↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
94/117

Review20 欠席理由は、存在しない

 土曜日の朝、高瀬悠介は予定より三十分早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光は薄く、窓の外では雨が降り始めていた。昨夜の天気予報では曇りだったはずだが、駐車場のアスファルトにはすでに黒い染みが広がっている。


 枕元のスマートフォンを手に取る。


 予定表には、午後二時から森田と会う約束が入っていた。


『森田さんと面会』


 自分で入力した文字を見て、高瀬は苦笑した。


「面会って。病院かよ」


 もっと普通の書き方があっただろうに。


 森田から連絡が来たのは、一昨日の放課後だった。


『先生に会ってほしい人がいます』


 続けて送られてきたのは、駅から少し離れた喫茶店の住所だけ。誰が来るのか、どんな事情を抱えているのかは聞いていない。


 ただ、一つだけ確認した。


『その人は、俺に会いたいって言ってるのか?』


 森田の返事は、短かった。


『はい。本人が希望しています』


 高瀬はベッドから起き上がり、台所へ向かった。


 コーヒーを淹れようとして、棚の前で手を止める。


 以前、森田にブラックコーヒーを出した時のことを思い出したのだ。


『先生、私がブラック飲めるようになったと思った?』


 そんなふうに笑われた。


 高瀬は結局、インスタントコーヒーの瓶を戻し、麦茶をグラスに注いだ。


「……何で俺まで影響されてんだよ」


 誰もいない部屋で呟く。


 笑い声は返ってこなかった。


     ◇


 約束の喫茶店は、古い商店街の外れにあった。


 入口のガラスには雨粒が幾筋も伝い、扉を開けると、小さなベルが鳴った。焙煎した豆の香りと、焼いたバターの匂いが混ざっている。


 店内の奥に、森田がいた。


「先生、こっち」


 窓際の席から手を振っている。


「早いな」


「先生が遅刻しないか心配だったので」


「十三年分を一回で取り返そうとしてるんだよ」


「じゃあ、あと十三年くらい早く来てください」


「要求が重い!」


 森田は笑った。


 その向かいには、もう一人いた。


 高瀬より少し若い男だった。紺色のパーカーに黒いズボン。テーブルの上には、水の入ったグラスが置かれている。


 男は高瀬を見ると、椅子から立ち上がった。


「……初めまして」


 低い声だった。


「初めまして。高瀬です」


 高瀬も頭を下げる。


 男は名乗ろうとして、一瞬だけ口を閉じた。


「……佐伯です」


「佐伯さん」


 高瀬は、その名前を繰り返した。


 男の肩が、わずかに動いた。


「座ってください」


 森田が言った。


 高瀬は二人の向かいに腰を下ろした。


 店員が注文を取りに来る。


「先生、何飲む?」


「コーヒーで」


「ブラック?」


「……ミルクつけてください」


 森田が吹き出した。


「学習した」


「うるさい」


 佐伯は笑わなかった。


 そのことに気づいて、高瀬も口を閉じた。


     ◇


「佐伯さんは、私と同じような経験をした人です」


 森田が切り出した。


 高瀬は頷いた。


「記録から……こぼれた?」


「はい」


 佐伯が答えた。


「ただ、森田さんとは少し違います」


 彼はグラスに触れた。飲むわけではなく、指先で水滴を拭っている。


「僕の場合、最初に消えたのは、名前じゃありませんでした」


「……何が?」


「欠席です」


 高瀬は眉を寄せた。


「欠席?」


「中学二年の時、学校を休んだんです」


 佐伯は淡々と話し始めた。


「最初は三日でした。熱があって、病院にも行きました。家で寝て、四日目に学校へ戻ったんです」


「うん」


「そしたら、担任に言われました」


 佐伯は高瀬を見た。


「『昨日も来てただろ』って」


 雨が窓を叩いた。


 高瀬は黙っていた。


「出席簿は全部、出席になっていました。授業のノートも、提出物も、僕がやったことになっていた」


「……誰かが代わりに?」


「分かりません」


 佐伯は首を振った。


「僕の字でした。自分では書いていないのに」


 高瀬は背中に冷たいものを感じた。


 森田の時は、学校から彼女の存在が抜け落ちていた。


 佐伯の場合は逆だ。


 いなかったはずの時間が、いたことになっている。


「それからも、休んだ日は全部、出席になりました」


「家族は?」


「休んだことを覚えていました。病院の領収書も残っていました。でも学校では、誰も信じてくれなかった」


 佐伯はグラスから手を離した。


「最初は、得したと思ったんです」


「……得?」


「欠席がつかないから。皆勤賞も取れるし、先生にも褒められる」


 少しだけ、笑った。


「休んでも、ちゃんと学校に来たことになる。便利でしょう?」


 その笑い方が、高瀬には妙に痛々しく見えた。


「でも、ある日」


 佐伯の声が低くなった。


「僕は、学校に行くのをやめました」


     ◇


 佐伯は中学二年の冬から、教室へ行けなくなった。


 理由は一つではなかったという。授業についていけなくなったこと。クラスで居場所を見つけられなかったこと。朝になると身体が重くなり、制服に袖を通すだけで吐き気がしたこと。


