Review12 卒業アルバムにいない人
「ミルクティー」
高瀬がペットボトルを差し出すと、森田は受け取る前にラベルを確認した。
「……午後のやつじゃない」
「メーカー指定まで聞いてない」
「十三年待ったんですけど」
「そのカード万能すぎるだろ」
「あと何回使えると思います?」
「せめて三回で勘弁してくれ」
「じゃあ今ので一回」
「使った扱いなの!?」
森田は笑いながらキャップを開けた。
ついさっきまで泣いていた目はまだ少し赤い。それでも、十三年前の名前を取り戻してから、彼女の表情は明らかに柔らかくなっていた。
高瀬は自分用に買った缶コーヒーを開ける。
一口。
「……苦っ」
「ほら」
「うるさい」
「十三年経っても格好つけてる」
「これは格好じゃなくて習慣だ」
「砂糖入れたら?」
「教師には譲れないものがある」
「そこ?」
二人の笑い声が、夕方の教室に広がった。
不思議だった。
十三年間忘れていた。
名前も。
声も。
こうして話した時間も。
それなのに、一度思い出すと、記憶は一気に戻ってくるわけではなく、古い写真が少しずつ現像されるように輪郭を取り戻していく。
森田は笑う時、少しだけ右肩が上がる。
考え事をする時は、ペットボトルのラベルの端を爪で触る。
昔もそうだった。
「森田」
「はい」
「学校、歩かないか」
ラベルをいじっていた指が止まった。
「今から?」
「嫌ならいい」
「……何のために?」
高瀬は少し考えた。
「面談、長すぎて腰痛い」
「最低な理由」
「三十六だからな」
「歳のせいにするには早いですよ」
「お前もそのうち分かる」
「もう分かる歳ですけど」
「あ」
「今、私のこと何歳だと思ってました?」
「いや、その」
「先生」
「はい」
「十三年待ったんですけど」
「二回目使った!」
森田が声を上げて笑った。
◇
二人は教室を出た。
夕方の校舎には、昼間とは違う匂いがある。
わずかに残った給食の匂い。黒板消しの粉。ワックスのかかった床。開いた窓から入る土と草の匂い。
森田はゆっくり歩いていた。
懐かしそうに見える場所もあれば、ほとんど目を向けない場所もある。
「ここ、変わりましたね」
階段の踊り場で森田が止まった。
「何が?」
「鏡」
「鏡?」
「昔、大きい鏡あったじゃないですか」
「あったっけ」
「ありました。ダンス部が使ってた」
「ああ……」
思い出しかけて、やめる。
森田が壁に触れた。
「十五日目から、ここ通るの嫌いだったんです」
「どうして」
「鏡には映ったから」
高瀬の足が止まった。
「……映った?」
「はい」
森田は何でもないことのように言った。
「人には見えないのに、自分には自分が見えるんですよ」
高瀬は、何も言えなかった。
「最初は安心しました。あ、私ちゃんといるじゃんって」
森田は壁を見たまま続ける。
「でも、そのうち逆になりました」
「逆?」
「自分にしか見えてないんじゃないかって」
誰も認識しない。
名前も呼ばれない。
給食も配られない。
出席にも欠席にもならない。
そんな毎日の中で、鏡だけが自分を映す。
「それで?」
「割ろうとしました」
「……え」
「一回だけ」
森田が高瀬を見る。
「椅子持ってきて」
「待て待て待て」
「でも重かったからやめました」
「理由そこ!?」
「当時の私、非力だったので」
「先生呼べよ!」
「見えてないって話してたでしょ!」
「あ、そうだった!」
「先生、たまに信じられないくらい馬鹿ですよね」
「再会して一時間で元生徒に馬鹿って言われた」
森田が笑った。
高瀬も笑った。
でも。
その笑いの奥にあるものまで消えたわけではない。
鏡を割ろうとした少女。
十三年前。
高瀬のすぐ近くにいた。
自分は知らなかった。
◇
「ここ」
次に森田が止まったのは、図書室だった。
