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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

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95/120

Review21 出勤したことになっている

 日曜日の朝、高瀬悠介はスマートフォンを裏返したまま、食卓に座っていた。


 昨夜から一度も画面を開いていない。


 雨は夜のうちに上がり、窓の外には洗濯物を干す人の姿が見えた。隣の部屋からは掃除機の音が聞こえる。どこにでもある休日の朝だった。


 それなのに、テーブルの上の小さな機械だけが、妙に重く感じられた。


『未評価のまま、保存しますか?』


 あの文字は、まだ残っているのだろうか。


 高瀬はパンを一口かじり、牛乳を飲んだ。


「……逃げてるわけじゃない」


 独り言だった。


 自分でも、誰に向かって言っているのか分からない。


 昨日、佐伯は自分に人生を採点してほしいと言った。


 高瀬は断った。


 その判断が正しかったかどうかは、今も分からない。


 ただ、知らない人間の人生に、五つの星から一つを選ぶことだけはしたくなかった。


 スマートフォンを手に取る。


 画面をつけた。


 Reviewの通知は、消えていた。


「……え?」


 アプリを開く。


 昨夜の選択画面はない。


 履歴にも残っていない。


 代わりに、画面の一番上に短い文章が表示されていた。


『保留中の評価があります』


 高瀬は眉を寄せた。


「勝手に保留にしたのかよ」


 その下には、昨日の文章があった。


『あなたは今日、一人の人生を採点しませんでした。』


 そして。


『評価対象:高瀬悠介』


 高瀬は息を止めた。


 佐伯の人生を採点しなかったことが、今度は自分の評価になっている。


 画面の下に、星が五つ並んでいた。


 ☆☆☆☆☆


 高瀬は指を伸ばさなかった。


 その時、通常のメッセージアプリに通知が届いた。


 森田からだった。


『先生、起きてますか?』


『起きてる。どうした?』


 すぐに返事が来た。


『佐伯さんから連絡がありました。昨日のことで、少し話したいそうです』


 高瀬は画面を見つめた。


『本人が俺と話したいって?』


『はい』


 高瀬は短く返信した。


『分かった。電話できるなら、いつでも』


 送信してから、パンがまだ半分残っていることに気づいた。


 冷めたトーストを口に運んだが、味はよく分からなかった。


     ◇


 電話がかかってきたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。


「……高瀬先生ですか」


「はい。佐伯さん?」


「昨日は、すみませんでした」


「いや、こちらこそ」


 高瀬は言いかけて、口を閉じた。


 何に対して謝ろうとしているのか、自分でも分からなかった。


「どうしました?」


 佐伯は少し黙った。


 電話の向こうで、車が通り過ぎる音がした。


「先生、昨日の話なんですけど」


「はい」


「中学校だけじゃないんです」


 高瀬は椅子に座り直した。


「……どういうことですか」


「今も、続いてるんです」


 佐伯は言った。


「僕、働いてることになってるんです」


     ◇


 佐伯は現在、物流会社の事務職として登録されている。


 少なくとも、会社の記録上は。


 入社したのは二年前。


 勤怠表には、毎月ほとんど欠勤がない。業務評価も悪くなく、上司からは「真面目で安定している」と言われている。


 けれど、佐伯本人は、その会社へ一度も出勤したことがなかった。


「……一度も?」


 高瀬は聞き返した。


「はい」


「面接は?」


「受けました。内定ももらいました。でも、初出勤の日に行けなくなって」


 佐伯は淡々と答えた。


「朝、玄関まで行ったんです。靴も履いた。でも、外に出られなかった」


「……」


「会社に電話しました。体調が悪いので休ませてくださいって」


 そこで、佐伯は小さく息を吐いた。


「そしたら、電話に出た人が言ったんです」


『佐伯さん、もう席にいますよ』


 高瀬は何も言えなかった。


「最初は間違いだと思いました。でも、会社から届くメールには、僕が仕事をした記録が残っていた。会議の議事録にも名前があって、僕が発言したことになっていた」


「……給与は?」


「振り込まれています」


「……」


「毎月、普通に」


 佐伯の声が少し震えた。


「僕、何もしてないのに」


 高瀬は窓の外を見た。


 日曜日の住宅街。


 子どもが自転車に乗り、父親らしい男性が後ろから声をかけている。


 世界は、何事もないように動いている。


「会社には、相談したんですか」


「しました」


「何て?」


「『疲れてるんじゃないか』って」


 佐伯は笑った。


 乾いた笑いだった。


「上司は、僕が毎日出勤しているのを見てるんです。仕事もしてる。だから、僕が『行ってない』って言っても、冗談か、体調が悪いんだと思われる」


 高瀬は、昨日の通知表を思い出した。


 欠席ゼロ。


 意欲的に参加。


 充実した学校生活。


 今度は、それが会社で起きている。


「……佐伯さん」


「はい」


「今、どこにいますか」


「家です」


「一人ですか」


「母がいます」


 高瀬は少しだけ息を吐いた。


「お母さんは、今の状況を知ってますか」


「はい。家にいる僕を見てますから」


「……そうですか」


 電話の向こうで、佐伯が何かを飲む音がした。


「先生」


「はい」


「僕、昨日、ひどいこと言いましたよね」


『先生も、僕の通知表のほうが好きなんでしょうね』


 高瀬は、その言葉を思い出した。


「……ひどいとは思ってません」


「でも、困らせた」


「困りました」


 正直に答えた。


 佐伯が少し笑う。


「ですよね」


「ただ、困ったからって、話を聞きたくないわけじゃないです」


