Review19 授業を乗っ取られました
朝の職員室には、独特の騒がしさがある。
印刷機が紙を吐き出す音。電話の呼び出し音。廊下を走る生徒を注意する声。誰かが淹れたコーヒーの香りに混じって、隣の席からは焼きそばパンの匂いまで漂ってきた。
高瀬は、その匂いの発生源を横目で見た。
「……朝から焼きそばパンですか」
「朝食です」
「分かりますけど、すごいですね」
「高瀬先生も食べます?」
「いや、結構です」
「一口くらい」
「何でそんなに食わせたいんですか」
隣の教師は笑いながらパンをかじった。
高瀬は机の上に広げた授業プリントへ視線を戻す。
昨日、生徒から集めた意見を参考に、新しい欄を作った。
『分からなかったところ』
『先生に変えてほしいところ』
後者については、正直なところ少し怖かった。
匿名アンケートですら、たった一行であれほど考え込んだのだ。毎回意見を集めるとなれば、今度は何を書かれるか分からない。
それでも、やってみようと思った。
生徒に「分からないと言っていい」と伝えたのだから、自分も「変えてほしい」と言われることから逃げたくなかった。
プリントを揃え、クリップで留める。
「よし」
立ち上がったところで、隣の教師が言った。
「高瀬先生」
「はい?」
「背中、何かついてますよ」
「え?」
振り返ろうとするが、自分の背中は見えない。
教師が紙を剥がした。
付箋だった。
『今日も元気に社会科!』
「……誰だよ」
「いいじゃないですか」
「俺、歩く掲示板じゃないんですけど」
高瀬は付箋を受け取り、苦笑した。
その時は、これが今日最初の悪ふざけだと思っていた。
実際には、まだ始まってすらいなかった。
◇
「先生!」
一時間目の開始五分前。
教室へ入った高瀬を、三上陸が満面の笑みで迎えた。
「嫌な予感しかしない」
「まだ何も言ってない!」
「お前がその顔で待ってる時は、大体ろくなことがない」
「偏見だろ!」
「経験則です」
三上は黒板の前に立ち、両手を広げた。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます!」
「何の会場だよ」
「特別授業です!」
「俺の授業だよ!」
教室を見渡す。
いつもなら黒板に日付が書かれている場所に、大きな文字が並んでいた。
『第1回 高瀬先生の授業改善会議』
その下には、小さく。
『司会 三上陸』
『書記 瀬川』
『議題 社会科をもっと楽しくするには』
高瀬は黙った。
三上が胸を張る。
「どう?」
「どうって……」
黒板を見る。
もう一度、三上を見る。
「まず俺の許可を取れ!」
「取ったら断るじゃん!」
「断る可能性があるから許可が必要なんだよ!」
教室が笑いに包まれた。
瀬川が自分の席から小さく手を挙げた。
「先生、すみません。俺も止めたんですけど」
「瀬川、お前は味方だと思ってた」
「三上が、先生のプリントに『変えてほしいところ』って書いてあったから、直接言ってもいいだろって」
「解釈が大胆すぎる!」
三上は一歩も引かない。
「でも先生、昨日言ったじゃん。授業を変えてほしいって意見も聞くって」
「聞くとは言った。授業を明け渡すとは言ってない」
「じゃあ十分だけ!」
「何で交渉始まってんだ」
「五分!」
「短くなった!?」
高瀬は時計を見た。
開始まで、あと三分。
黒板にはすでに議題が書かれ、生徒たちは妙に期待した顔でこちらを見ている。
ここで全部消して通常授業に戻すこともできる。
だが、それでは昨日作ったプリントが、ただの飾りになってしまう気がした。
「……分かった」
三上の顔が輝く。
「マジ!?」
「最初の十分だけ。授業の目的から外れたら終わり。人を傷つける意見もなし。全員が発言しなくてもいい」
「了解!」
「あと」
「何?」
「司会が暴走したら即終了」
「俺への信頼ゼロじゃん!」
「昨日までの実績を振り返れ」
チャイムが鳴った。
三上は慌てて日直の席へ向かう。
「起立!」
椅子の音が一斉に響いた。
「礼!」
「お願いします!」
高瀬も頭を下げた。
そして顔を上げた瞬間、三上が教卓へ駆け寄ってきた。
「それでは!」
「待て待て、俺まだ出席確認してない!」
「先生、進行遅い!」
「お前が早すぎるんだよ!」
◇
「まず、現在の社会科の問題点について!」
三上はチョークを持ち、黒板の中央に立った。
高瀬は教室の一番後ろに移動させられていた。
自分の授業なのに、生徒の席から黒板を見ることになるとは思わなかった。
「先生の授業は、基本的に面白いです」
「お、ありがとう」
「ただし!」
「ただしが怖い」
「話が長い!」
教室から笑いが起きた。
「お前も今、前置き長いぞ!」
「先生、私語は慎んでください!」
