Review22 あなたは、昨日もここにいた
月曜日の朝、高瀬悠介は職員室の机に座り、時間割を確認していた。
一時間目は二年生の社会科。三時間目は会議。午後には保護者への連絡が一件あり、放課後は提出物の確認が残っている。
いつも通りの一日だった。
ただ、机の端に置いたスマートフォンには、昨夜の森田とのやり取りが残っていた。
『佐伯さん、会社に一緒に来てほしいそうです』
高瀬はその文章を見つめた。
佐伯が一度も出勤したことのない会社。
それなのに、毎日働いていることになっている会社。
本人が退職を申し出ても、翌日には取り消されてしまう場所。
高瀬は息を吐き、スマートフォンを伏せた。
「……まずは仕事だな」
立ち上がったところで、隣の教師が声をかけてきた。
「高瀬先生、今日ちょっと顔色悪くないですか?」
「え、そうです?」
「寝不足?」
「まあ、ちょっと考え事を」
「ほどほどにしてくださいよ。今日、三上が朝から元気でしたから」
「それは通常運転じゃないですか」
「今日は輪をかけて」
「……帰りたい」
「まだ一時間目ですよ」
二人で笑った。
高瀬は教科書を抱え、職員室を出た。
◇
「先生!」
教室へ入った瞬間、三上が手を挙げた。
「はい、嫌な予感」
「何でだよ!」
「お前が元気すぎるから」
「失礼だな!」
三上は机の上に一枚の紙を広げた。
『高瀬先生の授業改善会議・第二回』
「開催しません」
「早い!」
「前回の議事録もまだ整理できてないんだよ」
「じゃあ、臨時会議!」
「何でそんなに会議したいんだよ!」
教室が笑いに包まれる。
瀬川が隣から小さく言った。
「三上、今日の宿題減らす議題しか考えてないです」
「瀬川! 裏切るな!」
「正直に言っただけ」
「先生、こいつ最近容赦ない!」
高瀬は笑いながら黒板へ向かった。
今日の目標を書く。
『資料を比較し、産業が発展する条件を説明する』
その下に、小さく付け加えた。
『分からないところは、分からないままでいい。そこから考える。』
チョークを置いた時、ふと佐伯の言葉が頭をよぎった。
『僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです』
高瀬は一瞬だけ手を止めた。
「先生?」
三上の声。
「……ん?」
「今日の目標、長くね?」
「お前のせいで余計なこと考えたんだよ」
「俺!?」
笑いが起きた。
高瀬は授業を始めた。
目の前の生徒たちがいる。
今は、ここに集中する。
そう決めた。
◇
佐伯の会社を訪ねる日が決まったのは、その日の夕方だった。
森田から連絡が入った。
『佐伯さん、木曜日の午後なら大丈夫だそうです』
高瀬は予定表を確認した。
木曜日の午後は授業が入っている。
『その時間は仕事がある。勤務後か、別の日にできないか本人に聞いてくれ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『分かりました。確認します』
高瀬はスマートフォンを置いた。
教師の仕事を放り出してまで、佐伯の問題に飛び込むことはできない。
自分がいなければ困る生徒もいる。
それに、佐伯の問題は一日で解決できるものではない。
焦って動けば、また誰かの意思を置き去りにしてしまう。
高瀬は机の上のプリントを整理し、帰宅した。
◇
結局、訪問は金曜日の夕方になった。
高瀬は勤務を終え、駅前で森田と合流した。
「先生、今日は遅刻しなかったね」
「最近その話しかしないな」
「十三年分あるから」
「一生言われるやつじゃん」
森田は笑った。
その隣に、佐伯が立っていた。
前に会った時と同じ紺色のパーカー。手には薄いファイルを持っている。
「今日は、ありがとうございます」
佐伯が頭を下げる。
「いえ。佐伯さん、会社には連絡しました?」
「はい」
「どう伝えました?」
「勤務のことで確認したいことがあるので、仕事が終わる頃に伺いたいって」
「……返事は?」
「来てもいいって」
佐伯はスマートフォンを見せた。
会社の担当者から届いた短い返信だった。
『承知しました。終業後にお待ちしています』
高瀬は頷いた。
「じゃあ、行きましょうか」
森田が二人の顔を見る。
「私は外で待ってるね」
「え?」
高瀬が聞き返す。
「一緒に来ないの?」
「佐伯さんが、先生と二人で行きたいって」
佐伯が頷いた。
「……すみません」
「謝らなくていいですよ」
