Review18 先生の通知表
「先生って、怒られることあるの?」
昼休み、三上陸が唐突に聞いてきた。
高瀬は採点途中の小テストから顔を上げる。
「あるに決まってるだろ」
「誰に?」
「校長先生とか、教頭先生とか」
「え、先生なのに?」
「先生にも上司はいるんだよ」
「大変じゃん」
「そうなんだよ。もっと敬え」
「じゃあ、今日の宿題なしにしてくれたら敬う」
「交渉が汚い!」
隣で弁当を食べていた瀬川が笑った。
三上は机に肘をつき、さらに聞いてくる。
「先生って、通知表あるの?」
「通知表?」
「俺らばっか評価されるの、不公平じゃね?」
「まあ、先生にも仕事の評価はあるぞ」
「見せて」
「嫌だよ!」
「何で!」
「お前だって自分の通知表を全校放送で読み上げられたくないだろ」
三上は一瞬考えた。
「……確かに」
「分かったか」
「でも先生の体育の成績は知りたい」
「何でそこ!?」
「走るの遅そう」
「お前、放課後校庭来い」
「教師が生徒を呼び出して勝負するな!」
笑い声が教室に広がった。
高瀬も笑った。
その時は、ただの冗談だった。
まさか数時間後、自分の評価について真剣に考えることになるとは思っていなかった。
◇
放課後。
職員室に戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
『授業アンケート集計結果』
先月、生徒たちに実施した匿名アンケートだった。授業の分かりやすさや進め方について尋ね、今後の改善に役立てるものだ。
「お、返ってきたか」
高瀬は椅子に座り、紙を開いた。
授業の説明は分かりやすい。
そう思う生徒が多かった。
質問しやすい。
こちらも、おおむね良好。
授業中の雰囲気。
悪くない。
「……よかった」
小さく息を吐く。
最近は生徒との関わり方について考えることが多かった。自分の判断が裏目に出ることもあったし、謝らなければならない場面もあった。
だから、数字を見て少し安心した。
最後に、自由記述欄を開く。
『先生の授業は面白いです』
『たまに脱線するけど楽しい』
『黒板の字が急に小さくなる』
「それはごめん」
思わず呟いた。
『先生の例え話、たまに古いです』
「余計なお世話だ!」
誰もいない机に向かって反論する。
そして、次の一文で指が止まった。
『先生は優しいけど、先生に嫌われたくないから、分からないって言えません』
高瀬は、その文章をもう一度読んだ。
短い。
たった一行。
名前もない。
誰が書いたのか分からない。
けれど、そこだけ妙に鮮明だった。
「……嫌われたくない?」
高瀬は背もたれに身体を預けた。
授業中、分からないところはないかと何度も聞いている。
質問してくれた生徒には、できるだけ丁寧に答えている。
間違えた答えを笑わないようにも気をつけている。
それなのに。
分からないと言えない生徒がいる。
しかも、理由は。
自分に嫌われたくないから。
高瀬は紙を伏せた。
しばらく、動けなかった。
◇
「高瀬先生、どうかしました?」
隣の席の教師が声をかけてきた。
「いや……授業アンケートで」
「ああ、返ってきましたね」
「ちょっと気になることが書いてあって」
高瀬は問題の一文を見せた。
教師は目を通し、少し考えた。
「難しいですね」
「ですよね」
「でも、こういうことを書いてくれたのは大きいんじゃないですか」
「……どういう意味です?」
「少なくとも、その生徒は伝えようと思ったわけでしょう」
高瀬は紙を見る。
「先生に直接言えないから、アンケートに書いたのかもしれないですけど」
「それでも、伝える方法を一つ見つけたってことですよ」
教師は自分の机に戻りかけて、ふと思い出したように言った。
「あと、アンケートは犯人捜しにしないほうがいいですよ」
「犯人って」
「高瀬先生、気になったら本人を探しそうだから」
「……」
「図星?」
「かなり」
教師が笑った。
高瀬も苦笑する。
「誰が書いたか分かったら、話を聞けると思ったんですけど」
「相手は、名前を出さずに伝えることを選んだんですよね」
その言葉に、高瀬は頷いた。
「……そうですね」
紙をもう一度開く。
自由記述の一行は、変わらずそこにあった。
高瀬は赤ペンを取り出したが、何かを書き込む前に手を止めた。
この一文に丸をつけても、解決にはならない。
◇
翌日の授業。
高瀬は教室へ入ると、いつも通り黒板に日付を書いた。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
「今日は昨日の続きから――と言いたいところですが、その前に一個だけ」
三上が顔を上げた。
「先生、宿題なくす?」
「その話まだ続いてたの?」
「諦めない心」
「別のところで発揮しろ」
教室に笑いが起きる。
高瀬は教卓に両手を置いた。
「先月の授業アンケート、ありがとうな。ちゃんと読んだ」
「え、あれ先生見るの?」