「立場逆転させるな!」
瀬川が書記として黒板の端に『話が長い』と書いた。
高瀬は頭を抱えた。
「しかも記録に残すなよ……」
「ほかに意見ありますか?」
三上が教室へ問いかける。
数人の手が挙がった。
「先生、黒板の字が途中から小さくなる!」
「それは昨日も聞いた!」
「例え話が古い!」
「それも聞いた!」
「先生、よくチョーク落とす!」
「それ授業の問題じゃなくて俺の問題だろ!」
瀬川が淡々と書いていく。
『話が長い』
『字が小さくなる』
『例え話が古い』
『チョークを落とす』
高瀬は黒板を見つめた。
「これ、授業改善会議じゃなくて俺の欠点発表会になってない?」
三上が真顔で答える。
「改善するためには現状把握が必要です」
「急に正論使うな!」
笑いが起きた。
その中で、窓際の女子生徒が手を挙げた。
「でも、先生の話、面白い時もあるよ」
「おお!」
高瀬が思わず身を乗り出す。
「例えば?」
「……えっと」
女子生徒が考える。
「たまに」
「具体例ゼロ!」
教室が爆笑した。
三上が黒板に書こうとする。
『たまに面白い』
「それは書かなくていい!」
「良い意見も記録しないと!」
「もっと良い意見をくれ!」
高瀬が叫んだところで、瀬川が小さく手を挙げた。
「先生」
「何だ、瀬川」
「俺、一個あります」
高瀬は姿勢を正した。
「どうぞ」
「授業の最初に、今日何が分かればいいか、書いてほしいです」
教室が少し静かになった。
瀬川は続けた。
「途中で分からなくなると、今何をやってるのかも分からなくなるから。最初にゴールがあれば、そこだけは覚えようって思えるかなって」
高瀬は黒板を見た。
確かに、自分は授業の流れを頭の中で組み立てている。生徒も同じように見通しを持てているとは限らない。
「……なるほどな」
三上が頷く。
「それいいじゃん」
瀬川は少し照れたように笑った。
高瀬は立ち上がり、黒板の空いている場所に書いた。
『今日の目標』
「じゃあ、今日からやろう」
三上が目を丸くする。
「採用!?」
「採用」
「早っ!」
「良い案は早く採用するんだよ」
「じゃあ俺の『宿題なし』も!」
「却下!」
「判断早っ!」
また笑いが起きた。
時計を見ると、ちょうど十分が経っていた。
高瀬は三上からチョークを受け取る。
「はい、会議終了」
「えー!」
「約束だろ」
「あと五分!」
「お前の五分は信用できない」
「何で!」
「最初に十分って言った時から、五分延長するつもりだった顔してた」
「バレてた!?」
高瀬は笑いながら、黒板の中央へ立った。
「じゃあ、ここから授業な」
その時、瀬川が言った。
「先生」
「ん?」
「今日の目標、まだ書いてないです」
「……あ」
三上が机を叩いて笑った。
「採用した瞬間忘れてる!」
「うるさい! 今から書く!」
◇
授業は、いつもと少し違う形で始まった。
高瀬は黒板に大きく書いた。
『今日の目標:産業が発展する理由を、二つ説明できる』
「よし。今日はこれができればいい」
三上が手を挙げる。
「先生」
「何だ」
「二つも?」
「二つです」
「一つじゃ駄目?」
「交渉するな」
「三つなら?」
「増やすな!」
教室が笑う。
高瀬は資料を配った。
地域ごとの交通網と工場の分布を示した地図だ。
「まず、この地図を見て、工場が集まっている場所の共通点を探してみよう」
生徒たちが資料を覗き込む。
高瀬は教室を歩きながら、昨日までの授業との違いを確かめていた。
目標を書いただけで、全員が理解できるわけではない。
けれど、何を探せばいいのか分からずに止まっていた生徒が、今日は地図へ目を向けている。
瀬川も、その一人だった。
「先生」
「ん?」
「ここ、道路が多いです」
「お、そうだな」
「あと、港に近い」
「いいところに気づいたな」
三上が横から口を挟む。
「つまり、船で工場を運ぶ!」
「工場ごと!?」
「違うの?」
「何トンあると思ってんだ!」
瀬川が笑った。
「材料を運ぶんだろ」
「……あ」
三上が地図を見る。
「そっちか」
「そっちだよ」
高瀬は笑いながら、黒板へ向かった。
『交通が便利』
『材料を運びやすい』
二つの言葉を書き、振り返る。
「ほら。今日の目標、一個目達成」
三上が手を挙げた。
「先生」
「今度は何だ」
「これ、瀬川のおかげじゃん」
「そうだな」
「じゃあ瀬川、今日の先生の代わりやれば?」
「嫌だよ!」
瀬川が即答した。
その勢いが珍しくて、教室が笑いに包まれた。
高瀬も笑った。
ただ、瀬川がすぐに資料へ視線を戻したのを見て、それ以上は話題を広げなかった。
先日の発表で、みんなの注目を集めることが瀬川にとって必ずしも嬉しいわけではないと知ったからだ。
笑いが収まると、授業は自然に続いた。