「よく来てた?」
「十五日目から」
「それ以前は?」
「ほぼゼロ」
「じゃあ本好きだったわけじゃないのか」
「全然」
「図書室に謝れ」
森田は扉を開けた。
司書はすでに帰っており、室内は薄暗い。
森田は迷わず奥へ進んだ。
窓際の席。
「ここです」
「何が?」
「昼ご飯食べてた場所」
高瀬は周囲を見る。
「給食、なかったから?」
「はい。家から持ってきたパンとか」
「……一人で?」
「一人しかいないですからね」
「そういう言い方するなよ」
「事実ですよ」
森田は椅子を引いた。
座らずに、背もたれへ手を置く。
「でも、悪いことばっかりでもなかったです」
高瀬が顔を上げた。
「図書室の本、借り放題でした」
「盗んでるだけだろ」
「ちゃんと返しました」
「貸出処理は?」
「できない」
「やっぱ盗んでる!」
「返したからセーフ」
「図書委員泣くぞ」
「その図書委員も私見えてませんから」
「強い」
森田は笑った。
「それで、本読むようになりました」
「へえ」
「最初は暇つぶし。小説とか全然興味なかったのに」
「何読んでた?」
「何でも。恋愛、ミステリー、ファンタジー。分厚いのは避けてました」
「そこは普通だな」
「あと」
森田は本棚を見上げる。
「伝記」
「意外」
「人がどうやって生きたか書いてあるから」
高瀬は黙った。
「私、自分の人生がよく分からなくなってたんです」
森田の指が、一冊の背表紙をなぞる。
「誰にも見えない。記録にも残らない。だったら私が今日学校に来たことって、本当に起きたことなのかなって」
「……」
「だから、他人の人生ばっかり読んでました」
誰かが生まれた。
誰かが失敗した。
誰かが愛された。
誰かが何かを残した。
文章の中では、人の人生には輪郭がある。
「変ですよね」
「いや」
高瀬は首を振った。
「全然」
森田は少し笑った。
「それで私、卒業する頃には」
「うん」
「図書室の本、百八十六冊読んでました」
「めちゃくちゃ読んでるじゃん」
「暇だったので」
「そこだけ聞くと優雅な中学生だな」
「透明人間の読書生活」
「タイトルにしたら売れそう」
「印税半分ください」
「なんで俺が書く前提なんだよ」
二人で笑った。
◇
図書室を出て、階段を下りる。
森田がふいに言った。
「先生」
「ん?」
「私、卒業したあとどうしたと思います?」
高瀬は考えた。
「高校……」
言いかけて止まる。
学校で認識されない人間が。
普通に高校へ進学できるのか。
「その顔」
「何だよ」
「今、私の人生めちゃくちゃ悲惨にしようとしたでしょ」
「してない」
「しました」
「心配しただけだ」
「普通に高校行きましたよ」
「行けたの!?」
「その驚き方失礼じゃない?」
「いや、だって」
「卒業した次の日から、家族には見えるようになりました」
高瀬が足を止めた。
「……何?」
「学校の外でも完全に見えなかったわけじゃないんです」
「待って」
「はい」
「そこ、めちゃくちゃ大事じゃないか?」
「そうですか?」
「そうだよ!」
森田は階段を一段下りたところで振り返る。
「私が消えたのは、世界全部からじゃありません」
「じゃあ……」
「学校と」
一拍。
「学校に関係する人たちからです」
高瀬の表情が変わった。
「家族は?」
「家に帰れば、普通に話せました」
「じゃあ家族は、学校で何が起きてるか――」
「知りませんでした」
「なんで言わなかった」
少し強い声になった。
森田の顔から笑みが消える。
高瀬はすぐに気づいた。
「……ごめん」
「いえ」
「責めたいわけじゃない」
「分かってます」
森田は階段に座った。
高瀬も一段空けて座る。
「言いましたよ。最初は」
「……」
「お母さんに、『学校で誰も私に気づかない』って」
「それで?」