 佐伯は黙った。


 高瀬は続けた。


「昨日、あなたの人生を採点してほしいと言われて、俺は断りました」


「……はい」


「今も、点数はつけられません」


「……」


「でも」


 高瀬は言葉を選んだ。


「あなたが話してくれたことを、なかったことにはしたくないです」


 電話の向こうで、佐伯が息を吸う音がした。


「……先生」


「はい」


「それ、どうやったらできますか」


 高瀬は答えられなかった。


 記録を直す方法も。


 学校にいたもう一人の佐伯が何なのかも。


 会社で働いていることになっている理由も。


 何一つ、分からない。


 それでも。


「……まず、今ある記録と、あなたが実際に経験したことを整理しませんか」


 高瀬は言った。


「一緒に」


     ◇


 午後。


 高瀬は森田に連絡を入れた。


『佐伯さんと話した。今も現象が続いてるらしい』


 森田からの返信は、少し遅れて届いた。


『はい。本人からも聞いています』


『森田は知ってたのか?』


『知ってました』


 高瀬は画面を見つめた。


『何で昨日、言わなかった?』


 しばらくして、電話がかかってきた。


「先生」


「……おう」


「怒ってる?」


「ちょっとな」


「そっか」


 森田は静かに答えた。


「昨日、私が全部説明したら、先生は佐伯さん本人の話を聞く前に、どうにかしようとしたと思う」


 高瀬は反論しかけた。


 けれど、昨日の自分を思い返す。


 佐伯が「学校へ行けなかった」と言った時。


 すぐに原因を探そうとした。


 家族は。


 学校は。


 誰が代わりにいたのか。


 確かに、自分は答えを急いでいた。


「……そうかもしれん」


「でも、黙ってたのは私の判断。先生が怒るのも分かる」


 森田は少し間を置いた。


「ごめん」


 高瀬は椅子にもたれた。


「いや……俺も、怒る前に聞けばよかった」


「先生、最近謝るの早いね」


「謝罪の達人になりつつある」


「それはそれで心配」


 二人で少し笑った。


 けれど、森田の声はすぐに真剣なものへ戻った。


「先生。佐伯さん、今の会社を辞めたいって言ってる」


「……そうなのか」


「でも、辞められないんだって」


「何で?」


「退職届を出したら、翌日には取り消されてたらしい」


 高瀬は眉を寄せた。


「本人が?」


「違う。会社の記録では、佐伯さん本人が取り下げたことになってた」


 高瀬は、スマートフォンを握り直した。


「……それ、いつの話?」


「先週」


「……」


「先生」


 森田が言った。


「佐伯さんは、もう一人の自分が何をしているのか、分からないまま生活してる」


 高瀬は黙った。


「仕事をして、給料をもらって、会社では評価されてる。でも本人は、何も選べない」


 森田の声が少し低くなる。


「昨日、先生に採点してほしいって言ったのは、たぶん」


 そこで言葉を切った。


「自分が本当にいるのか、誰かに決めてほしかったんだと思う」


 高瀬は目を閉じた。


 昨日の佐伯の顔が浮かぶ。


『僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです』


 高瀬は、ようやく理解し始めていた。


 佐伯が欲しかったのは、点数そのものではない。


 自分の人生を、自分のものだと言ってくれる誰かだったのかもしれない。


 ただ、それもまだ、高瀬の推測にすぎなかった。


「……森田」


「うん」


「佐伯さんに、もう一回会いたい」


「本人に聞いてみる」


「頼む」


 電話を切った。


     ◇


 夕方。


 高瀬は机の上にノートを開いた。


 佐伯から聞いた話を、忘れないうちに整理するためだった。


 ただし、本人の許可なく詳細な個人情報を書き残すことは避けた。次に会った時、何を確認したいかだけを箇条書きにする。


『学校に行かなかった日と、出席記録』


『会社に出勤していない日と、勤怠記録』


『本人が希望していること』


『今、困っていること』


 最後に、もう一行。


『誰が、何を決めているのか』


 高瀬はペンを止めた。


 森田は、学校の記録から消えた。


 三上は、教師の記憶と名簿から消えた。


 佐伯は、本人がいない場所で、本人がいることになっている。


 それぞれ違う。


 けれど、共通していることがある。


 本人の意思とは関係なく、存在の扱いが変わっている。


 高瀬はノートを閉じた。


 その時、スマートフォンが震えた。


 森田からだった。


『佐伯さん、会いたいそうです』


 続けて。


『ただ、条件があります』


 高瀬は返信した。


『何?』


 数秒後、答えが届いた。


『会社に、一緒に来てほしいそうです』


 高瀬は画面を見つめた。


 会社。


 佐伯が一度も出勤したことのない場所。


 けれど、毎日働いていることになっている場所。


 高瀬は、ゆっくりと息を吐いた。


『分かった。佐伯さんと日時を相談したい』


 送信する。


 それから、机の上のスマートフォンを裏返した。


 Reviewの画面は、まだ開いていない。


 保留中の評価がどうなったのかも、分からない。


 ただ。


 今は、星を選ぶより先に、確かめたいことがあった。


 佐伯が会社へ行った時。


 そこにいるはずの「佐伯」は、どうなるのか。


 高瀬は窓の外を見た。


 夕暮れの空が、少しずつ暗くなっていた。


 明日から、また学校が始まる。


 生徒たちの日常も。


 佐伯の知らない仕事も。


 何事もなかったように、動き続ける。


 その中で。


 佐伯だけが、自分の人生から取り残されている。


 高瀬は、閉じたノートに手を置いた。


「……今度は、ちゃんと聞こう」


 誰かの人生を、勝手に決めないために。


 そして。


 本人が選んだことまで、なかったことにされないために。

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