Review17 拍手のあとで
六時間目の終わりまで、あと十二分。
高瀬は黒板の右端に書いた「発表」という二文字を見て、少しだけ後悔していた。
「先生、これ本当に今日やるの?」
「やる」
「明日じゃ駄目?」
「昨日も同じこと言っただろ」
「じゃあ明後日」
「お前の明日はいつ来るんだよ」
教室に笑いが起きる。
今日は社会科の調べ学習の発表日だった。地域の産業について班ごとに調べ、三分程度で説明する。資料の完成度だけでなく、調べたことを自分たちの言葉で伝えるのが狙いだ。
ところが、四班の発表者である瀬川が、朝から妙に静かだった。
普段から口数の多い生徒ではない。それでも今日は、授業が始まってから一度も顔を上げていない。
高瀬は教卓の上に置いた発表順の紙を確認した。
次が四班。
「じゃあ、準備して」
班の生徒たちが立ち上がる。
三上が瀬川の背中を軽く叩いた。
「行くぞ」
「……うん」
瀬川は原稿を持って立ち上がった。
その紙は、何度も折り直したのだろう。四隅が柔らかくなり、端には小さな皺が寄っていた。
高瀬はそれを見ていた。
昨日、放課後に瀬川と話した。
家で弟の面倒を見ることが多く、勉強の時間を十分に取れないこと。小テストで三十一点を取り、どうすればいいのか分からなくなっていたこと。
それでも、今日の発表資料は完成させてきた。
高瀬は少し嬉しかった。
だからこそ。
その嬉しさが、自分の判断を鈍らせることになるとは思っていなかった。
◇
「えっと……四班は、地域の……」
瀬川の声が止まった。
教室の前に立つと、想像していた以上に視線が集まる。
窓際の生徒が頬杖をついている。前列では、発表資料を見ようと身体を乗り出す生徒がいる。誰も瀬川を責めてはいない。
それでも、三十人以上の目が一斉にこちらを向いている。
瀬川は原稿を持ち直した。
「地域の、産業について……」
紙が小さく震える。
三上が隣から囁いた。
「ゆっくりでいいって」
「……うん」
瀬川は息を吸った。
「この地域では、昔から……」
また止まる。
教室の後方で、誰かが椅子を動かした。
ギィ、と床を擦る音がした。
瀬川の肩が跳ねる。
高瀬は時計を見た。
残り九分。
ここで代わることもできる。班の別の生徒に続きを任せてもいい。
だが、高瀬の頭には昨日の会話が残っていた。
『勉強してなくて』
『結構全部、分かんなくて』
今日、瀬川は準備してきた。
ここで発表できたら、本人の自信になるかもしれない。
「瀬川」
高瀬は穏やかに声をかけた。
「急がなくていいぞ。最初の一文からでいい」
瀬川が頷く。
「……はい」
原稿を見る。
口を開く。
けれど、声が出ない。
数秒が過ぎた。
瀬川は原稿を握り締めたまま、俯いた。
「……すみません」
ほとんど聞こえない声だった。
高瀬は教卓から離れた。
「大丈夫。先生、隣にいるから」
瀬川の横に立つ。
「一緒に読んでみるか」
返事はない。
高瀬は原稿の一行目を指差した。
「ここ。『この地域では』」
「……この地域では」
「うん」
「昔から……」
瀬川が顔を上げた。
声は小さかったが、確かに出た。
「昔から、繊維産業が……」
高瀬は頷く。
少しずつ。
少しずつ。
瀬川は原稿を読み進めた。
三上が資料を掲げ、班の別の生徒が写真を指差す。発表はぎこちなかったが、最後まで止まることはなかった。
「以上です」
瀬川が頭を下げた。
高瀬は思わず笑った。
「よし。最後までできたな」
そして、教室へ向き直る。
「みんな、拍手!」
パチパチと音が広がった。
最初は数人。
それが教室全体に広がっていく。
三上は隣で、誰よりも大きく手を叩いていた。
「やったじゃん、瀬川!」
高瀬も拍手した。
