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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

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Review16 消しゴム半分

 三上陸は、本当によく消しゴムを落とす。


 高瀬がそれを知ったのは、三上を覚えられるようになって三日目のことだった。


「三上」


「何?」


「落ちたぞ」


「え?」


 足元を指差す。


「あ」


 三上が椅子から身を乗り出し、床に転がった消しゴムを拾った。


 五分後。


 コトン。


「三上」


「……はい」


「落ちたぞ」


「分かってる」


 拾う。


 さらに七分後。


 コトン。


 高瀬は授業を止めた。


「お前、消しゴムに嫌われてない?」


「机が悪い」


「机のせいにするな」


「こいつ微妙に傾いてるんだって」


「学校の備品をこいつ呼ばわりするな」


「先生、授業進めて」


「誰のせいで止まったと思ってんだ!」


 教室に笑いが起きる。


 隣の大地が、呆れたように三上の消しゴムを拾った。


「もう紐つけとけよ」


「ダサいだろ」


「毎回落とすほうがダサい」


「うるせえ」


「はい、そこ。授業中に喧嘩しない」


「三上が悪いです」


「大地が先に言いました」


「先生はどっちの味方ですか」


「社会科の味方です。教科書開け」


「逃げた」


「教師の技術と言え」


 また笑いが起こる。


 高瀬は黒板へ向き直った。


 チョークを走らせる。


 背後から。


 コトン。


「……」


 振り返らない。


「先生」


「知らん」


「まだ何も言ってない」


「自分で拾え」


「冷たっ」


 教室が笑った。



◇



 その日の昼休み。


 三上の机の周りには、男子が数人集まっていた。


「貸して」


「嫌だ」


「一回だけ」


「絶対嫌だ」


「ケチ」


「昨日貸したら返ってこなかっただろ」


「返したって」


「返ってきたのキャップだけじゃん!」


 何の話かと思えば、シャープペンだった。


 高瀬は教室の後ろで提出物を確認しながら、そのやり取りを聞いていた。


 くだらない。


 でも。


 こういうくだらない時間が、学校の大半を占めている。


 昨日まで三上は、高瀬にとって「記録に存在しない生徒」だった。


 今は。


 消しゴムを落として。


 友達にシャープペンを取られて。


 給食のデザートをじゃんけんで奪い合っている。


 それでいい。


「先生」


「ん?」


 三上がこちらを見る。


「何ニヤニヤしてんの」


「してない」


「してた」


「先生、最近三上見る時だけ親みたいな顔するよね」


 女子生徒が言った。


「やめろ。その言い方だと俺が三上大好きみたいだろ」


「違うの?」


「先生」


 三上が真顔になる。


「ごめんなさい」


「何で振られたみたいになってんだよ!」


 笑い声が広がった。


 高瀬は赤ペンを置いた。


「お前ら昼休み終わるぞ。次、移動教室だろ」


「あ」


「やば」


「三上、行くぞ」


「待って」


 生徒たちが慌ただしく教室を出ていく。


 三上も筆箱を掴んで立ち上がった。


 その時。


「先生」


「何?」


「消しゴム知らない?」


「お前、ついに落としたことすら分からなくなったの?」


「違う。ないんだって」


「机の下は」


「見た」


「筆箱」


「ない」


「ポケット」


「入れるわけないじゃん」


「じゃあ知らん」


「探してよ」


「先生を何だと思ってる」


「担任」


「こういう時だけ正論使うな」


 三上は結局、消しゴムを見つけられないまま教室を出ていった。



◇



 放課後。


 高瀬は教室でプリントを配っていた。


 明日の朝に配布するものを、一人ずつ机の上へ置いていく。


 最後列まで来て。


 三上の机。


 その隣。


「……ん?」


 床に白いものが落ちていた。


 消しゴム。


「あるじゃん」


 拾う。


 でも。


 変だった。


 小さい。


 三上が使っていたものより、明らかに短い。


 真ん中から。


 無理やり割ったような形をしている。


「何だこれ」


「先生?」


 入口から声がした。


 女子生徒だった。


 鞄を肩にかけている。


「まだいたの?」


「忘れ物取りに来た」


「今日は忘れ物多いな」


「誰の?」


「三上の消しゴムっぽいんだけど」


 高瀬が見せる。


「あ、それ違う」


「分かるの?」


「うん」


 女子生徒は教室へ入り、消しゴムを見た。


「これ、瀬川のじゃない?」


「瀬川?」


 高瀬は少し考えた。


 同じクラスの男子。


 おとなしい。


 授業中はほとんど手を挙げない。


 休み時間も、一人で本を読んでいることが多い。


「何で半分?」


「知らない」


「そっか」


 高瀬は消しゴムを教卓に置いた。