「笑われました」
「笑われた?」
「『何それ、いじめ?』って」
森田は膝の上で指を組んだ。
「違うって説明しても、うまく伝わらなかった。次の日、お母さんが学校に電話したんです」
高瀬の喉が鳴る。
「学校は何て」
「『そのような生徒は在籍していません』」
「……」
「お母さん、その電話を切ったあと」
森田は笑った。
寂しい笑い方だった。
「私に言ったんです」
『あんた、どこの学校の話してるの?』
「家では見えてるのに?」
「はい」
「娘だって分かってるのに?」
「はい。でも」
森田は言った。
「学校の話になると、私がその学校に通ってることだけ分からなくなる」
高瀬は息を吐いた。
消去ではない。
もっと歪だ。
森田という人間そのものを消したのではなく。
学校と森田を結ぶ関係だけを。
切った。
「それから、学校のことは家で話さなくなりました」
「……そっか」
「でも家では普通でしたよ」
「普通?」
「テレビ見て、ご飯食べて、お母さんと喧嘩して」
「何で喧嘩した」
「洗濯物」
「急に生活感すごいな」
「脱いだ靴下をその辺に置くなって」
「森田が?」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃんかよ」
「私、巻き込まれただけです」
「理不尽」
「でしょう?」
森田が笑う。
その瞬間。
高瀬の中にあった「十三年間、誰にも見えず孤独に生きてきた森田」という勝手な像が崩れた。
当たり前だ。
森田にも。
高瀬が知らない日常があった。
泣いた日だけじゃない。
靴下で喧嘩した日もある。
好きなテレビを見た夜も。
笑った日も。
きっと。
「高校では?」
「普通」
「見えた?」
「見えました」
「友達は?」
「いました」
「良かった……」
「先生」
「ん?」
「今めっちゃ保護者みたい」
「元担任だからな」
「十三年ほったらかしたくせに」
「三回目!」
「今のは無料サービス」
「ありがたくねえ!」
森田が笑った。
高瀬も笑った。
笑える。
そのことが。
少し嬉しかった。
◇
二人が最後に向かったのは、職員室の隣にある資料保管室だった。
「ここ?」
「卒業アルバムありますよね」
「ああ」
高瀬は棚から該当年度の一冊を取り出した。
埃を払う。
二人で机に置く。
「見る?」
「そのために来ました」
ページをめくる。
行事。
部活動。
修学旅行。
文化祭。
そして。
クラス写真。
高瀬の指が止まった。
十三年前の自分。
「若っ」
森田が即座に言った。
「まずそこ?」
「髪多い」
「今もあるわ!」
「今、確認しました」
「やめろ!」
森田が笑いながら写真を見る。
やがて。
静かになった。
クラス全員が並んでいる。
高瀬もいる。
でも。
森田はいない。
「……本当にいないな」
「はい」
高瀬は人数を数えた。
一人少ない。
以前見た写真では、一瞬だけ「一人多い」ように感じた。
今は。
明確に足りない。
森田は写真を見つめていた。
「卒業式の日」
「うん」
「これ、撮ってるところ見てました」
高瀬は何も言わなかった。
「みんな、前詰めてーって言われて」
森田が指差す。
「ここ」
後列の端。
不自然に。
ほんの少しだけ。
人と人の間が空いている。
「私、ここに立ってました」
高瀬の胸が締めつけられる。
「写らないの分かってたんですけどね」
「……」
「一応、笑いました」
「なんで」
「写真だから」
当たり前のように言った。
高瀬はその一言に、何も返せなかった。
森田はページをめくる。
最後。
寄せ書きのページ。
印刷された余白には、生徒たちが互いに書いたメッセージが残っている。
『高校でもよろしく!』
『部活がんばれ!』
『また遊ぼう!』
森田はそこを眺めた。
「これだけは、ちょっと羨ましかった」