高瀬は答えた。
森田は少し笑った。
「先生、今度はちゃんと本人に聞いてね」
「分かってる」
高瀬は佐伯と並んで歩き始めた。
◇
会社は駅から徒歩十分ほどの場所にあった。
大きな道路沿いに建つ、五階建てのビル。入口には会社名が掲げられ、ガラス扉の向こうには受付が見える。
佐伯は、その前で足を止めた。
「……ここです」
高瀬はビルを見上げた。
何の変哲もない会社だった。
夕方の光がガラスに反射し、社員らしい人たちが次々と出入りしている。
「佐伯さん」
「はい」
「入れそうですか」
佐伯は少し考えた。
「……怖いです」
「そうですよね」
「でも、来たかったんです」
高瀬は頷いた。
「分かりました」
佐伯が一歩踏み出す。
自動ドアが開いた。
冷房の風が、二人の顔に当たった。
◇
「お世話になっております。佐伯と申します」
受付の女性は顔を上げた。
そして、笑った。
「あ、佐伯さん。お疲れさまです」
佐伯の肩が固まった。
「……お疲れさまです」
「今日はもう上がられたんですか?」
高瀬は、その言葉を聞き逃さなかった。
もう上がった。
つまり。
この女性は、佐伯が今日も勤務していたと思っている。
「……あの」
佐伯が口を開く。
「僕、今日、ここに来るの初めてなんです」
受付の女性は、少し困ったように笑った。
「え?」
「……今日だけじゃなくて」
佐伯の声が震える。
「僕、一度も出勤したことがないんです」
女性の表情が変わった。
「佐伯さん……?」
高瀬が一歩前へ出る。
「すみません。佐伯さんの付き添いで来ました。今日は勤務記録について確認したくて」
「あ、はい。担当者をお呼びしますね」
女性は電話を取った。
高瀬は佐伯を見た。
佐伯は、受付の奥を見つめていた。
「……先生」
「はい」
「今、僕のこと、分かりましたよね」
「え?」
「受付の人」
佐伯は言った。
「僕の顔、知ってましたよね」
高瀬は頷いた。
「……そうですね」
佐伯は唇を噛んだ。
「やっぱり、いるんだ」
その声は、ほとんど聞こえなかった。
◇
案内されたのは、二階の小さな会議室だった。
長机と椅子が六脚。壁には会社の行動指針が貼られている。
『信頼を積み重ね、誠実に仕事へ向き合う』
高瀬は、その言葉を見つめた。
しばらくして、スーツ姿の男性が入ってきた。
「佐伯さん、お疲れさまです」
佐伯が立ち上がる。
「……お疲れさまです」
「今日はどうされました?」
男性は高瀬を見る。
「こちらの方は?」
「付き添いの高瀬です。佐伯さんの希望で同席しています」
「そうでしたか」
男性は名刺を差し出した。
総務担当者だった。
高瀬も簡単に自己紹介し、席に着いた。
「それで、勤務記録の確認ということでしたが」
佐伯はファイルを開いた。
「僕、会社に来ていないんです」
男性の動きが止まった。
「……どういうことでしょう」
「二年前、入社の日から、一度も」
佐伯は顔を上げた。
「なのに、勤怠表では毎日出勤したことになっていて」
男性は眉を寄せた。
「佐伯さん、少しお疲れではありませんか?」
佐伯の手が震えた。
高瀬は口を開きかけたが、佐伯が先に言った。
「疲れてるかもしれません。でも、まず記録を確認したいんです」
男性は少し黙った。
「……分かりました」
ノートパソコンを開く。
画面を操作する。
「本日も、通常通り出勤されていますね」
佐伯は息を止めた。
「……何時に?」
「午前八時四十五分です」
「退勤は?」
「午後五時三十分」
高瀬は時計を見た。
現在、午後六時十二分。
記録上の佐伯は、四十二分前に退勤している。
「……退勤したところを、見たんですか」
佐伯が聞いた。
男性は頷いた。
「はい。先ほど廊下で挨拶しましたよ」
佐伯の顔から血の気が引いた。
「……僕に?」
「ええ」
男性は不思議そうに言った。
「『お疲れさまでした』と」
会議室が静かになった。
高瀬は、佐伯の横顔を見た。
彼は、今にも立ち上がって逃げ出しそうだった。
それでも、椅子から動かなかった。
◇
「……確認したいことがあります」
高瀬が言った。
男性が顔を上げる。
「はい」
「佐伯さんが今日、どんな仕事をしたか分かりますか」
「もちろんです」
男性は画面を操作した。
「午前中は出荷データの確認。午後は取引先との調整ですね」
「……本人が作成した資料は?」
「あります」
男性は一つのファイルを開いた。
表計算の資料だった。
日付。
数量。