 家族は心配し、学校にも相談した。


 けれど、学校側の記録では、佐伯は毎日出席していた。


「担任は、僕が教室にいるのを見たって言うんです」


「……本人がいないのに?」


「はい」


「クラスメイトは?」


「いたって」


 佐伯は答えた。


「普通に話したって。給食も食べてたって。体育にも出てたって」


 高瀬はコーヒーカップを置いた。


「じゃあ、学校にいた佐伯さんは……」


「分かりません」


 佐伯は即答した。


「僕なのか、僕じゃない誰かなのか。そもそも、本当に何かがいたのか」


 森田が静かに続けた。


「佐伯さんは、家では確かに休んでいたんです。お母さんも見ている。でも学校では、出席していることになっていた」


「……それで?」


 高瀬が聞いた。


 佐伯は窓の外を見た。


「卒業しました」


 高瀬は言葉を失った。


「一度も学校に戻らないまま、卒業証書が届きました。通知表も、卒業アルバムも、全部そろっていました」


「……」


「僕、卒業アルバムの写真、撮ってないんです」


 佐伯は鞄から一枚の写真を取り出した。


 古い卒業アルバムのページをスマートフォンで撮影したものだった。


 そこには、制服姿の少年が写っていた。


 無表情で、まっすぐカメラを見ている。


「これが僕です」


 佐伯が言った。


「でも、こんな写真を撮った覚えはありません」


 高瀬は写真を見つめた。


 顔立ちは、確かに目の前の佐伯に似ている。


 けれど、それが何を意味するのかは分からなかった。


「……怖かったでしょう」


 高瀬が言うと、佐伯は首を振った。


「最初は」


 そこで言葉を切った。


「でも、もっと嫌だったのは、別のことです」


「何ですか」


「僕がいなくても、誰も困らなかったことです」


 高瀬は顔を上げた。


「僕が学校に行かなくても、僕は出席していた。僕が授業を受けなくても、ノートは埋まっていた。僕が誰とも話していなくても、みんなは僕と話したことになっていた」


 佐伯の指が、テーブルの端を強く掴んだ。


「僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです」


 森田は何も言わなかった。


 高瀬も、すぐには言葉を返せなかった。


 窓の向こうで、傘を差した親子が通り過ぎる。子どもが水たまりを踏み、母親が慌てて手を引いた。


 そのありふれた光景が、今は遠く感じられた。


     ◇


「……どうして、俺に会いたかったんですか」


 高瀬は尋ねた。


 佐伯は、しばらく答えなかった。


 森田が彼を見る。


「無理に話さなくてもいいよ」


「大丈夫です」


 佐伯は鞄を開けた。


 中から、透明なファイルを取り出す。


 何枚かの紙が挟まれていた。


「森田さんから、先生の話を聞きました」


「俺の?」


「忘れていた生徒を、探してくれたって」


 高瀬は森田を見た。


 森田は小さく頷いた。


「それで、思ったんです」


 佐伯が言った。


「この人なら、分かるかもしれないって」


 ファイルから一枚の紙を抜く。


 古い通知表のコピーだった。


 高瀬は受け取った。


 出席日数。


 欠席日数。


 各教科の評定。


 所見欄。


 そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。


『毎日休まず登校し、学級の活動にも意欲的に参加しました。周囲の友人とも協力し、充実した学校生活を送ることができました。』


 高瀬は、その文章を読んだ。


 もう一度。


 そして、欠席日数を見る。


 ゼロ。


「……これを?」


「はい」


 佐伯は答えた。


「先生に、採点してほしいんです」


 高瀬の指が止まった。


「……採点?」


「僕の中学校生活は、何点だったんでしょうか」


 佐伯は笑っていなかった。


「学校に行けなかった僕と、毎日学校に行っていた僕。どっちが正しかったんですか」


 高瀬は通知表を見た。


 紙の上では、佐伯は模範的な生徒だった。


 休まず登校し、授業を受け、友人と協力し、卒業した。


 けれど、目の前の佐伯は、その三年間を自分のものだと思えていない。


 高瀬は口を開いた。


「……それは」


 言葉が続かなかった。


 佐伯が待っている。


 森田も、何も言わない。


 高瀬は、ようやく答えた。


「俺には、点数をつけられません」


 佐伯の表情が変わった。


「……どうしてですか」


「あなたが、何を経験してきたのか。まだ、ほとんど知らないからです」


「じゃあ、全部話したら?」


 佐伯は身を乗り出した。


「全部話したら、つけてくれますか?」


 高瀬は黙った。


「先生は、教師でしょう?」


 佐伯の声が少し強くなる。


「生徒のこと、評価する仕事でしょう?」


「……そうです」


「だったら」


 佐伯は通知表を指差した。


「これが正しいのか、間違っているのか。教えてくださいよ」


 高瀬は、もう一度紙を見た。


 欠席ゼロ。


