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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

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86/122

Review12 卒業アルバムにいない人

「ミルクティー」


 高瀬がペットボトルを差し出すと、森田は受け取る前にラベルを確認した。


「……午後のやつじゃない」


「メーカー指定まで聞いてない」


「十三年待ったんですけど」


「そのカード万能すぎるだろ」


「あと何回使えると思います?」


「せめて三回で勘弁してくれ」


「じゃあ今ので一回」


「使った扱いなの!?」


 森田は笑いながらキャップを開けた。


 ついさっきまで泣いていた目はまだ少し赤い。それでも、十三年前の名前を取り戻してから、彼女の表情は明らかに柔らかくなっていた。


 高瀬は自分用に買った缶コーヒーを開ける。


 一口。


「……苦っ」


「ほら」


「うるさい」


「十三年経っても格好つけてる」


「これは格好じゃなくて習慣だ」


「砂糖入れたら?」


「教師には譲れないものがある」


「そこ?」


 二人の笑い声が、夕方の教室に広がった。


 不思議だった。


 十三年間忘れていた。


 名前も。


 声も。


 こうして話した時間も。


 それなのに、一度思い出すと、記憶は一気に戻ってくるわけではなく、古い写真が少しずつ現像されるように輪郭を取り戻していく。


 森田は笑う時、少しだけ右肩が上がる。


 考え事をする時は、ペットボトルのラベルの端を爪で触る。


 昔もそうだった。


「森田」


「はい」


「学校、歩かないか」


 ラベルをいじっていた指が止まった。


「今から?」


「嫌ならいい」


「……何のために?」


 高瀬は少し考えた。


「面談、長すぎて腰痛い」


「最低な理由」


「三十六だからな」


「歳のせいにするには早いですよ」


「お前もそのうち分かる」


「もう分かる歳ですけど」


「あ」


「今、私のこと何歳だと思ってました?」


「いや、その」


「先生」


「はい」


「十三年待ったんですけど」


「二回目使った!」


 森田が声を上げて笑った。



◇



 二人は教室を出た。


 夕方の校舎には、昼間とは違う匂いがある。


 わずかに残った給食の匂い。黒板消しの粉。ワックスのかかった床。開いた窓から入る土と草の匂い。


 森田はゆっくり歩いていた。


 懐かしそうに見える場所もあれば、ほとんど目を向けない場所もある。


「ここ、変わりましたね」


 階段の踊り場で森田が止まった。


「何が?」


「鏡」


「鏡?」


「昔、大きい鏡あったじゃないですか」


「あったっけ」


「ありました。ダンス部が使ってた」


「ああ……」


 思い出しかけて、やめる。


 森田が壁に触れた。


「十五日目から、ここ通るの嫌いだったんです」


「どうして」


「鏡には映ったから」


 高瀬の足が止まった。


「……映った?」


「はい」


 森田は何でもないことのように言った。


「人には見えないのに、自分には自分が見えるんですよ」


 高瀬は、何も言えなかった。


「最初は安心しました。あ、私ちゃんといるじゃんって」


 森田は壁を見たまま続ける。


「でも、そのうち逆になりました」


「逆?」


「自分にしか見えてないんじゃないかって」


 誰も認識しない。


 名前も呼ばれない。


 給食も配られない。


 出席にも欠席にもならない。


 そんな毎日の中で、鏡だけが自分を映す。


「それで?」


「割ろうとしました」


「……え」


「一回だけ」


 森田が高瀬を見る。


「椅子持ってきて」


「待て待て待て」


「でも重かったからやめました」


「理由そこ!?」


「当時の私、非力だったので」


「先生呼べよ!」


「見えてないって話してたでしょ!」


「あ、そうだった!」


「先生、たまに信じられないくらい馬鹿ですよね」


「再会して一時間で元生徒に馬鹿って言われた」


 森田が笑った。


 高瀬も笑った。


 でも。


 その笑いの奥にあるものまで消えたわけではない。


 鏡を割ろうとした少女。


