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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

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87/121

Review13 一人多い

「先生、今日機嫌よくない?」


 一時間目が始まって三分。


 黒板に年号を書いていた高瀬の手が止まった。


「……授業開始三分で先生の機嫌を分析するな」


「だって鼻歌歌ってた」


「歌ってない」


「歌ってたよね?」


「歌ってた」


「歌ってた」


 教室のあちこちから証言が飛んでくる。


「お前ら、こういう時だけ団結するな」


 笑いが起きた。


 高瀬はチョークを持ったまま教室を見渡す。


「いいか。今からテストに出るところをやる。先生の鼻歌なんか覚えてる容量があるなら――」


「何の曲?」


「そこ掘るな」


「恋?」


「中学生の発想どうなってんだ」


「昨日いいことあった?」


「授業を受けろ!」


 また笑いが起きる。


 高瀬は呆れながら黒板へ向き直った。


 確かに。


 機嫌は悪くなかった。


 昨日。


 十三年ぶりに、森田と別れの言葉を交わした。



『またな、森田』


『はい。また』



 あの一言を思い出すだけで、胸の奥にあった重いものが少し軽くなる。


 全部が解決したわけじゃない。


 むしろ分からないことは増えた。


 それでも。


 森田は生きていた。


 笑っていた。


 そして、また会える。


 それだけで今日は十分だった。


「先生」


「ん?」


「またニヤニヤしてる」


「してない」


「絶対恋じゃん」


「よし。教科書百ページ追加」


「横暴!」


「先生、教科書九十六ページまでしかない!」


「じゃあ存在しない四ページを探せ」


「無茶言うな!」


 教室が笑いに包まれた。



◇



 二時間目。


 事件は起きなかった。


 三時間目。


 何も起きなかった。


 給食。


 牛乳をこぼした生徒が一人。


「先生! 雑巾!」


「俺を雑巾係だと思うな!」


 四時間目。


 何も起きなかった。


 昼休み。


 男子生徒二人が廊下でじゃんけんをしていた。


「何してんの?」


「負けたほうが先生にジュース奢る」


「なんで俺が得するゲーム開催されてんの?」


「先生も参加する?」


「参加したら俺が負けた時おかしいだろ」


「先生が二本買う」


「胴元が強すぎる!」


 そんな一日だった。


 普通。


 恐ろしいほど。


 普通だった。


 だから高瀬は、少しだけ油断していた。



◇



 五時間目。


「じゃあ今日はここまで」


 チャイムと同時に教科書を閉じる。


「号令」


 日直が立つ。


「起立」


 椅子が一斉に鳴る。


「礼」


「ありがとうございました」


 生徒たちが次の授業の準備を始める。


 高瀬は教卓の上のプリントをまとめた。


「先生」


「ん?」


 日直が出席簿を持ってきた。


「これ」


「ありがと」


 受け取る。


 何気なく開いた。


 欠席。


 一名。


 早退。


 一名。


 遅刻。


 なし。


 いつもの記録だった。


 閉じようとする。


「……ん?」


 高瀬の指が止まった。


 出席人数。


 三十二名。


 高瀬は教室を見る。


 もう半分ほどの生徒が移動を始めている。


「ちょっと待って」


「何?」


「まだ移動するな」


「えー」


「忘れ物?」


「違う」


 高瀬はもう一度、出席簿を見る。


 在籍。


 三十三名。


 欠席一名。


 なら。


 出席は三十二名。


 合っている。


「……何だ」


「先生どうした?」


「いや、何でもない」


 生徒たちが教室を出ていく。


 高瀬も出席簿を閉じた。


 気のせい。


 そう思った。


 でも。


 廊下へ出たところで。


 足が止まった。


「待てよ」


 頭の中で、さっきの授業を思い返す。


 自分は授業中、座席を見ながら何度か生徒を指名した。


 空席は二つ。


 欠席した女子生徒。


 早退した男子生徒。


 なら。


 教室にいたのは三十一名のはずだ。


 高瀬は出席簿を開く。


 三十二名。


「……?」


 在籍三十三。


 欠席一。


 早退は「出席後早退」だから、出席人数には含まれる。


 つまり。


 三十二。


 数字は正しい。