◇
授業の終わり。
高瀬は黒板の目標を指差した。
「さて、今日の目標は達成できたか?」
「できたー!」
「微妙!」
「二つ目忘れた!」
「正直でよろしい」
三上が手を挙げる。
「先生」
「何だ」
「今日の授業、何点?」
高瀬は少し考えた。
「……採点するの?」
「先生の授業改善会議だから」
「そうだなあ」
黒板を見る。
話が長い。
字が小さくなる。
例え話が古い。
チョークを落とす。
その隣には、新しく書いた目標がある。
「点数はつけなくていいかな」
「何で?」
「今日、変えられたところもあるし、まだ変えられてないところもあるから」
三上が首を傾げる。
「それ、点数つけられない理由になる?」
「ならないかもな」
高瀬は笑った。
「でも先生は、点数より次に何を変えるかを考えたい」
瀬川が小さく頷いた。
「じゃあ、次も目標書いてください」
「もちろん」
三上が続ける。
「あと宿題なし」
「それはない!」
「何でそこだけ頑固なんだよ!」
チャイムが鳴った。
教室が笑いに包まれる。
高瀬は教科書を閉じた。
「はい、号令」
「起立!」
椅子が一斉に鳴る。
「礼!」
「ありがとうございました!」
いつもと同じ挨拶だった。
でも、高瀬には少しだけ違って聞こえた。
◇
放課後。
高瀬は職員室で、今日の授業を振り返っていた。
机の上には、生徒から集めた小さな紙が並んでいる。
『目標があると分かりやすい』
『三上の司会がうるさかった』
『瀬川の案、よかった』
『先生、今日チョーク二回落とした』
「そこ数えるなよ……」
高瀬は苦笑しながら、紙を重ねた。
その時、一枚だけ、少し違う意見が目に入った。
『先生が生徒の意見を聞いてくれたのは嬉しかったです。でも、三上みたいに大きな声で言える人だけじゃなくて、静かな人の意見も聞いてほしいです』
高瀬は、その文章をゆっくり読んだ。
今日の会議。
盛り上がった。
笑いも起きた。
瀬川の意見も採用できた。
良い授業だったと思う。
けれど、確かに。
発言しなかった生徒もいた。
発言したくても、できなかった生徒もいたかもしれない。
高瀬は紙を机に置いた。
「……なるほど」
自分が楽しいと思った授業を、全員が同じように楽しんだとは限らない。
それは、先日の拍手と同じだった。
高瀬は明日のプリントを取り出し、最後の欄を書き直した。
『先生に変えてほしいところ』
その下に、一文を加える。
『名前を書かなくても大丈夫です。書かなくても大丈夫です。』
そして、もう一つ。
『授業中に言いにくかったことも、ここに書いてください。』
高瀬はペンを置いた。
「……よし」
その時、机の端に置いたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
Reviewからの通知ではなかった。
森田からのメッセージだった。
『高瀬先生、お疲れさまです。突然ですが、今度の土曜日、少し時間ありますか?』
高瀬は画面を見つめた。
昨日までの自分なら、すぐに理由を聞いていたかもしれない。
何があった。
誰がいる。
何を知っている。
けれど、今は少し違った。
『空いてるぞ。どうした?』
返信は、すぐに来た。
『先生に会ってほしい人がいます』
高瀬の指が止まった。
森田が、以前言っていた。
『私以外にも、記録からこぼれた人がいる』
高瀬は窓の外を見た。
校庭では、三上がサッカーボールを追いかけている。教室の窓からは、瀬川が友達と笑っている姿が見えた。
今日も、普通の一日だった。
生徒たちが笑って。
授業が少し変わって。
自分も、少しだけ考え方を変えた。
それだけの一日。
でも。
森田のメッセージは、その普通の一日の向こうに、まだ会ったことのない誰かがいることを知らせていた。
高瀬は返信を打った。
『分かった。会おう』
少し考えて、もう一文。
『その人は、俺に会いたいって言ってるのか?』
森田からの返事が届く。
『はい。本人が希望しています』
高瀬は小さく息を吐いた。
『じゃあ、土曜日に』
スマートフォンを伏せる。
机の上には、明日の授業プリントが残っている。
高瀬はそれを手に取った。
土曜日には、まだ知らない誰かに会う。
でも、明日は明日で。
目の前の生徒たちがいる。
「……まずは、こっちだな」
高瀬はプリントを印刷機へ運んだ。
廊下の向こうから、三上の声が聞こえる。
「先生ー! 明日の宿題、本当にあるの!?」
「あるわ!!」
「しつこい!」
「それはこっちの台詞だ!!」
校舎に笑い声が響いた。
高瀬は、思わず笑った。
土曜日の約束を、今度こそ忘れないように。
スマートフォンの予定表へ、森田との面会を入力した。
そして、明日の授業準備に戻った。