 十三年前。


 高瀬のすぐ近くにいた。


 自分は知らなかった。



◇



「ここ」


 次に森田が止まったのは、図書室だった。


「よく来てた?」


「十五日目から」


「それ以前は?」


「ほぼゼロ」


「じゃあ本好きだったわけじゃないのか」


「全然」


「図書室に謝れ」


 森田は扉を開けた。


 司書はすでに帰っており、室内は薄暗い。


 森田は迷わず奥へ進んだ。


 窓際の席。


「ここです」


「何が?」


「昼ご飯食べてた場所」


 高瀬は周囲を見る。


「給食、なかったから?」


「はい。家から持ってきたパンとか」


「……一人で?」


「一人しかいないですからね」


「そういう言い方するなよ」


「事実ですよ」


 森田は椅子を引いた。


 座らずに、背もたれへ手を置く。


「でも、悪いことばっかりでもなかったです」


 高瀬が顔を上げた。


「図書室の本、借り放題でした」


「盗んでるだけだろ」


「ちゃんと返しました」


「貸出処理は?」


「できない」


「やっぱ盗んでる!」


「返したからセーフ」


「図書委員泣くぞ」


「その図書委員も私見えてませんから」


「強い」


 森田は笑った。


「それで、本読むようになりました」


「へえ」


「最初は暇つぶし。小説とか全然興味なかったのに」


「何読んでた?」


「何でも。恋愛、ミステリー、ファンタジー。分厚いのは避けてました」


「そこは普通だな」


「あと」


 森田は本棚を見上げる。


「伝記」


「意外」


「人がどうやって生きたか書いてあるから」


 高瀬は黙った。


「私、自分の人生がよく分からなくなってたんです」


 森田の指が、一冊の背表紙をなぞる。


「誰にも見えない。記録にも残らない。だったら私が今日学校に来たことって、本当に起きたことなのかなって」


「……」


「だから、他人の人生ばっかり読んでました」


 誰かが生まれた。


 誰かが失敗した。


 誰かが愛された。


 誰かが何かを残した。


 文章の中では、人の人生には輪郭がある。


「変ですよね」


「いや」


 高瀬は首を振った。


「全然」


 森田は少し笑った。


「それで私、卒業する頃には」


「うん」


「図書室の本、百八十六冊読んでました」


「めちゃくちゃ読んでるじゃん」


「暇だったので」


「そこだけ聞くと優雅な中学生だな」


「透明人間の読書生活」


「タイトルにしたら売れそう」


「印税半分ください」


「なんで俺が書く前提なんだよ」


 二人で笑った。



◇



 図書室を出て、階段を下りる。


 森田がふいに言った。


「先生」


「ん?」


「私、卒業したあとどうしたと思います?」


 高瀬は考えた。


「高校……」


 言いかけて止まる。


 学校で認識されない人間が。


 普通に高校へ進学できるのか。


「その顔」


「何だよ」


「今、私の人生めちゃくちゃ悲惨にしようとしたでしょ」


「してない」


「しました」


「心配しただけだ」


「普通に高校行きましたよ」


「行けたの!?」


「その驚き方失礼じゃない?」


「いや、だって」


「卒業した次の日から、家族には見えるようになりました」


 高瀬が足を止めた。


「……何?」


「学校の外でも完全に見えなかったわけじゃないんです」


「待って」


「はい」


「そこ、めちゃくちゃ大事じゃないか?」


「そうですか?」


「そうだよ!」


 森田は階段を一段下りたところで振り返る。


「私が消えたのは、世界全部からじゃありません」


「じゃあ……」


「学校と」


 一拍。


「学校に関係する人たちからです」


 高瀬の表情が変わった。


「家族は?」


「家に帰れば、普通に話せました」


「じゃあ家族は、学校で何が起きてるか――」


「知りませんでした」


「なんで言わなかった」


 少し強い声になった。


 森田の顔から笑みが消える。


 高瀬はすぐに気づいた。


「……ごめん」


「いえ」


「責めたいわけじゃない」


「分かってます」


 森田は階段に座った。


 高瀬も一段空けて座る。


「言いましたよ。最初は」


「……」


「お母さんに、『学校で誰も私に気づかない』って」


「それで?」


「笑われました」


「笑われた?」