瀬川は俯いたまま、小さく頭を下げた。
高瀬には、それが照れ笑いを隠しているように見えた。
だから、気づかなかった。
瀬川が原稿を握る手に、さらに力を込めていたことに。
◇
放課後。
「先生」
職員室へ戻ろうとした高瀬を、三上が呼び止めた。
「瀬川、帰った?」
「いや、まだ教室にいると思うけど」
「……そっか」
三上は妙な顔をしていた。
「何だよ」
「今日の発表さ」
「うん」
「先生、何で拍手させたの?」
高瀬は首を傾げた。
「何でって……最後まで発表できただろ」
「うん」
「頑張ったから」
三上は少し黙った。
「……そっか」
「何だよ。その反応」
「別に」
「言いたいことあるなら言えよ」
三上は廊下の向こうを見た。
それから、高瀬へ向き直った。
「瀬川、拍手されるの嫌いなんだよ」
「……え?」
「去年もあった。音読できなくて、最後まで読めた時に先生が拍手させて」
三上は鞄の紐を握り直した。
「そのあと、めっちゃ嫌がってた」
高瀬の表情が変わる。
「何で?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「本人が嫌だって言ってたのは覚えてる」
三上は少し声を落とした。
「先生さ、瀬川が普通に発表できてたら、拍手させた?」
高瀬は答えようとした。
他の班にも拍手はしていた。
けれど、あんなふうに自分から声を張り上げて、教室全体へ拍手を促しただろうか。
「……同じようには、してないかもしれん」
「だよね」
三上は頷いた。
「瀬川、そういうの気にするから」
高瀬は教室の方を見た。
さっきまで、良い発表だったと思っていた。
最後までできた。
みんなが拍手した。
自分も嬉しかった。
それで終わりだと思っていた。
「……教えてくれてありがとな」
三上は少し驚いた顔をした。
「怒んないの?」
「何を」
「先生に文句言ったから」
「文句じゃないだろ」
「まあ、ちょっと文句だけど」
「ちょっとかよ」
三上が笑った。
高瀬も笑ったが、その笑いは長く続かなかった。
◇
教室へ戻ると、瀬川はまだいた。
窓際の席で、原稿を鞄にしまっている。
「瀬川」
「……はい」
「少しいいか」
瀬川は頷いた。
高瀬は隣の椅子を引いた。
「今日の発表のことなんだけど」
瀬川の指が止まる。
「……はい」
「先生、拍手させただろ」
「はい」
「嫌だった?」
瀬川は答えなかった。
高瀬は急いで言葉を重ねそうになった。
頑張ったから。
褒めたかったから。
悪気はなかった。
全部、事実だ。
でも、それを今並べても、瀬川が話しやすくなるとは思えなかった。
高瀬は口を閉じた。
廊下から吹奏楽部の音が聞こえる。まだ曲にはなっていない、ばらばらの音階が夕方の校舎に響いていた。
「……嫌でした」
瀬川が言った。
「そっか」
「みんな、普通に発表してたのに」
「うん」
「俺だけ、何か……」
瀬川は言葉を探した。
「小さい子みたいで」
高瀬は黙っていた。
「最後まで読めただけで、みんなに拍手されて」
「……うん」
「俺って、そんなにできないやつなんだって」
瀬川は原稿を見つめた。
「先生がそう思ってるの、みんなにも分かった気がして」
高瀬は息を吸った。
「……ごめん」
瀬川が顔を上げる。
「先生は、最後までできたことが嬉しかった。だから拍手した」
「はい」
「でも、その嬉しさをお前も同じように感じるって、勝手に決めた」
高瀬は少し間を置いた。
「嫌だったって言ってくれて、ありがとう」
瀬川は俯いた。
「……三上から聞いたんですか」
「拍手が苦手だってことは、三上が教えてくれた」
「……あいつ」
「でも、今日どう感じたかは、お前に聞かないと分からないから」
瀬川は、少しだけ口元を緩めた。
