Review20 欠席理由は、存在しない
土曜日の朝、高瀬悠介は予定より三十分早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は薄く、窓の外では雨が降り始めていた。昨夜の天気予報では曇りだったはずだが、駐車場のアスファルトにはすでに黒い染みが広がっている。
枕元のスマートフォンを手に取る。
予定表には、午後二時から森田と会う約束が入っていた。
『森田さんと面会』
自分で入力した文字を見て、高瀬は苦笑した。
「面会って。病院かよ」
もっと普通の書き方があっただろうに。
森田から連絡が来たのは、一昨日の放課後だった。
『先生に会ってほしい人がいます』
続けて送られてきたのは、駅から少し離れた喫茶店の住所だけ。誰が来るのか、どんな事情を抱えているのかは聞いていない。
ただ、一つだけ確認した。
『その人は、俺に会いたいって言ってるのか?』
森田の返事は、短かった。
『はい。本人が希望しています』
高瀬はベッドから起き上がり、台所へ向かった。
コーヒーを淹れようとして、棚の前で手を止める。
以前、森田にブラックコーヒーを出した時のことを思い出したのだ。
『先生、私がブラック飲めるようになったと思った?』
そんなふうに笑われた。
高瀬は結局、インスタントコーヒーの瓶を戻し、麦茶をグラスに注いだ。
「……何で俺まで影響されてんだよ」
誰もいない部屋で呟く。
笑い声は返ってこなかった。
◇
約束の喫茶店は、古い商店街の外れにあった。
入口のガラスには雨粒が幾筋も伝い、扉を開けると、小さなベルが鳴った。焙煎した豆の香りと、焼いたバターの匂いが混ざっている。
店内の奥に、森田がいた。
「先生、こっち」
窓際の席から手を振っている。
「早いな」
「先生が遅刻しないか心配だったので」
「十三年分を一回で取り返そうとしてるんだよ」
「じゃあ、あと十三年くらい早く来てください」
「要求が重い!」
森田は笑った。
その向かいには、もう一人いた。
高瀬より少し若い男だった。紺色のパーカーに黒いズボン。テーブルの上には、水の入ったグラスが置かれている。
男は高瀬を見ると、椅子から立ち上がった。
「……初めまして」
低い声だった。
「初めまして。高瀬です」
高瀬も頭を下げる。
男は名乗ろうとして、一瞬だけ口を閉じた。
「……佐伯です」
「佐伯さん」
高瀬は、その名前を繰り返した。
男の肩が、わずかに動いた。
「座ってください」
森田が言った。
高瀬は二人の向かいに腰を下ろした。
店員が注文を取りに来る。
「先生、何飲む?」
「コーヒーで」
「ブラック?」
「……ミルクつけてください」
森田が吹き出した。
「学習した」
「うるさい」
佐伯は笑わなかった。
そのことに気づいて、高瀬も口を閉じた。
◇
「佐伯さんは、私と同じような経験をした人です」
森田が切り出した。
高瀬は頷いた。
「記録から……こぼれた?」
「はい」
佐伯が答えた。
「ただ、森田さんとは少し違います」
彼はグラスに触れた。飲むわけではなく、指先で水滴を拭っている。
「僕の場合、最初に消えたのは、名前じゃありませんでした」
「……何が?」
「欠席です」
高瀬は眉を寄せた。
「欠席?」
「中学二年の時、学校を休んだんです」
佐伯は淡々と話し始めた。
「最初は三日でした。熱があって、病院にも行きました。家で寝て、四日目に学校へ戻ったんです」
「うん」
「そしたら、担任に言われました」
佐伯は高瀬を見た。
「『昨日も来てただろ』って」
雨が窓を叩いた。
高瀬は黙っていた。
「出席簿は全部、出席になっていました。授業のノートも、提出物も、僕がやったことになっていた」
「……誰かが代わりに?」
「分かりません」
佐伯は首を振った。
「僕の字でした。自分では書いていないのに」
高瀬は背中に冷たいものを感じた。
森田の時は、学校から彼女の存在が抜け落ちていた。
佐伯の場合は逆だ。
いなかったはずの時間が、いたことになっている。
「それからも、休んだ日は全部、出席になりました」
「家族は?」
「休んだことを覚えていました。病院の領収書も残っていました。でも学校では、誰も信じてくれなかった」
佐伯はグラスから手を離した。
「最初は、得したと思ったんです」
「……得?」
「欠席がつかないから。皆勤賞も取れるし、先生にも褒められる」
少しだけ、笑った。
「休んでも、ちゃんと学校に来たことになる。便利でしょう?」
その笑い方が、高瀬には妙に痛々しく見えた。
「でも、ある日」
佐伯の声が低くなった。
「僕は、学校に行くのをやめました」
◇
佐伯は中学二年の冬から、教室へ行けなくなった。
