Review11 十三年遅れの面談
椅子を引く音は、高瀬のすぐ後ろから聞こえた。
反射的に振り返ったものの、そこには誰もいない。
最後列の机。少しだけ引かれた椅子。夕方の薄い光が窓から差し込み、床に長い影を落としている。
さっきまでと何も変わっていない。
それなのに、高瀬は動けなかった。
『対象者を確認しました。』
『現在地――この校舎内』
スマートフォンに残った文字を、もう一度見る。
「……いるんだろ」
返事はない。
高瀬は教室の中央まで歩いた。
「十三年前、約束した」
自分の声が、妙に大きく聞こえる。
「明日、もう一度話すって」
胸の奥に、ずっと何かが引っかかっていた。
申し訳なさ。
怖さ。
それと同じくらい、会いたいという気持ち。
名前すら思い出せない相手に会いたいなんて、おかしな話だった。
「……遅くなった」
十三年。
遅刻にもほどがある。
生徒なら指導案件だ。
そんなくだらないことが頭に浮かび、自分で少しだけ笑った。
「先生失格だな、これ」
「本当に」
声がした。
高瀬の笑みが消えた。
女の声だった。
後ろではない。
教室の入口。
ゆっくり振り返る。
一人の女性が立っていた。
二十代半ばほどだろうか。肩まで伸びた髪。黒いパンツに、淡い色のブラウス。鞄を片手に持ったまま、扉のところからこちらを見ている。
見覚えがあった。
高瀬の心臓が、一度大きく鳴った。
「……あなた」
第二章が始まった日。
大量のReviewが街中に現れた時。
高瀬の前に突然現れて、
『押さないで』
そう言った女性。
★★★★★が危険だと知っていた。
SYSTEMの「最適化」が何をするのかも知っていた。
「あの時の……」
「はい」
女性はそれ以上言わなかった。
高瀬も言葉が続かなかった。
知りたいことは山ほどある。
どうしてReviewを知っている。
なぜSYSTEMのことを知っている。
なぜ今まで黙っていた。
十三年前、何があった。
どうして存在を消された。
何より。
あなたは誰なんだ。
全部、一気に聞きたかった。
けれど。
高瀬は口を閉じた。
女性が少し眉を上げる。
「聞かないんですか」
「……何を」
「いっぱいあるでしょう」
「ある」
「すごい顔してますよ」
「どんな顔」
「質問百個くらい我慢してる顔」
「そんな顔ある?」
「今、初めて見ました」
少しだけ笑った。
その笑い方を見た瞬間、高瀬の胸の奥で何かが揺れた。
知っている。
そんな気がした。
でも、記憶には届かない。
輪郭だけがある。
名前だけ抜けている。
「座るか」
高瀬は近くの椅子を引いた。
女性は教室を見渡したあと、最後列へ向かった。
窓側。
さっき音がした席。
そこに座る。
「……そこなんだ」
「昔、ここでした」
高瀬は息を止めた。
「この席?」
「はい」
女性は机の表面を指先で撫でた。
「もちろん机は変わってますけど」
「覚えてるんだな」
「私は」
そこで言葉を切った。
「覚えてますから」
責めるような口調ではなかった。
だから余計に痛かった。
高瀬は向かいの席を反対向きにして座った。
教師と生徒が面談するには、少し変な配置だった。
女性がそれを見る。
「昔もそうでした」
「え?」
「先生、面談の時、机を挟んで正面に座るの嫌いだったでしょ」
高瀬の背中に鳥肌が立った。
「圧迫面接みたいだからって」
覚えていない。
でも。
「……言いそう」
「言ってました」
「恥ずかしいな」
「十三年経っても変わってないですね」
「成長してないみたいに言うなよ」
「そこは、これから採点します」
「やめてくれ」
女性が笑った。
今度は、高瀬も少し笑えた。
ほんの数秒。
十三年という時間が消えたような気がした。
目の前にいるのが、大人の女性ではなく。
昔、この席に座っていた生徒のように見えた。
でも次の瞬間。
高瀬は気づく。
知らない。
自分は。
この人の大人になった十三年間を、何一つ知らない。
「……ごめん」
女性の笑みが止まった。
「何がですか」
「いろいろ」
「便利ですね、その謝り方」
「逃げたな、今」
「教師がそれでいいんですか」
「よくない」
高瀬は膝の上で手を組んだ。
「だから、ちゃんと言う」
女性を見る。
「約束したのに、次の日、お前を見つけられなかった」
「はい」
「声も聞けなかった」
「はい」
「そのあと、存在してたことまで忘れた」
「……はい」
「今も名前を思い出せない」
最後の一言を口にするのが、一番苦しかった。
女性は視線を落とした。