 それで終わるはずだった。


「でも」


 女子生徒が言った。


「三上が割ったんじゃない?」


「三上が?」


「前に見たことある」


「何を」


「瀬川に消しゴムあげてた」


 高瀬の手が止まった。



◇



 翌朝。


「三上」


「はい」


「これ」


 高瀬は半分の消しゴムを見せた。


「あ」


「お前の?」


「違う」


「瀬川の?」


 三上が少しだけ黙った。


「……たぶん」


「お前が割ったの?」


「何で知ってんの」


「先生には情報網がある」


「怖っ」


「で?」


「別に」


 三上は教科書を鞄から出す。


「去年の話」


「何があった」


「何も」


「何もないのに消しゴム割る?」


「先生、聞き出すのダメなんじゃなかった?」


「ぐっ」


 三上が笑う。


「効いてる」


「成長してると言ってくれ」


「じゃあ聞かないで」


「……分かった」


 本当に引いた。


 三上が意外そうな顔をする。


「聞かないの?」


「お前が言ったんだろ」


「まあ」


「瀬川に返しといて」


「俺が?」


「先生から返したら、何で半分なのって聞きそうだから」


「確かに」


「お前からなら大丈夫だろ」


 三上は消しゴムを受け取った。


「分かった」


 高瀬はそれ以上聞かなかった。



◇



 その日の五時間目。


 小テストを返した。


「平均六十八点」


「低っ」


「お前らが下げてる」


「先生の教え方では?」


「教師の心をえぐるな」


 答案を一枚ずつ返す。


「大地、七十四」


「よっしゃ」


「三上」


「はい」


「五十九」


「嘘だろ」


「現実です」


「あと一点!」


「何のライン?」


「六十なら何か安心するじゃん!」


「知らんがな」


 教室に笑いが起きる。


 そして。


「瀬川」


「……はい」


 瀬川が前へ来る。


 答案を渡す。


 三十一点。


「あとでちょっとだけ話そうか」


「……はい」


 小さな声。


 席へ戻る。


 後ろから。


「三十一ってヤバくね?」


 誰かの声が聞こえた。


 悪意があったのか。


 ただ思ったことが漏れただけなのか。


 分からない。


 瀬川の足が。


 一瞬止まった。


 高瀬はその声の方向を見る。


「人の点数で盛り上がる前に自分の答案見ろ」


 少し強めに言った。


 教室が静かになる。


「点数は今できた問題の数。人間の値段じゃない」


 そう言って。


 次の答案を返した。


 それ以上。


 説教にはしなかった。



◇



 放課後。


 瀬川が教室に残った。


 高瀬は隣の席へ座る。


「数学……じゃなかった。社会だったな」


「先生、自分の教科忘れないでください」


「今日は忙しかった」


 瀬川が少し笑う。


「三十一点」


「はい」


「どうする?」


 瀬川が顔を上げる。


「怒らないんですか」


「怒って点数上がるならめちゃくちゃ怒るけど」


「上がらないです」


「じゃあやめとく」


 答案を机に置く。


「どこ分からなかった?」


「……結構全部」


「潔いな」


「勉強してなくて」


「なんで?」


 瀬川は黙った。


 高瀬は待つ。


「家で」


 少しずつ話し始めた。


「弟の面倒見てること多くて」


「弟?」


「小二です」


「親は?」


「帰ってくるの遅いから」


 高瀬の表情が変わる。


「毎日?」


「まあ」


「それ、家の人と――」


 言いかけて。


 止まる。


 すぐに問題を解決しようとした。


「……ごめん。続けて」


 瀬川は少しだけ高瀬を見た。


「別に嫌じゃないです。弟好きだし」


「うん」


「でも宿題やらせて、ご飯食べさせて、風呂入れたりしてると」


「自分の勉強する頃には遅い?」


「はい」


「そっか」


 だから三十一点。


 そう簡単に結論づけそうになって。


 高瀬はやめた。


「じゃあ、どうしたい?」


「……分かんないです」


「それもあり」


「先生」


「ん?」


「三上って」


 突然。


 名前が出た。


「三上?」


「俺のこと、何か言ってました?」


「いや」


「そっか」


 瀬川は少し安心したようだった。


「何で?」


「……」


 また沈黙。


「言いたくなかったらいい」


「去年」


 瀬川が言った。


「テストの日、消しゴム忘れたんです」


 高瀬は。


 朝の半分の消しゴムを思い出した。


「三上が隣だった?」


「はい」


「貸してくれた?」


「違います」


 瀬川は。


 少しだけ笑った。


「割ったんです」


「やっぱり」


「俺が『貸して』って言ったら、三上、自分の消しゴムを半分にして」


『これなら返さなくていい』


「って」


 高瀬は笑った。


「三上らしいな」


「俺、その時」


 瀬川は答案を見る。


「結構ヤバかったんです」


「テスト?」


「……いろいろ」


 高瀬は黙って聞く。


「家のこととか。勉強も全然できなくて。忘れ物も増えてて」


「うん」