「『何それ、いじめ?』って」


 森田は膝の上で指を組んだ。


「違うって説明しても、うまく伝わらなかった。次の日、お母さんが学校に電話したんです」


 高瀬の喉が鳴る。


「学校は何て」


「『そのような生徒は在籍していません』」


「……」


「お母さん、その電話を切ったあと」


 森田は笑った。


 寂しい笑い方だった。


「私に言ったんです」


『あんた、どこの学校の話してるの?』


「家では見えてるのに?」


「はい」


「娘だって分かってるのに?」


「はい。でも」


 森田は言った。


「学校の話になると、私がその学校に通ってることだけ分からなくなる」


 高瀬は息を吐いた。


 消去ではない。


 もっと歪だ。


 森田という人間そのものを消したのではなく。


 学校と森田を結ぶ関係だけを。


 切った。


「それから、学校のことは家で話さなくなりました」


「……そっか」


「でも家では普通でしたよ」


「普通?」


「テレビ見て、ご飯食べて、お母さんと喧嘩して」


「何で喧嘩した」


「洗濯物」


「急に生活感すごいな」


「脱いだ靴下をその辺に置くなって」


「森田が?」


「お兄ちゃん」


「お兄ちゃんかよ」


「私、巻き込まれただけです」


「理不尽」


「でしょう?」


 森田が笑う。


 その瞬間。


 高瀬の中にあった「十三年間、誰にも見えず孤独に生きてきた森田」という勝手な像が崩れた。


 当たり前だ。


 森田にも。


 高瀬が知らない日常があった。


 泣いた日だけじゃない。


 靴下で喧嘩した日もある。


 好きなテレビを見た夜も。


 笑った日も。


 きっと。


「高校では?」


「普通」


「見えた?」


「見えました」


「友達は?」


「いました」


「良かった……」


「先生」


「ん?」


「今めっちゃ保護者みたい」


「元担任だからな」


「十三年ほったらかしたくせに」


「三回目!」


「今のは無料サービス」


「ありがたくねえ!」


 森田が笑った。


 高瀬も笑った。


 笑える。


 そのことが。


 少し嬉しかった。



◇



 二人が最後に向かったのは、職員室の隣にある資料保管室だった。


「ここ?」


「卒業アルバムありますよね」


「ああ」


 高瀬は棚から該当年度の一冊を取り出した。


 埃を払う。


 二人で机に置く。


「見る?」


「そのために来ました」


 ページをめくる。


 行事。


 部活動。


 修学旅行。


 文化祭。


 そして。


 クラス写真。


 高瀬の指が止まった。


 十三年前の自分。


「若っ」


 森田が即座に言った。


「まずそこ?」


「髪多い」


「今もあるわ!」


「今、確認しました」


「やめろ!」


 森田が笑いながら写真を見る。


 やがて。


 静かになった。


 クラス全員が並んでいる。


 高瀬もいる。


 でも。


 森田はいない。


「……本当にいないな」


「はい」


 高瀬は人数を数えた。


 一人少ない。


 以前見た写真では、一瞬だけ「一人多い」ように感じた。


 今は。


 明確に足りない。


 森田は写真を見つめていた。


「卒業式の日」


「うん」


「これ、撮ってるところ見てました」


 高瀬は何も言わなかった。


「みんな、前詰めてーって言われて」


 森田が指差す。


「ここ」


 後列の端。


 不自然に。


 ほんの少しだけ。


 人と人の間が空いている。


「私、ここに立ってました」


 高瀬の胸が締めつけられる。


「写らないの分かってたんですけどね」


「……」


「一応、笑いました」


「なんで」


「写真だから」


 当たり前のように言った。


 高瀬はその一言に、何も返せなかった。


 森田はページをめくる。


 最後。


 寄せ書きのページ。


 印刷された余白には、生徒たちが互いに書いたメッセージが残っている。


『高校でもよろしく!』


『部活がんばれ!』


『また遊ぼう!』


 森田はそこを眺めた。


「これだけは、ちょっと羨ましかった」


「寄せ書き?」


「はい」


「誰にも書いてもらえなかったから?」


「それもあるけど」


 森田が笑う。


「私も誰かに書きたかった」