「そりゃ見るだろ」
「悪口書いちゃった」
「今、自白しなくていい!」
また笑いが起きる。
「黒板の字が小さいとか、例え話が古いとか、いろいろ書いてあった」
「先生、例え話古いよね」
「そこ盛り上がるな!」
笑いが収まるのを待ってから、高瀬は続けた。
「それで、今日は授業の進め方を一個変えてみたい」
黒板に問題を書く。
昨日までなら、ここで「分かる人」と聞いていた。
今日は違う。
「まず一分、自分で考えて。分からなかったら、どこで止まったかだけ書いてみて」
「答えじゃなくて?」
「そう。答えが分かる人は答えを書いていい。分からない人は、何が分からないかを書いていい」
三上が手を挙げた。
「全部分からない場合は?」
「『全部』って書いてもいい」
「マジ?」
「マジ。ただし、そのあと先生と一緒に一個ずつ分ける」
「結局勉強するじゃん」
「授業だからな!」
生徒たちがノートを開く。
鉛筆の音が広がった。
高瀬は教室を歩き始めた。
最初の一分は、誰にも声をかけない。
生徒が考えている時間を、こちらの都合で埋めないためだった。
やがて、前列の生徒が小さく手を挙げた。
「先生」
「ん?」
「これ、何から考えたらいいか分かんない」
「お。じゃあ、そこからやろうか」
高瀬は隣にしゃがみ、問題文を指差した。
教室の後方では、三上が瀬川のノートを覗き込んでいる。
「お前、ここ分かる?」
「ちょっと」
「教えて」
「先生に聞けば?」
「先生、今あっち行ってる」
「じゃあ、ここだけ」
二人が小声で話し始めた。
高瀬はそれを見て、少しだけ笑った。
授業が劇的に変わったわけではない。
全員が質問できたわけでもない。
それでも、昨日までとは違う時間が流れていた。
◇
授業の終わり。
「じゃあ最後に、今日分からなかったところを一個だけ書いて提出して」
「分かったところじゃ駄目?」
「それも書いていいぞ」
「何も分からなかったら?」
「それも書いていい」
「先生、何でもありじゃん」
「何でもありではない。宿題はある」
「最悪!」
笑い声が起きた。
生徒たちが小さな紙を提出していく。
高瀬はそれを受け取った。
授業後、職員室で一枚ずつ確認する。
『資料の見方が分からなかった』
『言葉の意味が難しかった』
『途中から話についていけなかった』
具体的なものもあれば、曖昧なものもある。
その中に、一枚だけ。
『分からないって書いても怒られなかったので、次は聞いてみたいです』
高瀬は、その紙をしばらく見つめた。
誰が書いたのかは分からない。
昨日のアンケートを書いた生徒かもしれない。
まったく別の生徒かもしれない。
それでよかった。
高瀬は紙を他のものと一緒に重ねた。
特別扱いはしなかった。
ただ、次の授業でも同じ時間を取ろうと決めた。
◇
放課後。
高瀬が職員室で明日の準備をしていると、三上が顔を出した。
「先生」
「どうした」
「今日の授業、変だった」
「言い方!」
「いや、いい意味で」
「先に言え!」
三上が笑う。
「分かんないところ書くやつ、あれいいね」
「そうか?」
「うん。俺、いつも分かんないところ分かんないから」
「……なるほどな」
「先生、今『こいつ大丈夫か』って思った?」
「ちょっと」
「正直すぎ!」
二人で笑った。
三上は帰ろうとして、ふと足を止めた。
「先生」
「ん?」
「先生の通知表、今日ちょっと上がったんじゃね?」
高瀬は顔を上げた。
「何点から何点に?」
「昨日が三十点」
「低すぎるだろ!」
「今日は……六十五点」
「微妙!」
「伸び率すごいじゃん」
「そういう問題か?」
三上が笑った。
高瀬も笑う。
「でも、まだ百点じゃないからな」
三上が言った。
「分かってるよ」
「じゃあ明日も頑張って」
「お前が先生か!」
三上は手を振って帰っていった。
高瀬はしばらく、その背中を見送った。
そして、机の上のアンケートをもう一度開いた。
『先生は優しいけど、先生に嫌われたくないから、分からないって言えません』
その一文は、消えていない。
今日の授業が少し変わったからといって、書いた生徒の不安がなくなったとは限らない。
高瀬は、アンケートをファイルにしまった。
捨てずに。
いつでも読み返せる場所へ。
教師にも評価はある。
数字もある。
良い意見も、厳しい意見もある。
けれど、自分が欲しい点数を集めるために授業をするわけではない。
目の前の生徒が、昨日より少しでも学びやすくなるように。
そのために、明日の授業を考える。
高瀬は新しいプリントを一枚取り出した。
そして、問題の下に小さな欄を作った。
『分からなかったところ』
少し考えて、その隣にもう一つ。
『先生に変えてほしいところ』
高瀬はペンを置いた。
「……さて」
明日の授業準備は、まだ終わっていない。
評価を受け取ることよりも。
受け取ったあとに何をするか。
今は、そちらのほうがずっと難しかった。