取引先名。
備考欄。
作成者の欄には、確かに『佐伯』と表示されている。
「……これ」
佐伯が呟いた。
「僕、作ってないです」
男性は困ったように笑った。
「佐伯さん、どうされたんですか」
高瀬は画面を見た。
数字は整っている。
資料も完成している。
仕事としては、何の問題もなさそうだった。
だが。
佐伯本人には、その仕事をした記憶がない。
「……この資料、印刷していただくことはできますか」
高瀬が尋ねた。
「申し訳ありませんが、社外の方に業務資料をお渡しすることはできません」
「そうですよね。失礼しました」
高瀬はすぐに引いた。
佐伯の問題を確認したいからといって、会社の情報を勝手に持ち出していいわけではない。
男性は画面を閉じた。
「佐伯さん、今日はもう遅いですし、改めて産業医との面談なども検討しましょうか」
佐伯は首を振った。
「……違うんです」
「何がでしょう」
「僕は、ここに来てないんです」
男性は黙った。
佐伯は続けた。
「毎日、家にいるんです。母も見てます。外に出られない日もあって、それでも、会社では働いてることになってる」
声が震えていた。
「僕、何を信じたらいいんですか」
男性は答えられなかった。
高瀬も、すぐには言葉を返せなかった。
ただ、佐伯の隣に座っていた。
◇
会議が終わりかけた時だった。
男性がふと思い出したように言った。
「あ、そういえば佐伯さん」
「……はい」
「来週の件、よろしくお願いしますね」
佐伯は顔を上げた。
「……来週?」
「はい。例の件です」
「何のことですか」
男性は首を傾げた。
「先週、お話ししたでしょう」
ノートパソコンをもう一度開く。
予定表を表示した。
「来週月曜日から、新しい部署へ異動される件です」
佐伯の表情が凍った。
「……異動?」
「ええ。ご本人の希望で」
高瀬は、ゆっくりと男性を見た。
「本人の……希望?」
「はい」
男性は画面を指差した。
「こちらに申請書もあります」
佐伯は椅子から立ち上がった。
「……僕、そんなこと言ってません」
「ですが、署名もありますし」
「言ってない!」
声が会議室に響いた。
男性が驚いたように顔を上げる。
佐伯は、震える手で机を掴んだ。
「僕は、辞めたいって言ったんです!」
高瀬は息を止めた。
「先週、退職届を出しました! でも、取り消されてて……今度は異動って、何なんですか!」
男性は困惑していた。
「佐伯さん、落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょう!」
佐伯の声が裏返った。
「僕の知らないところで、僕が勝手に決めてるんですよ!」
高瀬は立ち上がった。
「佐伯さん」
「……」
「一度、外に出ましょうか」
佐伯は高瀬を見た。
目が赤くなっていた。
しばらくして、ゆっくり頷いた。
「……はい」
高瀬は総務担当者へ向き直った。
「今日はありがとうございました。佐伯さん本人の意思と記録に食い違いがあることは、確認できました。今後の手続きについては、改めて本人から連絡します」
男性は戸惑いながらも頷いた。
「承知しました」
二人は会議室を出た。
◇
エレベーターを待つ間、佐伯は何も話さなかった。
廊下の奥から、社員たちの笑い声が聞こえる。
誰かが「週末何する?」と話していた。
高瀬は、佐伯の横に立っていた。
やがて、エレベーターが到着する。
扉が開く。
中には、一人の男性が乗っていた。
社員証を首から下げた、四十代くらいの男性だった。
「あれ、佐伯くん」
男性が笑った。
「まだいたの?」
佐伯の身体が固まった。
「……」
「さっき帰ったと思ったけど」
高瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
男性は何気ない様子で続ける。
「来週から異動だろ? 頑張ってな」
佐伯は、何も言えなかった。
エレベーターの扉が閉まりかける。
高瀬は開ボタンを押した。
「……すみません」
男性がこちらを見る。
「はい?」
「佐伯さんが、さっき帰ったところを見たんですか」
「ええ」
男性は頷いた。
「一緒にエレベーター乗ったよ」
高瀬は息を止めた。
「……どんな様子でした?」
「普通だったけど?」
男性は少し考えた。
「そういえば、珍しく嬉しそうだったな」
「……嬉しそう?」
「うん」
男性は笑った。
「『やっと希望が通りました』って言ってたよ」
