていなかった。