窓の外から運動部の掛け声が聞こえた。グラウンドの土を蹴る音、笛の音。それらがやけに遠く感じる。
「ごめん」
高瀬は言った。
「覚えてるなんて、もう言わない」
前回。
『覚えてるよ』
と言いかけた。
あれは、自分を楽にするための言葉だった。
「思い出せてない。それが今の本当だから」
女性はしばらく何も言わなかった。
「……昔より」
「うん」
「嫌な先生になりましたね」
「え」
予想外すぎて、高瀬が顔を上げる。
「昔なら絶対、『大丈夫、きっと思い出すから』とか言ってた」
「……言いそう」
「言ってました。そういうのいっぱい」
「マジか」
「マジです」
「十三年前の俺、ちょっと黙れ」
女性が吹き出した。
「自分で言う?」
「今、恥ずかしくなってきた」
「でも」
笑いながら。
女性は少しだけ目を細めた。
「私は、あの先生も嫌いじゃなかったです」
高瀬は黙った。
「間違えたから嫌いになるなら、人なんて誰も好きになれないですから」
「……」
「ただ」
声の温度が変わった。
「辛かったです」
高瀬は何も言わなかった。
今度こそ。
先回りしない。
「十五日目。先生、私の前を何回も通りました」
女性は窓の外を見る。
「最初は冗談だと思ったんです」
「冗談?」
「『先生、無視するなー』って」
少し笑う。
「ほんとに、そんな感じでした。昨日あんなに話したのに、今日は何してんのって」
その笑顔が。
ゆっくり消えていく。
「でも、友達も同じでした」
「……」
「隣の席の子に話しかけても返事がない。肩を叩こうとしても、避けるわけじゃなくて……そもそも、そこに私がいる前提で動いてない」
高瀬は息を詰めた。
「廊下を歩く時が一番怖かった」
「なんで」
「みんな、ぶつかるんです」
「……」
「見えてないから」
淡々とした声だった。
だからこそ、その光景が鮮明に浮かんだ。
朝の廊下。
何十人もの生徒。
その間を、一人の少女が歩く。
誰も避けない。
誰も目を合わせない。
ぶつかっても。
謝らない。
悪意がないから。
存在していることを知らないから。
「給食もなかったです」
「……読んだ」
「あれ、地味に一番きつかったな」
女性は笑った。
「悲惨さの基準そこ?」
「中学生の昼ご飯なめないでください」
「すみません」
「お腹すくし」
「そこは普通なんだな」
「消えてもお腹は減ります」
「SYSTEM、融通利かなさすぎるだろ」
二人とも笑った。
けれど。
高瀬は、笑いながら苦しくなった。
十三年前。
この子は。
こんなふうに笑える状態ではなかったはずだ。
「それでも来たんだな」
「学校?」
「うん」
「……来ました」
「何日も」
「来ました」
「俺が約束したから?」
女性はすぐには答えなかった。
「最初は」
机の上に指で小さな円を描く。
「先生が気づくと思ってたんです」
「……」
「今日はダメでも、明日なら。明日ダメでも、その次なら」
円が。
何度も重なる。
「先生、私に言ったから」
女性が、高瀬を見る。
「『明日、もう一度話そう』って」
高瀬は何も言えなかった。
「だから、明日をずっとやってました」
その言葉に。
胸を掴まれた。
「……ずっと?」
「はい」
「どれくらい」
女性は一瞬だけ黙った。
高瀬はしまったと思った。
聞き出している。
「悪い。言いたくなかったら――」
「三百二十七日」
「……え?」
「学校に来た日です」
高瀬の思考が止まった。
「三百……」
「土日と長期休みは来てないですよ」
「そこじゃない」
「ですよね」
「一年近く……?」
「卒業まで」
高瀬は。
何も言えなくなった。
十五日目だけじゃない。
一週間でもない。
この子は。
誰にも認識されないまま。
卒業まで学校へ来た。
「……卒業式も?」
「いました」
女性は笑った。
「椅子はなかったけど」
高瀬の顔が歪む。
「その顔やめてください」
「無理だろ」
「私、今生きてますから」
「それで平気だったことにはならない」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
女性が目を見開いた。
高瀬は続ける。
「生きてるから、あの一年がチャラになるわけじゃない」
女性は黙った。
「……そうですね」
小さく答えた。
しばらく。
二人とも何も話さなかった。
◇
「先生」
先に口を開いたのは女性だった。
「私が誰か、知りたいですか」
「知りたい」
即答した。
「めちゃくちゃ知りたい」
「正直ですね」