 意欲的に参加。


 充実した学校生活。


 そこに書かれた言葉は、佐伯の話と食い違っている。


 それだけは、分かる。


「この記録は、あなたが話してくれた経験と一致していません」


 高瀬は言った。


「でも、だからといって、あなたの人生が間違っていたことにはならない」


 佐伯は目を伏せた。


「……そういう答えが欲しかったわけじゃないんです」


「……」


「僕は、知りたいんです」


 佐伯の声が震えた。


「僕が学校に行けなかったことは、悪いことだったのか」


 高瀬は息を吸った。


「悪いことじゃ――」


「じゃあ、何で」


 佐伯が遮った。


「僕の代わりに、学校へ行く僕が必要だったんですか?」


 高瀬は、何も言えなかった。


     ◇


 喫茶店を出る頃には、雨が強くなっていた。


 佐伯は先に帰った。


 最後まで、高瀬に点数を求めることはなかった。


 ただ、別れ際に一言だけ言った。


「先生も、僕の通知表のほうが好きなんでしょうね」


 高瀬は否定しようとした。


 けれど、佐伯はもう背を向けていた。


 その後ろ姿を追いかけることは、しなかった。


 店の軒下で、森田が傘を開く。


「先生」


「……ん?」


「今日、どうでした?」


 高瀬は雨の向こうを見た。


「何もできなかった」


「そうかな」


「答えられなかった」


 森田は少し考えた。


「佐伯さん、答えを欲しがってたからね」


「……ああ」


「でも、先生が適当に点数つけたら、たぶんもっと怒ってたと思う」


 高瀬は苦笑した。


「難しいな」


「難しいよ」


 森田はあっさり答えた。


「私も、先生に全部分かってもらえたとは思ってないし」


「……そうだよな」


「でも、会ってよかったとは思ってる」


 高瀬は森田を見た。


「何で?」


「先生が、分かったふりしなかったから」


 森田は傘を少し傾けた。


「それだけ」


 高瀬は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 森田が笑う。


「じゃあ、また」


「おう」


「次は、もうちょっと早く来てね」


「今日三十分前に来たんだけど!?」


「十三年分には足りない」


「計算が厳しい!」


 森田は笑いながら歩いていった。


 高瀬も傘を開く。


 雨の音が、急に近くなった。


     ◇


 帰宅後。


 高瀬は濡れた上着を脱ぎ、机の上に置いたスマートフォンを手に取った。


 佐伯の話が頭から離れなかった。


 欠席していたのに、出席していた。


 行かなかった学校で、誰かと話していた。


 撮っていない卒業写真が残っていた。


 そして。


『僕がいないほうが、ちゃんとした僕がいるんです』


 高瀬は目を閉じた。


 その時。


 スマートフォンが震えた。


 画面に、見慣れた文字が浮かぶ。


 Review。


 高瀬は息を止めた。


 通知を開く。


 そこには、短い文章が表示されていた。


『あなたは今日、一人の人生を採点しませんでした。』


 高瀬は画面を見つめた。


 続けて、もう一文。


『その選択を、評価しますか?』


 星が五つ並んでいた。


 ☆☆☆☆☆


 高瀬の指が止まる。


 自分が、評価されている。


 採点しなかったことを、採点しろと言われている。


「……ふざけんな」


 高瀬は呟いた。


 画面の星は、静かに並んでいる。


 どれかを選べば、何かが変わるのかもしれない。


 選ばなければ、何かが失われるのかもしれない。


 高瀬は、スマートフォンを机に置いた。


 触れなかった。


 星は、消えなかった。


 そのまま、画面の明かりだけが部屋を照らしていた。


 高瀬は窓の外を見た。


 雨は、まだ止んでいない。


 佐伯は今頃、どこにいるのだろう。


 帰宅しているのか。


 誰かと話しているのか。


 それとも、また一人で、自分の通知表を見つめているのか。


 分からない。


 分からないことばかりだった。


 それでも、高瀬は思った。


 あの通知表に書かれている佐伯だけを、佐伯だと決めつけることはできない。


 今日、目の前で話していた彼を、なかったことにもできない。


 高瀬はもう一度、スマートフォンを見た。


 五つの星。


 選択を待つ画面。


 その下に、今まで見たことのない小さな文字が表示されていた。


『未評価のまま、保存しますか?』


 選択肢は二つ。


『YES』


『NO』


 高瀬は指を伸ばしかけた。


 そして、止めた。


 森田の言葉を思い出す。


『押さないで』


 あの日、彼女は確かにそう言った。


 高瀬はスマートフォンを伏せた。


「……今日は、押さない」


 画面の向こうで、何が起きているのかは分からない。


 それでも。


 今夜だけは。


 誰かの人生を、五つの星に閉じ込めたくなかった。


 雨の音だけが、部屋に残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。