Review14 七回目のはじめまして
「俺さ、先生に六回自己紹介してるから」
三上陸は、自分の席に座ったまま言った。
窓から入る夕陽が机の半分を照らしている。
サッカー部のバッグを床に置き、椅子の背もたれに体を預ける姿は、どう見ても普通の中学生だった。
高瀬は教卓の前から動けなかった。
「……六回?」
「うん」
「俺に?」
「他に誰がいるの」
「いや、だって」
高瀬は出席簿を見る。
そこに三上陸の名前はない。
もう一度、本人を見る。
いる。
当然のように。
「いつからだ」
「質問ざっくりしすぎ」
「いつからこのクラスにいる」
「四月から」
「……四月?」
「入学式からいますけど」
「待て」
三上は中学二年生だ。
「去年からってことか?」
「そう」
「俺、お前の担任……」
「二年目」
高瀬は黙った。
三上が少し笑う。
「その顔も七回目」
「笑えないんだけど」
「俺はもう結構笑える」
「強いな、お前」
「慣れただけ」
その一言だけ。
三上の声が少し低くなった。
高瀬は気づいた。
聞きたいことは山ほどある。
どうして記録にない。
なぜ自分だけ忘れる。
いつから異常が始まった。
Reviewと関係があるのか。
森田と同じなのか。
けれど、昨日の自分なら。
いや。
十三年前の自分なら。
たぶん全部聞いていた。
高瀬は教卓から離れ、三上の前の席を引いた。
「とりあえず」
「うん」
「七回目、やるか」
「何を?」
「自己紹介」
三上が目を丸くした。
「……また?」
「また」
「どうせ忘れるのに?」
「それでも」
高瀬は座った。
「俺は今、お前のこと知らないから」
三上はしばらく高瀬を見ていた。
やがて、面倒くさそうに頭を掻いた。
「三上陸です」
「はい」
「サッカー部です」
「はい」
「数学苦手です」
「それは聞いた」
「誰に?」
「クラスのやつ」
「先生、俺の情報を本人より先に周りから仕入れるのやめてくれる?」
「すみません」
「好きな食べ物、唐揚げ」
「中学生男子って感じだな」
「偏見」
「嫌いな食べ物は?」
「グリーンピース」
「中学生男子って感じだな」
「だから偏見!」
高瀬が笑う。
三上も、つられて笑った。
「あと?」
「あと……」
三上は少し考える。
「ゲーム好き」
「何やる?」
「先生絶対知らない」
「舐めるなよ。先生だってゲームくらいやる」
「じゃあ最近何やった?」
「……」
「ほら」
「ちょっと待て。今考えてる」
「考えないと出てこない時点でアウト」
「昔はやってたんだよ!」
「いつ?」
「大学生」
「昔すぎ」
「うるさい!」
三上が笑った。
さっきまで。
自分の存在について話していたとは思えない。
普通の会話だった。
好きな食べ物。
嫌いな食べ物。
ゲーム。
部活。
高瀬は、そこで気づいた。
自分は三上について。
何一つ知らなかった。
異常だけじゃない。
好きなものすら。
「三上」
「ん?」
「六回とも、こんな感じだった?」
「何が?」
「自己紹介」
三上の笑顔が少し薄くなった。
「……全然」
「どんなだった」
「一回目は、普通」
三上は机に肘をついた。
「先生が俺の名前呼ばなかったから、『先生、俺います』って」
「それで?」
「先生めっちゃ焦ってた」
「だろうな」
「名簿見て、『三上って誰だ』って」
「……今日と同じだ」
「うん」
「そのあと?」
「いっぱい調べてたよ。職員室行って、パソコン見て、他の先生に聞いて」
高瀬は想像できた。
今の自分と同じだ。
「でも次の日」
三上が指を一本立てる。
「先生、忘れてた」
高瀬は何も言わなかった。
「二回目は、俺から言った。『昨日話した三上です』って」
二本目。
「三回目は?」
「先生が気づいた」
「俺が?」
「机数えてた」
「今日と同じじゃねえか」
「先生、成長してないね」
「そこは否定できない」
三本目。
「四回目」
三上は少し笑った。
「俺、怒った」
高瀬は顔を上げた。
「先生に?」
「うん」
「何て」
「ふざけんなって」
笑顔が消える。
「昨日あんなに話したのに、何でまた忘れてんだよって」
「……」
「先生、謝ってた」
「そりゃ謝る」
「でも」
三上は高瀬を見る。
「その日の先生、ずっと俺のこと見てた」
「え?」
「授業でも何回も俺のほう見て、休み時間にも『三上いるか』って」
高瀬の胸が詰まる。
「帰りも」
三上は少し笑った。
「『明日こそ忘れん』って」