「十三年待たせて、ここでも格好つけたら終わりだろ」
「じゃあ」
女性は鞄からスマートフォンを取り出した。
机の上に置く。
「名前、聞きます?」
高瀬は口を開いた。
でも。
止まった。
「……いや」
「え?」
「先に一個だけ」
「何ですか」
「お前が話したかったこと」
女性の表情が変わった。
「十三年前」
高瀬は言った。
「俺と、もう一度何を話したかった?」
名前。
SYSTEM。
Review。
今すぐ聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
十三年前の面談は。
まだ終わっていない。
「それを先に聞かせてほしい」
女性は、高瀬を見ていた。
長い沈黙。
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……先生」
「うん」
「私、あの日」
声が少し震えた。
「学校辞めたいって、言いたかったんです」
高瀬は黙った。
「でも先生、私が『しんどい』って言ったら」
女性は苦笑した。
「『大丈夫。今は疲れてるだけだよ』って」
まただ。
高瀬は目を伏せそうになった。
でも。
逃げずに見る。
「『少し休めば、また頑張れる』って」
「……うん」
「私、それ聞いて」
女性の指が。
机の下で強く握られた。
「頑張れないって言えなくなった」
高瀬の胸が痛んだ。
「先生が悪かったって言いたいんじゃないです」
「それ、今は言わなくていい」
「でも」
「俺が楽になるから」
女性の言葉が止まる。
「お前が今、俺を庇う必要ない」
「……」
「十三年前に言えなかったことを言って」
高瀬は続ける。
「今日くらいは」
女性の唇が震えた。
目が潤む。
それでも泣かない。
「じゃあ」
小さく息を吸った。
「先生」
「うん」
「私」
十三年。
遅れた言葉。
「頑張りたくなかった」
高瀬は。
「うん」
それだけ答えた。
「学校も嫌だった」
「うん」
「友達のことも嫌いになってた」
「うん」
「家にも帰りたくなかった」
「うん」
「何にもしたくなかった」
「うん」
「でも」
とうとう。
涙が落ちた。
「そんな自分が一番嫌いだった」
高瀬は。
何も足さなかった。
大丈夫。
そんなことない。
頑張らなくていい。
今なら言えそうな言葉はいくつもあった。
でも。
十三年前の彼女が欲しかったのは。
正解ではない。
「……うん」
高瀬はもう一度。
ただ。
そこにいた。
◇
泣き終わるまで、二十分ほどかかった。
女性はティッシュを何枚も使い、最後には机の上に小さな山を作った。
「……最悪」
「何が」
「十三年ぶりに会った先生の前でこれ」
「十三年前の面談の続きだからセーフ」
「何ルールですか」
「教師特権」
「絶対ない」
鼻声で笑う。
高瀬は立ち上がった。
「飲み物買ってくる」
「逃げます?」
「この空気から?」
「はい」
「正直、ちょっと逃げたい」
「最低」
「でも喉乾いただろ」
「……ミルクティー」
「注文するんかい」
「十三年待ったので」
「強いな、そのカード」
高瀬が教室を出ようとする。
「あ」
女性が呼び止めた。
「先生」
「ん?」
「コーヒー、ブラックやめたほうがいいですよ」
高瀬が振り返る。
「なんで」
「昔も無理して飲んでました」
「……は?」
「格好つけて」
「いやいや」
「一口飲むたび顔しかめてました」
「嘘だろ」
「覚えてないんですか?」
「そこまで消す必要ある?!」
女性が。
今度は声を出して笑った。
その笑い声を聞いて。
高瀬の中で。
突然。
教室が変わった。
◇
十三年前。
『先生、またブラック飲んでる』
少女が笑っている。
『うるさい。大人だから飲める』
『顔めっちゃ苦そう』
『苦くない』
『じゃあ一気飲みして』
『教師に無茶振りするな』
笑い声。
窓側。
最後列。
髪を耳にかける仕草。
ノートの端に。
星の絵。
そして。
『先生』
名前。
高瀬の目が見開いた。
◇
「――森田」
女性の笑い声が止まった。
高瀬自身も。
息をしていなかった。
「……森田」
もう一度。
今度は。
はっきり。
「森田、だ」
女性の目から。
さっき拭いたはずの涙が。
また。
溢れた。
「……遅いですよ」
高瀬は笑った。
「ごめん」
「十三年ですよ」
「うん」
「先生、本当に遅い」
「うん」
森田は泣きながら笑った。
「……お久しぶりです、高瀬先生」
高瀬は。
十三年ぶりに。
ようやく。
自分の生徒を見ることができた。
「久しぶり、森田」