「先生にも何回か怒られて」


 高瀬の胸が少し痛んだ。


「俺?」


「高瀬先生じゃないです」


「あ、そう」


「安心した?」


「ちょっと」


「先生」


「ごめん」


 瀬川が笑った。


「で、消しゴム忘れた時」


 続ける。


「何か、もう全部嫌になって」


「……」


「テスト受けないって言おうかなって思ってた」


 たった。


 消しゴム一個。


 でも。


 その時の瀬川には。


 最後の一個だった。


「そしたら三上が」


 瀬川は机の上に。


 半分の消しゴムを置いた。


「これくれた」


 高瀬はそれを見る。


「それ、ずっと使ってたの?」


「はい」


「一年?」


「なくなるまで」


「……そっか」


「昨日、落としたみたいで」


「それを三上が返したんだな」


「朝、机にありました」


 瀬川は半分になった消しゴムを指で転がした。


「もうほとんど使えないけど」


 確かに。


 小さい。


 角も丸くなっている。


 新品だったものが。


 一年かけて。


 ここまで減った。


「捨てないの?」


 高瀬が聞いた。


「捨てません」


 即答だった。


「使えないのに?」


「はい」


「何で?」


 瀬川は。


 少し考えて。



「俺が、ちゃんとここにいた証拠みたいだから」



 高瀬は。


 息を止めた。



 森田。



 卒業アルバム。



 三上。



 名簿。



 誰かがここにいた証拠。



 高瀬は。



 半分の消しゴムを見る。



 SYSTEMが残したものじゃない。



 Reviewでもない。



 ただ。



 一人の中学生が。



 困っていた隣の生徒に。



 消しゴムを半分渡した。



 それだけ。



 それなのに。



 一年経っても。



 残っている。



「……先生?」


「ん?」


「何か変なこと言いました?」


「いや」


 高瀬は笑った。


「いい消しゴムだなって」


「もう使えないですよ」


「使えなくても、いいものはあるだろ」


 瀬川は。


 少しだけ笑った。



◇



 翌日。


 一時間目。


 小テストの解説。


「ここ。三十一点だった人だけじゃないぞ。半分くらい間違えてる」


「先生、誰が三十一点か分かる言い方やめて」


「……あ」


 教室が笑う。


「瀬川ごめん!」


「もういいです」


「先生、そういうとこだぞ」


 三上が言う。


「お前に言われたくない!」


 高瀬は黒板に問題を書く。


「じゃあここ。分かる人」


 何人か手が挙がる。


 その中に。


 瀬川はいない。


「……」


 高瀬は教室を見る。


 以前なら。


 昨日話したから。


 頑張ってほしいから。


 そんな理由で瀬川を指名したかもしれない。


 今日はしない。


「三上」


「俺!?」


「五十九点」


「関係ないだろ!」


「ここ答えろ」


 三上が立つ。


「えーっと……」


「はい」


「鎌倉」


「室町」


「また!?」


 教室が爆笑する。


「お前、時代を一個前に戻す癖やめろ!」


「惜しいじゃん!」


「歴史で一個は百年以上ズレるんだよ!」


 高瀬も笑った。


 その隣で。


 瀬川も笑っていた。


 そして。


 高瀬は見た。


 三上が座る時。


 瀬川の机から消しゴムが落ちた。


 新品だった。


 三上が拾う。


「落ちたぞ」


「あ、ありがと」


「ちゃんと名前書いとけよ」


「消しゴムに?」


「またなくすだろ」


「三上に言われたくない」


「俺はなくしてない。落としてるだけ」


「同じだろ」


「違う」


 二人が小声で言い合っている。


 高瀬は。


 聞こえないふりをした。



◇



 放課後。


 三上が教室を出ていく。


「先生、さようなら」


「おう、三上」


「今日は覚えてるね」


「失礼な」


「明日は?」


「知らん」


「そこは絶対って言えよ」


「言わない」


「何で」


「絶対じゃないから」


 三上は少しだけ笑った。


「じゃあ」


 高瀬を見る。


「忘れたらまた言うわ」


「頼む」


「八回目、有料だから」


「いくら?」


「唐揚げ」


「安いな!」


「コンビニのじゃなくてちゃんとしたやつ」


「急に面倒くさい!」


 三上が笑いながら帰っていく。


 高瀬はその背中を見送った。



 机の上には。



 今日も。



 採点されるものがたくさんある。



 テスト。



 提出物。



 成績。



 数字。



 学校にいる以上。



 それらから逃げることはできない。



 でも。



 今日、高瀬が一番覚えていたのは。



 三十一点でも。



 五十九点でもなかった。



 たった一つ。



 半分に割られた。



 消しゴムだった。



 人が誰かに残すものは。



 いつも。



 点数がつくものとは限らない。

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