「寄せ書き?」
「はい」
「誰にも書いてもらえなかったから?」
「それもあるけど」
森田が笑う。
「私も誰かに書きたかった」
高瀬はアルバムを見た。
何も言わず。
机のペン立てから油性ペンを一本取った。
「先生?」
「貸せ」
「何を」
「アルバム」
「学校のですよ?」
「知ってる」
「備品ですよ?」
「知ってる」
「教師が落書き?」
「うるさい」
高瀬は寄せ書きのページを開いた。
空いている場所に。
ペンを置く。
「何書こう」
「え、本当に書くの?」
「お前が書いてほしかったんだろ」
「十三年前ですよ」
「だから十三年遅れ」
「またそれで全部押し切る気?」
「便利なんだよ」
森田が吹き出した。
「先生、それ私の『十三年カード』パクってる」
「教師特権」
「ないって言ってるでしょ」
高瀬は笑いながら。
書いた。
『卒業おめでとう。』
そこで止まる。
「……普通」
森田が言った。
「黙れ。今からだ」
続ける。
『頑張れなくても、卒業したな。』
森田の表情が変わった。
『ちゃんといたこと、今度は忘れません。』
高瀬悠介。
書き終える。
森田は。
しばらく何も言わなかった。
「……先生」
「ん?」
「油性ペンですよね」
「そうだけど」
「間違えたら消えないですよ」
「そこ!?」
「大事でしょ」
「今ちょっといい場面だっただろ!」
「昔から先生、詰めが甘いから」
「泣けよ!」
「強要しないでください」
そう言いながら。
森田は。
泣いていた。
「……泣いてるじゃん」
「うるさい」
「初めてタメ口きいたな」
「うるさい!」
高瀬は笑った。
森田も。
泣きながら笑った。
卒業式から十三年。
誰にも書かれなかった。
森田のための言葉が。
ようやく。
卒業アルバムに残った。
◇
「帰りますか」
校舎を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「ああ」
森田が一歩先を歩く。
「森田」
「はい?」
「今、何してるんだ」
森田が振り返った。
「仕事?」
「うん」
「知りたい?」
「知りたい」
「当ててください」
「教師」
「絶対嫌」
「即答!?」
「先生見てたら大変そうだから」
「否定できない」
「三回転職しました」
「意外」
「一回目、事務」
「うん」
「二回目、書店」
「図書室から繋がってるじゃん」
「三回目」
森田は少しだけ間を置いた。
「今は、人の話を聞く仕事してます」
「……カウンセラー?」
「近いけど違います」
「相談員?」
「それも近い」
「何だよ」
「まだ秘密」
「そこ隠す必要ある?」
「あります」
「なんで」
森田は歩き出した。
数歩進んで。
「先生」
振り返る。
「私以外にもいるから」
高瀬の足が止まった。
「……何が」
森田の表情から。
笑みが消えた。
「記録からこぼれた人」
風が吹いた。
校門脇の木々が揺れる。
「私、そういう人たちの話を聞いてます」
「待って」
高瀬が追いつく。
「そういう人たちって、何人いる」
「先生」
「うん」
「今日、私たち何の話してました?」
「え?」
「人を数字にしたら、こぼれるものがあるって」
森田は。
少し寂しそうに笑った。
「だから」
「……」
「最初に人数を聞くの、やめません?」
高瀬は。
言葉を失った。
「……ごめん」
「謝らなくていいです」
森田は校門の外へ出る。
「今度、会わせます」
「誰に」
森田は答えなかった。
代わりに。
「高瀬先生」
「ん?」
「次は遅刻しないでくださいね」
高瀬は笑った。
「十三年よりは早く行く」
「ハードル低すぎ」
森田も笑った。
そして。
十三年前にはできなかった。
別れの言葉を。
今度は。
ちゃんと交わした。
「またな、森田」
「はい。また」