「三上、余計なことするなあ」
「怒ってる?」
「ちょっと」
「そっか」
「……でも」
瀬川は原稿を鞄にしまった。
「先生に自分で言うの、嫌だったから」
高瀬は頷いた。
「三上にも礼言わんとな」
「調子乗るからやめてください」
「確かに」
二人で少し笑った。
高瀬は、瀬川の机に置かれた筆箱を見た。
ファスナーの隙間から、小さな消しゴムが覗いている。
昨日話した、あの半分の消しゴムだった。
「瀬川」
「はい」
「次の発表、どうしたい?」
瀬川は顔を上げた。
「……また、やるんですか」
「予定ではな」
「最悪」
「正直でよろしい」
瀬川は少し笑ってから考えた。
「班の人と一緒なら、やります」
「うん」
「でも、途中で止まったら、代わってほしいです」
「分かった。班の人とも相談しよう」
「あと」
「うん」
「拍手は……普通にしてほしいです」
高瀬は一瞬、考えた。
「普通に?」
「他の班と同じで」
「……分かった」
瀬川が立ち上がる。
「じゃあ、帰ります」
「おう。気をつけて」
扉のところまで歩いた瀬川が、ふと振り返った。
「先生」
「ん?」
「発表、全部嫌だったわけじゃないです」
「……そうか」
「三上が、資料持つタイミング間違えて」
瀬川は少し笑った。
「まだ説明してない写真、先に見せてたんですよ」
「ああ、あれか」
「めっちゃ焦ってて」
「俺も見てた」
「面白かったです」
瀬川は笑ったまま、教室を出ていった。
高瀬はその背中を見送った。
今日の発表は。
成功でも、失敗でもない。
瀬川にとっては、嫌だったことも、面白かったこともあった。
その両方が、同じ三分間の中にあった。
◇
翌日の昼休み。
「先生、瀬川に謝った?」
三上がパンを片手に聞いてきた。
「謝った」
「おお」
「何だ、その偉そうな反応」
「先生も成長するんだなって」
「お前、教師を何だと思ってる」
「完成品」
「だったら楽なんだけどな」
三上は笑った。
高瀬は、その隣で弁当を食べている瀬川を見た。
「昨日の発表さ」
「はい」
「三上、資料出すタイミング間違えたらしいな」
三上の動きが止まる。
「……は?」
瀬川が吹き出した。
「言ったの!?」
「先生、そこは言わなくていいだろ!」
「本人が面白かったって」
「面白くねえよ!」
「いや、あれは面白かった」
「瀬川まで!?」
二人が笑う。
高瀬もつられて笑った。
その時、瀬川がぽつりと言った。
「でも、三上」
「何」
「昨日、ありがとな」
三上がパンを持ったまま固まった。
「……何が」
「別に」
「何だよ」
「言わない」
「気になるだろ!」
「調子乗るから」
「先生! こいつ何か知ってる!」
「先生には守秘義務があります」
「絶対それ使い方違う!」
笑い声が広がった。
高瀬は二人を見ながら、昨日の拍手を思い出した。
教室いっぱいに響いた音。
自分は、あの瞬間を良い場面にしたかったのだと思う。
瀬川が頑張った。
みんなが認めた。
教師として、嬉しかった。
けれど、その場面の主人公は自分ではなかった。
瀬川だった。
誰かのためにしたことが、必ずしもその人のためになるとは限らない。
それでも、間違えたからといって、もう何もしないわけにはいかない。
聞いて。
考えて。
必要なら謝って。
次はどうするか、一緒に決める。
たぶん、その繰り返しなのだろう。
「先生」
三上が呼んだ。
「何だ」
「何ニヤニヤしてんの」
「してない」
「絶対してた」
「お前ら、教師の表情を採点するな」
「じゃあ今の顔、二点」
「低っ!」
「百点満点で」
「厳しすぎるだろ!」
瀬川が笑った。
三上も笑った。
高瀬は二人を見て、もう一度笑った。
今度は、誰にも拍手を求めなかった。