 何もおかしくない。


 なのに。


 高瀬は。


 授業中の教室を思い出していた。


 机が。


 一つ多かった気がする。



◇



 放課後。


「先生、まだいたの?」


「それ教師に言う?」


「だって今日部活ないじゃん」


「先生には部活以外にも仕事があるんです」


「へえ」


「興味なさすぎだろ」


 女子生徒が笑いながら教室を出ていく。


「さようならー」


「おう、気をつけて帰れよ」


「はーい」


 扉が閉まった。


 静かになる。


 高瀬は教卓の前に立った。


 机を数える。


「一、二、三……」


 縦。


 横。


 もう一度。


「……三十三」


 当たり前だ。


 在籍三十三名なのだから。


 高瀬は自分で苦笑した。


「何やってんだ俺」


 昨日まで、存在を消された人間を追っていた。


 少し神経質になっているのかもしれない。


 鞄を持つ。


 帰ろうとする。


 その時。


 机の上に、一冊のノートが置かれているのが見えた。


「忘れ物か」


 最後列。


 廊下側。


 高瀬はノートを手に取った。


 表紙に名前が書いてある。



『三上 陸』



「三上?」


 知らない名前だった。


 自分のクラスに三上はいない。


 他クラスの生徒が置き忘れたのだろう。


 ノートを開く。


 数学。


 丁寧な字。


 日付も今日。


「誰だよ三上……」


 職員室へ持っていこうとして。


 高瀬は止まった。


 今日の日付のページ。


 数学の問題の下に。


 落書きがある。


 棒人間。


 吹き出し。



『高瀬またチョーク落とした』



「……」


 高瀬は今日。


 チョークを落とした。


 四時間目。


 一回だけ。


「何で知ってる」


 ページをめくる。


 昨日。



『高瀬、宿題回収忘れる』



「……忘れた」


 一昨日。



『給食のじゃんけんに先生参加。普通に負ける』



「……」


 全部。


 このクラスで起きたことだった。


 高瀬は表紙を見る。



『三上 陸』



 聞いたことがない。


 でも。


 この生徒は。


 ここにいた。



◇



 職員室へ戻る。


「すみません」


 近くの教師に声をかけた。


「三上陸って生徒、分かります?」


「三上?」


「はい」


「何年?」


「それが分からなくて」


「下の名前は?」


「陸です」


 教師は少し考える。


「聞いたことないなあ」


「ですよね」


「転校生?」


「いや……」


 高瀬はノートを見せる。


「今日、うちの教室にあったんです」


「他クラスの子じゃないですか?」


「そう思ったんですけど」


 教師がノートを開く。


「高瀬先生のことばっか書いてありますね」


「やめてください。そこ重点的に読まないで」


「チョーク落としたんですか?」


「そこもいいです」


「宿題回収忘れた?」


「もう返してください」


 教師が笑いながらノートを返す。


「明日、生徒に聞いたらいいじゃないですか」


「そうします」


 高瀬は自分の席に戻った。


 ノートを机に置く。


 スマートフォンを見る。


 何も来ていない。


 Reviewも。


 SYSTEMも。


 反応なし。


「……関係ないのか?」


 そう呟いた時。


「先生」


 背後から声がした。


 振り返る。


 今日、日直だった女子生徒が立っていた。


「どうした。帰ったんじゃないの?」


「忘れ物」


「何を」


「水筒」


「ああ」


 女子生徒が教室へ向かおうとして。


 高瀬の机のノートに気づいた。


「あ」


 足が止まる。


「それ」


「知ってる?」


「三上のじゃん」


 高瀬は。


 女子生徒を見る。


「……誰?」


「え?」


「三上って誰?」


 女子生徒が笑った。


「何言ってんの先生」


「いや、本当に」


「三上陸」


「だから、それが誰だ」


「うちのクラスの」


 高瀬の表情が変わった。


 女子生徒の笑みが消える。


「……先生?」


「うちのクラスに三上なんていない」


「いるじゃん」


「いない」


「いるよ」


 女子生徒が教室の方向を指差す。


「一番後ろの廊下側」


 高瀬は。


 さっきノートが置かれていた席を思い出した。


「そこは……」


 誰の席だ。


 答えようとして。


 出てこない。


「三上の席だよ」


 女子生徒が言う。


「今日もいたじゃん」


「……今日?」


「いたよ」


「授業も?」


