Review21 出勤したことになっている
日曜日の朝、高瀬悠介はスマートフォンを裏返したまま、食卓に座っていた。
昨夜から一度も画面を開いていない。
雨は夜のうちに上がり、窓の外には洗濯物を干す人の姿が見えた。隣の部屋からは掃除機の音が聞こえる。どこにでもある休日の朝だった。
それなのに、テーブルの上の小さな機械だけが、妙に重く感じられた。
『未評価のまま、保存しますか?』
あの文字は、まだ残っているのだろうか。
高瀬はパンを一口かじり、牛乳を飲んだ。
「……逃げてるわけじゃない」
独り言だった。
自分でも、誰に向かって言っているのか分からない。
昨日、佐伯は自分に人生を採点してほしいと言った。
高瀬は断った。
その判断が正しかったかどうかは、今も分からない。
ただ、知らない人間の人生に、五つの星から一つを選ぶことだけはしたくなかった。
スマートフォンを手に取る。
画面をつけた。
Reviewの通知は、消えていた。
「……え?」
アプリを開く。
昨夜の選択画面はない。
履歴にも残っていない。
代わりに、画面の一番上に短い文章が表示されていた。
『保留中の評価があります』
高瀬は眉を寄せた。
「勝手に保留にしたのかよ」
その下には、昨日の文章があった。
『あなたは今日、一人の人生を採点しませんでした。』
そして。
『評価対象:高瀬悠介』
高瀬は息を止めた。
佐伯の人生を採点しなかったことが、今度は自分の評価になっている。
画面の下に、星が五つ並んでいた。
☆☆☆☆☆
高瀬は指を伸ばさなかった。
その時、通常のメッセージアプリに通知が届いた。
森田からだった。
『先生、起きてますか?』
『起きてる。どうした?』
すぐに返事が来た。
『佐伯さんから連絡がありました。昨日のことで、少し話したいそうです』
高瀬は画面を見つめた。
『本人が俺と話したいって?』
『はい』
高瀬は短く返信した。
『分かった。電話できるなら、いつでも』
送信してから、パンがまだ半分残っていることに気づいた。
冷めたトーストを口に運んだが、味はよく分からなかった。
◇
電話がかかってきたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
「……高瀬先生ですか」
「はい。佐伯さん?」
「昨日は、すみませんでした」
「いや、こちらこそ」
高瀬は言いかけて、口を閉じた。
何に対して謝ろうとしているのか、自分でも分からなかった。
「どうしました?」
佐伯は少し黙った。
電話の向こうで、車が通り過ぎる音がした。
「先生、昨日の話なんですけど」
「はい」
「中学校だけじゃないんです」
高瀬は椅子に座り直した。
「……どういうことですか」
「今も、続いてるんです」
佐伯は言った。
「僕、働いてることになってるんです」
◇
佐伯は現在、物流会社の事務職として登録されている。
少なくとも、会社の記録上は。
入社したのは二年前。
勤怠表には、毎月ほとんど欠勤がない。業務評価も悪くなく、上司からは「真面目で安定している」と言われている。
けれど、佐伯本人は、その会社へ一度も出勤したことがなかった。
「……一度も?」
高瀬は聞き返した。
「はい」
「面接は?」
「受けました。内定ももらいました。でも、初出勤の日に行けなくなって」
佐伯は淡々と答えた。
「朝、玄関まで行ったんです。靴も履いた。でも、外に出られなかった」
「……」
「会社に電話しました。体調が悪いので休ませてくださいって」
そこで、佐伯は小さく息を吐いた。
「そしたら、電話に出た人が言ったんです」
『佐伯さん、もう席にいますよ』
高瀬は何も言えなかった。
「最初は間違いだと思いました。でも、会社から届くメールには、僕が仕事をした記録が残っていた。会議の議事録にも名前があって、僕が発言したことになっていた」
「……給与は?」
「振り込まれています」
「……」
「毎月、普通に」
佐伯の声が少し震えた。
「僕、何もしてないのに」
高瀬は窓の外を見た。
日曜日の住宅街。
子どもが自転車に乗り、父親らしい男性が後ろから声をかけている。
世界は、何事もないように動いている。
「会社には、相談したんですか」
「しました」
「何て?」
「『疲れてるんじゃないか』って」
佐伯は笑った。
乾いた笑いだった。
「上司は、僕が毎日出勤しているのを見てるんです。仕事もしてる。だから、僕が『行ってない』って言っても、冗談か、体調が悪いんだと思われる」
高瀬は、昨日の通知表を思い出した。
欠席ゼロ。
意欲的に参加。
充実した学校生活。
今度は、それが会社で起きている。
「……佐伯さん」
「はい」
「今、どこにいますか」
「家です」
「一人ですか」
「母がいます」
高瀬は少しだけ息を吐いた。
「お母さんは、今の状況を知ってますか」
「はい。家にいる僕を見てますから」
「……そうですか」
電話の向こうで、佐伯が何かを飲む音がした。
「先生」
「はい」
「僕、昨日、ひどいこと言いましたよね」
『先生も、僕の通知表のほうが好きなんでしょうね』
高瀬は、その言葉を思い出した。
「……ひどいとは思ってません」
「でも、困らせた」
「困りました」
正直に答えた。
佐伯が少し笑う。
「ですよね」
「ただ、困ったからって、話を聞きたくないわけじゃないです」
佐伯は黙った。
高瀬は続けた。