高瀬は目を閉じた。
言いそうだ。
間違いなく。
自分なら言う。
「……忘れたんだな」
「翌朝、普通に『おはよう。えっと……誰だ?』って」
「最悪だな、俺」
「最悪だった」
「ごめん」
「もういいよ」
三上はあっさり言った。
五本目の指が立つ。
「五回目は?」
「言わなかった」
「……え?」
「自己紹介」
三上は窓の外を見た。
「もういいかなって思って」
夕陽が校庭を照らしている。
部活動へ向かう生徒たちの声が、遠くから聞こえた。
「クラスのやつらは俺のこと知ってるし、友達もいるし。先生一人に忘れられるくらい、別にいいかなって」
「それで?」
「一週間くらい、そのまま」
「俺は?」
「普通」
「……普通に授業してた?」
「うん」
「お前も?」
「うん」
「何も言わずに?」
「うん」
高瀬には、その一週間を想像できなかった。
教室に三上がいる。
自分は彼を見ているはずなのに、認識していない。
他の生徒が「三上」と呼ぶ。
それを聞いても。
次の瞬間には忘れる。
「でも」
三上が続けた。
「一回だけ、先生が俺に話しかけた」
「覚えてない」
「知ってる」
「何て?」
「部活終わったあと」
三上は、少し迷ってから言った。
「俺、一人で校庭にいたんだよね」
「なんで」
「試合のメンバー外された」
「……」
「一年のやつにポジション取られて」
高瀬は黙って聞く。
「別に泣いてないよ」
「聞いてない」
「絶対泣いたと思ったでしょ」
「ちょっと」
「ほら!」
「続けろ」
三上は笑ったあと、机の上へ視線を落とした。
「先生が来て」
あの日。
部活が終わった校庭。
誰もいなくなったベンチで、三上は一人、スパイクの紐を結び直していた。
帰る理由が欲しくなくて。
意味もなく何度も。
きつく結んでは。
ほどいていた。
『帰らんの?』
顔を上げる。
高瀬が立っていた。
『……帰ります』
『じゃあ何で靴紐と喧嘩してんの』
『してないです』
『靴紐、負けそうだけど』
『何なんすか』
苛立っていた。
メンバーから外されたことも。
後輩に負けたことも。
それを誰にも言いたくないことも。
全部。
高瀬は隣に座った。
『試合出れんの?』
『……なんで知ってんの』
『顧問から聞いた』
『最悪』
『何が』
『先生ってすぐ情報共有するじゃん』
『教師だからな』
『そういうのマジで嫌』
『じゃあ忘れるわ』
三上は思わず顔を上げた。
『は?』
『お前が試合出られないこと』
『いや、そういう意味じゃ――』
『先生、最近物忘れ激しいから得意だぞ』
『それ自慢すんなよ』
高瀬が笑った。
三上は笑えなかった。
『……俺』
ぽつりと。
言葉が出た。
『サッカー、向いてないんかな』
高瀬はすぐには答えなかった。
『知らん』
『先生なのに?』
『先生はサッカーの神様じゃない』
『じゃあ聞いた意味ないじゃん』
『でも』
高瀬は校庭を見た。
『悔しい?』
三上は答えなかった。
『どうでもよかったら、そんな顔せんだろ』
『どんな顔』
『靴紐に八つ当たりする顔』
『してねえって』
『じゃあまだ好きなんじゃない?』
三上は。
その言葉を覚えていた。
『向いてるかどうかは、俺には分からん。でも、まだ好きなら、向いてないって決めるのは今日じゃなくてもいいだろ』
それだけ。
頑張れとも。
絶対試合に出られるとも。
才能があるとも。
言わなかった。
『……帰る』
『おう』
『先生』
『ん?』
『これ、誰にも言わんで』
『靴紐に負けたこと?』
『殺すぞ』
『生徒が教師に殺すとか言うな!』
その日。
三上は家へ帰った。
◇
「……俺、その時はお前を覚えてたのか?」
高瀬が聞いた。
三上は首を振った。
「名前は知らなかった」
「え?」
「最後まで俺の名前、一回も呼ばなかったよ」
高瀬は言葉を失った。
「たぶん先生にとっては、校庭にいた知らない生徒」
「それなのに話しかけた?」
「うん」
「……」
「だから」
三上が六本目の指を立てる。
「次の日、六回目の自己紹介した」
「どうして」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「……言いたくない」
「分かった」
「早っ」
「聞き出すなって怒られたばっかだからな」
「誰に?」
「そこは先生の話」
「ずる」
三上は口を尖らせた。
少しの沈黙。
高瀬は待った。
やがて。
三上が言った。