理由は一つではなかったという。授業についていけなくなったこと。クラスで居場所を見つけられなかったこと。朝になると身体が重くなり、制服に袖を通すだけで吐き気がしたこと。
家族は心配し、学校にも相談した。
けれど、学校側の記録では、佐伯は毎日出席していた。
「担任は、僕が教室にいるのを見たって言うんです」
「……本人がいないのに?」
「はい」
「クラスメイトは?」
「いたって」
佐伯は答えた。
「普通に話したって。給食も食べてたって。体育にも出てたって」
高瀬はコーヒーカップを置いた。
「じゃあ、学校にいた佐伯さんは……」
「分かりません」
佐伯は即答した。
「僕なのか、僕じゃない誰かなのか。そもそも、本当に何かがいたのか」
森田が静かに続けた。
「佐伯さんは、家では確かに休んでいたんです。お母さんも見ている。でも学校では、出席していることになっていた」
「……それで?」
高瀬が聞いた。
佐伯は窓の外を見た。
「卒業しました」
高瀬は言葉を失った。
「一度も学校に戻らないまま、卒業証書が届きました。通知表も、卒業アルバムも、全部そろっていました」
「……」
「僕、卒業アルバムの写真、撮ってないんです」
佐伯は鞄から一枚の写真を取り出した。
古い卒業アルバムのページをスマートフォンで撮影したものだった。
そこには、制服姿の少年が写っていた。
無表情で、まっすぐカメラを見ている。
「これが僕です」
佐伯が言った。
「でも、こんな写真を撮った覚えはありません」
高瀬は写真を見つめた。
顔立ちは、確かに目の前の佐伯に似ている。
けれど、それが何を意味するのかは分からなかった。
「……怖かったでしょう」
高瀬が言うと、佐伯は首を振った。
「最初は」
そこで言葉を切った。
「でも、もっと嫌だったのは、別のことです」
「何ですか」
「僕がいなくても、誰も困らなかったことです」
高瀬は顔を上げた。
「僕が学校に行かなくても、僕は出席していた。僕が授業を受けなくても、ノートは埋まっていた。僕が誰とも話していなくても、みんなは僕と話したことになっていた」
佐伯の指が、テーブルの端を強く掴んだ。
「僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです」
森田は何も言わなかった。
高瀬も、すぐには言葉を返せなかった。
窓の向こうで、傘を差した親子が通り過ぎる。子どもが水たまりを踏み、母親が慌てて手を引いた。
そのありふれた光景が、今は遠く感じられた。
◇
「……どうして、俺に会いたかったんですか」
高瀬は尋ねた。
佐伯は、しばらく答えなかった。
森田が彼を見る。
「無理に話さなくてもいいよ」
「大丈夫です」
佐伯は鞄を開けた。
中から、透明なファイルを取り出す。
何枚かの紙が挟まれていた。
「森田さんから、先生の話を聞きました」
「俺の?」
「忘れていた生徒を、探してくれたって」
高瀬は森田を見た。
森田は小さく頷いた。
「それで、思ったんです」
佐伯が言った。
「この人なら、分かるかもしれないって」
ファイルから一枚の紙を抜く。
古い通知表のコピーだった。
高瀬は受け取った。
出席日数。
欠席日数。
各教科の評定。
所見欄。
そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
『毎日休まず登校し、学級の活動にも意欲的に参加しました。周囲の友人とも協力し、充実した学校生活を送ることができました。』
高瀬は、その文章を読んだ。
もう一度。
そして、欠席日数を見る。
ゼロ。
「……これを?」
「はい」
佐伯は答えた。
「先生に、採点してほしいんです」
高瀬の指が止まった。
「……採点?」
「僕の中学校生活は、何点だったんでしょうか」
佐伯は笑っていなかった。
「学校に行けなかった僕と、毎日学校に行っていた僕。どっちが正しかったんですか」
高瀬は通知表を見た。
紙の上では、佐伯は模範的な生徒だった。
休まず登校し、授業を受け、友人と協力し、卒業した。
けれど、目の前の佐伯は、その三年間を自分のものだと思えていない。
高瀬は口を開いた。
「……それは」
言葉が続かなかった。
佐伯が待っている。
森田も、何も言わない。
高瀬は、ようやく答えた。
「俺には、点数をつけられません」
佐伯の表情が変わった。
「……どうしてですか」
「あなたが、何を経験してきたのか。まだ、ほとんど知らないからです」
「じゃあ、全部話したら?」
佐伯は身を乗り出した。
「全部話したら、つけてくれますか?」
高瀬は黙った。
「先生は、教師でしょう?」
佐伯の声が少し強くなる。
「生徒のこと、評価する仕事でしょう?」
「……そうです」
「だったら」