「いた」


「俺、指名した?」


「したよ」


「いつ」


「五時間目」


 高瀬の背中が冷たくなる。


「何て」


「先生が『じゃあ三上』って」


「……」


「三上、答え間違えて」


 女子生徒が笑いかける。


「先生、『惜しい。そこ鎌倉じゃなくて室町』って言ってたじゃん」


 記憶が。


 ない。


 でも。


 その言葉は。


 自分なら言う。


「三上って、どんなやつ」


「どんなって……」


 女子生徒が考える。


「普通?」


「もっと」


「サッカー部。数学苦手。よく寝る。あと消しゴムめっちゃ落とす」


「仲いいやつは?」


「大地とか」


「今日話してた?」


「話してたよ」


「給食は?」


「食べてた」


「本当に?」


「先生怖いって」


 女子生徒が困った顔をする。


 高瀬は息を整えた。


「ごめん」


「三上、何かした?」


「いや」


「怒られる?」


「違う」


「じゃあ何?」


 高瀬は答えられなかった。


 女子生徒は首を傾げたあと、水筒を取りに教室へ向かった。


 高瀬はその背中を見送る。


 そして。


 ノートを開いた。


 今日のページ。


 もう一度。


『高瀬またチョーク落とした』


 その下。


 さっきまで。


 何もなかった場所に。



 一行。



 増えていた。



『先生、今日も俺のこと忘れた。』



「……今日も?」



 高瀬の指が止まる。


 今日だけじゃない。



 何度も。



 忘れている。



◇



 高瀬は教室へ走った。


「先生?」


 水筒を持った女子生徒とすれ違う。


「三上は!?」


「え?」


「今いる?」


「もう帰ったと思うけど」


 教室へ入る。


 誰もいない。


 最後列。


 廊下側。


 三上の席。


 高瀬は机の中を見る。


 教科書。


 筆箱。


 プリント。


 全部ある。


 名前も。


 三上陸。


 ロッカー。


 ある。


 靴箱。


 ある。


 名簿。


 高瀬は教卓の出席簿を開いた。


 上から指で追う。


「……ない」


 三上陸。


 その名前だけ。


 名簿には存在しない。


 机はある。


 持ち物もある。


 生徒たちは知っている。


 今日も授業を受けていた。


 なのに。


 教師である高瀬と。


 学校の記録だけが。



 三上陸を知らない。



「森田と……逆だ」



 森田は。


 学校と、学校に関係する人間から認識されなくなった。



 三上は。



 生徒たちには認識されている。



 学校の記録には存在しない。



 そして。



 高瀬だけが。



 何度会っても忘れる。



 机を数える。



 一。



 二。



 三。



 最後まで。



「……三十四」



 高瀬は数え直した。



 三十四。



 在籍数。



 三十三。



 昨日まで。



 この教室には。



 三十三脚しかなかった。



 高瀬は、三上の机に手を置いた。



 まだ。



 少し温かかった。



「……さっきまでいた」



 その時。



 廊下から声がした。



「先生」



 高瀬は顔を上げた。



 一人の男子生徒が。



 教室の入口に立っている。



 制服。


 サッカー部のバッグ。


 少し長めの前髪。



 知らない顔。



 なのに。



 その男子生徒は。



 呆れたように笑った。



「やっと気づいた?」



 高瀬は。



 名前を口にする。



「……三上?」



「正解」



 三上陸は笑った。



「じゃあ先生」



 サッカーボールを。



 片手で軽く放り上げる。



「問題です」



「……何だよ」



「俺」



 三上は。



 自分自身を指差した。



「いつからこのクラスにいるでしょう?」



 高瀬は答えられない。



 三上が笑う。



 でも。



 その目だけは。



 笑っていなかった。



「ヒント」



 一歩。



 教室へ入る。



「俺が先生のこと覚えてるの」



 もう一歩。



「今日が初めてじゃないよ」



 高瀬の喉が鳴った。



 三上は。



 自分の席に座った。



 そして。



 まるで。



 毎日そうしてきたように。



 机の傷を指でなぞった。



「俺さ」



 高瀬を見る。



「先生に、六回自己紹介してるから」

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