「昨日、あなたの人生を採点してほしいと言われて、俺は断りました」
「……はい」
「今も、点数はつけられません」
「……」
「でも」
高瀬は言葉を選んだ。
「あなたが話してくれたことを、なかったことにはしたくないです」
電話の向こうで、佐伯が息を吸う音がした。
「……先生」
「はい」
「それ、どうやったらできますか」
高瀬は答えられなかった。
記録を直す方法も。
学校にいたもう一人の佐伯が何なのかも。
会社で働いていることになっている理由も。
何一つ、分からない。
それでも。
「……まず、今ある記録と、あなたが実際に経験したことを整理しませんか」
高瀬は言った。
「一緒に」
◇
午後。
高瀬は森田に連絡を入れた。
『佐伯さんと話した。今も現象が続いてるらしい』
森田からの返信は、少し遅れて届いた。
『はい。本人からも聞いています』
『森田は知ってたのか?』
『知ってました』
高瀬は画面を見つめた。
『何で昨日、言わなかった?』
しばらくして、電話がかかってきた。
「先生」
「……おう」
「怒ってる?」
「ちょっとな」
「そっか」
森田は静かに答えた。
「昨日、私が全部説明したら、先生は佐伯さん本人の話を聞く前に、どうにかしようとしたと思う」
高瀬は反論しかけた。
けれど、昨日の自分を思い返す。
佐伯が「学校へ行けなかった」と言った時。
すぐに原因を探そうとした。
家族は。
学校は。
誰が代わりにいたのか。
確かに、自分は答えを急いでいた。
「……そうかもしれん」
「でも、黙ってたのは私の判断。先生が怒るのも分かる」
森田は少し間を置いた。
「ごめん」
高瀬は椅子にもたれた。
「いや……俺も、怒る前に聞けばよかった」
「先生、最近謝るの早いね」
「謝罪の達人になりつつある」
「それはそれで心配」
二人で少し笑った。
けれど、森田の声はすぐに真剣なものへ戻った。
「先生。佐伯さん、今の会社を辞めたいって言ってる」
「……そうなのか」
「でも、辞められないんだって」
「何で?」
「退職届を出したら、翌日には取り消されてたらしい」
高瀬は眉を寄せた。
「本人が?」
「違う。会社の記録では、佐伯さん本人が取り下げたことになってた」
高瀬は、スマートフォンを握り直した。
「……それ、いつの話?」
「先週」
「……」
「先生」
森田が言った。
「佐伯さんは、もう一人の自分が何をしているのか、分からないまま生活してる」
高瀬は黙った。
「仕事をして、給料をもらって、会社では評価されてる。でも本人は、何も選べない」
森田の声が少し低くなる。
「昨日、先生に採点してほしいって言ったのは、たぶん」
そこで言葉を切った。
「自分が本当にいるのか、誰かに決めてほしかったんだと思う」
高瀬は目を閉じた。
昨日の佐伯の顔が浮かぶ。
『僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです』
高瀬は、ようやく理解し始めていた。
佐伯が欲しかったのは、点数そのものではない。
自分の人生を、自分のものだと言ってくれる誰かだったのかもしれない。
ただ、それもまだ、高瀬の推測にすぎなかった。
「……森田」
「うん」
「佐伯さんに、もう一回会いたい」
「本人に聞いてみる」
「頼む」
電話を切った。
◇
夕方。
高瀬は机の上にノートを開いた。
佐伯から聞いた話を、忘れないうちに整理するためだった。
ただし、本人の許可なく詳細な個人情報を書き残すことは避けた。次に会った時、何を確認したいかだけを箇条書きにする。
『学校に行かなかった日と、出席記録』
『会社に出勤していない日と、勤怠記録』
『本人が希望していること』
『今、困っていること』
最後に、もう一行。
『誰が、何を決めているのか』
高瀬はペンを止めた。
森田は、学校の記録から消えた。
三上は、教師の記憶と名簿から消えた。
佐伯は、本人がいない場所で、本人がいることになっている。
それぞれ違う。
けれど、共通していることがある。
本人の意思とは関係なく、存在の扱いが変わっている。
高瀬はノートを閉じた。
その時、スマートフォンが震えた。
森田からだった。
『佐伯さん、会いたいそうです』
続けて。
『ただ、条件があります』
高瀬は返信した。
『何?』
数秒後、答えが届いた。
『会社に、一緒に来てほしいそうです』
高瀬は画面を見つめた。
会社。
佐伯が一度も出勤したことのない場所。
けれど、毎日働いていることになっている場所。
高瀬は、ゆっくりと息を吐いた。
『分かった。佐伯さんと日時を相談したい』
送信する。
それから、机の上のスマートフォンを裏返した。
Reviewの画面は、まだ開いていない。
保留中の評価がどうなったのかも、分からない。
ただ。
今は、星を選ぶより先に、確かめたいことがあった。
佐伯が会社へ行った時。
そこにいるはずの「佐伯」は、どうなるのか。
高瀬は窓の外を見た。
夕暮れの空が、少しずつ暗くなっていた。
明日から、また学校が始まる。
生徒たちの日常も。
佐伯の知らない仕事も。
何事もなかったように、動き続ける。
その中で。
佐伯だけが、自分の人生から取り残されている。
高瀬は、閉じたノートに手を置いた。
「……今度は、ちゃんと聞こう」
誰かの人生を、勝手に決めないために。
そして。
本人が選んだことまで、なかったことにされないために。