佐伯は通知表を指差した。
「これが正しいのか、間違っているのか。教えてくださいよ」
高瀬は、もう一度紙を見た。
欠席ゼロ。
意欲的に参加。
充実した学校生活。
そこに書かれた言葉は、佐伯の話と食い違っている。
それだけは、分かる。
「この記録は、あなたが話してくれた経験と一致していません」
高瀬は言った。
「でも、だからといって、あなたの人生が間違っていたことにはならない」
佐伯は目を伏せた。
「……そういう答えが欲しかったわけじゃないんです」
「……」
「僕は、知りたいんです」
佐伯の声が震えた。
「僕が学校に行けなかったことは、悪いことだったのか」
高瀬は息を吸った。
「悪いことじゃ――」
「じゃあ、何で」
佐伯が遮った。
「僕の代わりに、学校へ行く僕が必要だったんですか?」
高瀬は、何も言えなかった。
◇
喫茶店を出る頃には、雨が強くなっていた。
佐伯は先に帰った。
最後まで、高瀬に点数を求めることはなかった。
ただ、別れ際に一言だけ言った。
「先生も、僕の通知表のほうが好きなんでしょうね」
高瀬は否定しようとした。
けれど、佐伯はもう背を向けていた。
その後ろ姿を追いかけることは、しなかった。
店の軒下で、森田が傘を開く。
「先生」
「……ん?」
「今日、どうでした?」
高瀬は雨の向こうを見た。
「何もできなかった」
「そうかな」
「答えられなかった」
森田は少し考えた。
「佐伯さん、答えを欲しがってたからね」
「……ああ」
「でも、先生が適当に点数つけたら、たぶんもっと怒ってたと思う」
高瀬は苦笑した。
「難しいな」
「難しいよ」
森田はあっさり答えた。
「私も、先生に全部分かってもらえたとは思ってないし」
「……そうだよな」
「でも、会ってよかったとは思ってる」
高瀬は森田を見た。
「何で?」
「先生が、分かったふりしなかったから」
森田は傘を少し傾けた。
「それだけ」
高瀬は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
森田が笑う。
「じゃあ、また」
「おう」
「次は、もうちょっと早く来てね」
「今日三十分前に来たんだけど!?」
「十三年分には足りない」
「計算が厳しい!」
森田は笑いながら歩いていった。
高瀬も傘を開く。
雨の音が、急に近くなった。
◇
帰宅後。
高瀬は濡れた上着を脱ぎ、机の上に置いたスマートフォンを手に取った。
佐伯の話が頭から離れなかった。
欠席していたのに、出席していた。
行かなかった学校で、誰かと話していた。
撮っていない卒業写真が残っていた。
そして。
『僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです』
高瀬は目を閉じた。
その時。
スマートフォンが震えた。
画面に、見慣れた文字が浮かぶ。
Review。
高瀬は息を止めた。
通知を開く。
そこには、短い文章が表示されていた。
『あなたは今日、一人の人生を採点しませんでした。』
高瀬は画面を見つめた。
続けて、もう一文。
『その選択を、評価しますか?』
星が五つ並んでいた。
☆☆☆☆☆
高瀬の指が止まる。
自分が、評価されている。
採点しなかったことを、採点しろと言われている。
「……ふざけんな」
高瀬は呟いた。
画面の星は、静かに並んでいる。
どれかを選べば、何かが変わるのかもしれない。
選ばなければ、何かが失われるのかもしれない。
高瀬は、スマートフォンを机に置いた。
触れなかった。
星は、消えなかった。
そのまま、画面の明かりだけが部屋を照らしていた。
高瀬は窓の外を見た。
雨は、まだ止んでいない。
佐伯は今頃、どこにいるのだろう。
帰宅しているのか。
誰かと話しているのか。
それとも、また一人で、自分の通知表を見つめているのか。
分からない。
分からないことばかりだった。
それでも、高瀬は思った。
あの通知表に書かれている佐伯だけを、佐伯だと決めつけることはできない。
今日、目の前で話していた彼を、なかったことにもできない。
高瀬はもう一度、スマートフォンを見た。
五つの星。
選択を待つ画面。
その下に、今まで見たことのない小さな文字が表示されていた。
『未評価のまま、保存しますか?』
選択肢は二つ。
『YES』
『NO』
高瀬は指を伸ばしかけた。
そして、止めた。
森田の言葉を思い出す。
『押さないで』
あの日、彼女は確かにそう言った。
高瀬はスマートフォンを伏せた。
「……今日は、押さない」
画面の向こうで、何が起きているのかは分からない。
それでも。
今夜だけは。
誰かの人生を、五つの星に閉じ込めたくなかった。
雨の音だけが、部屋に残った。