「名前知らなくても」
「うん」
「先生、俺が落ち込んでるのは見つけたから」
高瀬は動かなかった。
「それで、まあ……」
三上が頬を掻く。
「もう一回くらい、名前教えてもいいかなって」
視線を逸らした。
「それだけ」
高瀬は。
しばらく何も言えなかった。
「何」
「いや」
「何だよ」
「お前、結構俺のこと好きじゃん」
「は?」
「七回も自己紹介してくれるし」
「は!?」
「愛されてんな、俺」
「違うし!」
「照れるなって」
「マジで違うから!」
三上が顔を赤くする。
「俺はただ!」
「ただ?」
「先生が!」
そこで止まった。
「俺が?」
「……もういい!」
「気になるだろ!」
「うるさい!」
三上は立ち上がった。
サッカー部のバッグを肩にかける。
「帰る!」
「待て待て」
「何」
「今日、部活は?」
「行く」
「試合は?」
三上が止まった。
「……今週」
「メンバー?」
「まだ分かんない」
「そっか」
高瀬はそれ以上言わなかった。
頑張れ。
絶対いける。
取り返せ。
言おうと思えば、いくらでも言える。
でも。
三上が欲しい言葉を、高瀬が勝手に決める必要はない。
「じゃあ」
高瀬は手を上げた。
「行ってこい」
「それだけ?」
「何か欲しい?」
「別に」
「じゃあそれだけ」
三上は少し笑った。
「……行ってきます」
「おう」
教室を出ようとして。
三上が振り返った。
「先生」
「ん?」
「明日」
一瞬だけ。
言いにくそうにした。
「覚えてると思う?」
高瀬は答えられなかった。
大丈夫。
今度こそ。
絶対忘れない。
どれも言えた。
でも。
六回。
高瀬は忘れている。
だから。
「分からん」
三上が目を伏せた。
「そっか」
「でも」
高瀬は立ち上がった。
「忘れてたら」
三上を見る。
「八回目、頼むわ」
三上が顔を上げた。
「……は?」
「自己紹介」
「嫌だよ!」
「そこを何とか」
「何で俺が頑張るんだよ!」
「先生も頑張る!」
「信用できねえ!」
「七回目までは無料だろ?」
「何のサービスだよ!」
教室に。
三上の笑い声が響いた。
◇
翌朝。
高瀬はいつもより少し早く学校へ来た。
職員室で鞄を置き。
出席簿を持って。
教室へ向かう。
扉を開ける。
「おはようございまーす」
数人の生徒がすでに来ている。
「おう、おはよう」
高瀬は教卓に出席簿を置いた。
そして。
最後列を見る。
一人の男子生徒が座っていた。
サッカー部のバッグ。
少し長い前髪。
机の横にぶら下がった、青いシューズケース。
男子生徒が。
高瀬を見る。
目が合った。
高瀬は。
動かなかった。
男子生徒も。
何も言わない。
数秒。
「……先生?」
不安そうな声。
高瀬は。
ゆっくり口を開いた。
「おはよう」
男子生徒の表情が強張る。
「……それだけ?」
「ん?」
「俺の――」
「三上」
男子生徒が止まった。
高瀬は出席簿を開きながら言う。
「朝からうるさい」
「……」
「あと昨日のノート、職員室に置いてあるから後で取りに来い」
「……先生」
「何」
「俺の名前」
「三上陸」
「……」
「サッカー部。数学苦手。唐揚げ好き。グリーンピース嫌い。ゲーム好き」
高瀬は指を折る。
「あと消しゴムめっちゃ落とす」
「それ俺が言ったんじゃない!」
「クラスメイト情報」
「勝手に足すなよ!」
「それから」
高瀬は笑った。
「靴紐に負ける」
「先生!!」
教室に笑い声が起きる。
「何それ三上!」
「靴紐に負けたの?」
「違うから!」
「先生! 言わないって約束しただろ!」
「約束したの、前の俺だから」
「最低すぎる!!」
三上が叫ぶ。
みんなが笑う。
高瀬も笑った。
その時。
何気なく。
出席簿を見る。
高瀬の笑顔が。
ゆっくり止まった。
名簿。
昨日まで存在しなかった場所。
そこに。
名前がある。
『三上 陸』
出席番号。
二十七番。
高瀬はしばらく見つめた。
「先生?」
三上が首を傾げる。
「……いや」
高瀬は。
出席簿を閉じた。
今は。
理由を探すより。
先にすることがある。
「朝の会始めるぞ」
「まだみんな来てないけど?」
「じゃあ待つ」
「適当!」
「三上」
「何」
高瀬は。
今度は。
出席簿を見ずに。
彼を見る。
「おはよう」
三上は。
一瞬だけ。
何も言わなかった。
それから。
少し照れくさそうに。
笑った。
「……おはようございます、高瀬先生」