佐伯が、壁に手をついた。
高瀬は、その肩を支えた。
男性は驚いたように二人を見る。
「……大丈夫?」
高瀬は答えられなかった。
佐伯の指が、震えていた。
やっと希望が通った。
佐伯本人は、退職したかった。
けれど、会社にいた佐伯は、異動を喜んでいた。
同じ名前。
同じ顔。
同じ記録。
違う意思。
高瀬は、エレベーターの鏡を見た。
そこには、自分と佐伯が映っている。
二人だけ。
けれど。
この会社には、ついさっきまで。
もう一人の佐伯がいた。
その事実だけが、重く残っていた。
◇
ビルを出ると、夜の風が吹いていた。
森田は近くのベンチで待っていた。
二人の姿を見ると、すぐに立ち上がった。
「……どうだった?」
佐伯は答えなかった。
高瀬も、すぐには言葉が出なかった。
森田はそれ以上聞かず、二人を近くの喫茶店へ案内した。
温かい飲み物を注文し、三人で席に着く。
しばらくして、佐伯が口を開いた。
「……僕、辞められないんですね」
高瀬は首を振った。
「まだ、そう決まったわけじゃありません」
「でも、僕が辞めたいって言っても、向こうの僕が取り消すんです」
「……」
「会社の人たちは、向こうの僕を信じる。仕事もできるし、毎日出勤してるから」
佐伯は笑った。
泣きそうな顔だった。
「僕が何を言っても、向こうの僕のほうが正しいんですよ」
高瀬は、何も言えなかった。
森田が静かに聞いた。
「佐伯さん、今はどうしたい?」
佐伯は顔を上げた。
「……辞めたいです」
「うん」
「もう、僕の知らないところで何か決められるの、嫌です」
森田は頷いた。
高瀬も、ゆっくりと言った。
「その意思を、まず残しましょう」
佐伯が高瀬を見る。
「……残す?」
「今日、会社で話したこと。退職したいと言ったこと。異動を希望していないこと。確認できた記録との食い違い」
高瀬は続けた。
「本人の意思を、本人の言葉で整理するんです」
「……それで、変わりますか」
「分かりません」
高瀬は正直に答えた。
「でも、何も残さなければ、また『本人が希望した』という記録だけが残るかもしれない」
佐伯は、しばらく考えた。
そして、頷いた。
「……やります」
森田が小さく笑った。
「じゃあ、私も手伝う」
高瀬は、テーブルの上にノートを開いた。
佐伯が話す。
高瀬が書く。
森田が、時々確認する。
誰かの評価ではない。
誰かが勝手に作った記録でもない。
佐伯本人が、今日、自分の言葉で残すものだった。
◇
帰宅したのは、午後十時を過ぎた頃だった。
高瀬は上着を脱ぎ、机に座った。
今日の出来事が、頭から離れない。
受付の女性。
総務担当者。
エレベーターの男性。
全員が、佐伯を知っていた。
そして、全員が、今日も佐伯が働いていたと思っていた。
高瀬はスマートフォンを手に取った。
Reviewを開く。
『保留中の評価があります』
その表示は、まだ残っていた。
高瀬は画面を見つめた。
星が五つ。
☆☆☆☆☆
評価対象は、自分。
採点しなかったことを、採点しろと言われている。
「……まだやってんのか」
高瀬は呟いた。
その時、画面が切り替わった。
新しい通知。
『本日の記録が更新されました』
高瀬は指を止めた。
続けて、文章が表示される。
『評価対象:佐伯』
『現在の評価:★★★★★』
高瀬は息を止めた。
その下には、短い一文。
『本人の希望により、異動が承認されました』
高瀬はスマートフォンを握り締めた。
佐伯は、異動を希望していない。
会社で、確かにそう言った。
森田も聞いた。
自分も聞いた。
それなのに。
Reviewは、異動を「本人の希望」として扱っている。
高瀬は画面を見つめた。
五つの星。
最高評価。
誰から見ても、順調な人生。
けれど、その人生を生きているはずの本人だけが、何も選べない。
「……何が五つ星だよ」
高瀬は、低く呟いた。
その時。
画面の一番下に、もう一文が表示された。
『評価を修正しますか?』
選択肢が現れる。
『YES』
『NO』
高瀬は、指を伸ばしかけた。
星を下げれば。
佐伯の異動を止められるのかもしれない。
本人の意思を、取り戻せるのかもしれない。
だが、森田の声が頭をよぎる。
『押さないで』
高瀬は手を止めた。
スマートフォンの光が、暗い部屋を照らしている。
画面には、五つの星。
その下に、二つの選択肢。
そして。
高瀬の指は、まだどちらにも触れていなかった。