 高瀬はアルバムを見た。


 何も言わず。


 机のペン立てから油性ペンを一本取った。


「先生?」


「貸せ」


「何を」


「アルバム」


「学校のですよ?」


「知ってる」


「備品ですよ?」


「知ってる」


「教師が落書き?」


「うるさい」


 高瀬は寄せ書きのページを開いた。


 空いている場所に。


 ペンを置く。


「何書こう」


「え、本当に書くの?」


「お前が書いてほしかったんだろ」


「十三年前ですよ」


「だから十三年遅れ」


「またそれで全部押し切る気?」


「便利なんだよ」


 森田が吹き出した。


「先生、それ私の『十三年カード』パクってる」


「教師特権」


「ないって言ってるでしょ」


 高瀬は笑いながら。


 書いた。



『卒業おめでとう。』



 そこで止まる。


「……普通」


 森田が言った。


「黙れ。今からだ」


 続ける。



『頑張れなくても、卒業したな。』



 森田の表情が変わった。



『ちゃんといたこと、今度は忘れません。』



 高瀬悠介。



 書き終える。


 森田は。


 しばらく何も言わなかった。


「……先生」


「ん?」


「油性ペンですよね」


「そうだけど」


「間違えたら消えないですよ」


「そこ!?」


「大事でしょ」


「今ちょっといい場面だっただろ!」


「昔から先生、詰めが甘いから」


「泣けよ!」


「強要しないでください」


 そう言いながら。


 森田は。


 泣いていた。


「……泣いてるじゃん」


「うるさい」


「初めてタメ口きいたな」


「うるさい!」


 高瀬は笑った。


 森田も。


 泣きながら笑った。


 卒業式から十三年。


 誰にも書かれなかった。


 森田のための言葉が。


 ようやく。


 卒業アルバムに残った。



◇



「帰りますか」


 校舎を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「ああ」


 森田が一歩先を歩く。


「森田」


「はい?」


「今、何してるんだ」


 森田が振り返った。


「仕事?」


「うん」


「知りたい?」


「知りたい」


「当ててください」


「教師」


「絶対嫌」


「即答!?」


「先生見てたら大変そうだから」


「否定できない」


「三回転職しました」


「意外」


「一回目、事務」


「うん」


「二回目、書店」


「図書室から繋がってるじゃん」


「三回目」


 森田は少しだけ間を置いた。


「今は、人の話を聞く仕事してます」


「……カウンセラー?」


「近いけど違います」


「相談員?」


「それも近い」


「何だよ」


「まだ秘密」


「そこ隠す必要ある?」


「あります」


「なんで」


 森田は歩き出した。


 数歩進んで。


「先生」


 振り返る。



「私以外にもいるから」



 高瀬の足が止まった。



「……何が」



 森田の表情から。


 笑みが消えた。



「記録からこぼれた人」



 風が吹いた。


 校門脇の木々が揺れる。



「私、そういう人たちの話を聞いてます」



「待って」



 高瀬が追いつく。



「そういう人たちって、何人いる」



「先生」



「うん」



「今日、私たち何の話してました?」



「え?」



「人を数字にしたら、こぼれるものがあるって」



 森田は。



 少し寂しそうに笑った。



「だから」



「……」



「最初に人数を聞くの、やめません?」



 高瀬は。



 言葉を失った。



「……ごめん」



「謝らなくていいです」



 森田は校門の外へ出る。



「今度、会わせます」



「誰に」



 森田は答えなかった。



 代わりに。



「高瀬先生」



「ん?」



「次は遅刻しないでくださいね」



 高瀬は笑った。



「十三年よりは早く行く」



「ハードル低すぎ」



 森田も笑った。



 そして。



 十三年前にはできなかった。



 別れの言葉を。



 今度は。



 ちゃんと交わした。



「またな、森田」



「はい。また」

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